惑乱
『もしもし? 里桜? 何かあったのですか?』
電話越しに響くヴィベルの声を聴きながら、里桜は溢れる涙を抑えながら首を左右に振った。
「なんにもないよ」
『今ホテルですか?』
「うん。でも、ファメールさんとは違うホテルだよ」
『何故です!? 一人では危険です! 家が放火に遭ったばかりなのですよ!? 今すぐファメールのところへ戻ってください!』
「一緒には居られないよ。甘えたらだめなんだもん。私、ファメールさんを傷つけちゃう!」
涙声の里桜に気づき、ヴィベルは唇を噛んだ。
『……すぐに迎えに行きます。どちらのホテルですか?』
ホテル名をヴィベルに告げて電話を切ると、里桜はベッドの上に倒れ込むように身を預けた。
——食事を終えた後、ファメールの待つシガーバーへと向かった時の事を里桜は思い出していた。
照明を落とし、ジャズが静かに流れる店内でファメールがじっくりと葉巻を愉しみながらブランデーを飲み、里桜の姿が見えると嬉しそうに金色の瞳を細めた。
「やあ、もう来てくれたのかい? 食事が途中だったんじゃないかな?」
「ファメールさん、ごめんなさい」
唐突に謝罪する里桜に対し、ファメールはあからさまに不機嫌そうに眉を寄せた。
「……何がさ?」
「傷つけちゃってごめんなさい」
ファメールはため息をつくと、里桜にソファに座る様にと促した。ゆっくりと浅く葉巻を吸い、長くなった灰を灰皿で折るように落とす。里桜の為に甘めのカクテルを注文し、ブランデーを一口飲むと、再び葉巻を浅く吸った。
「唐突に一体何だっていうのさ? 傷つけたって、何の事だい?」
「聞いたの。アリエルさんは、前にアルカの事が好きだったって」
里桜の言わんとすることを察したのか、ファメールはふわりと煙を吐いて里桜を見つめた。
「……なるほどね、アルカから心変わりしたから僕が気にいらないと思ってるんだとでも? アリエルの事なんかどうだっていいよ。それと、キミが謝る事と結びつかないんだけれど?」
「私がファメールさんに居なくなって欲しくない言った事も、ファメールさんにとってはアルカの代わりだって、そんな風に思ったのかなって……」
「代わりかどうか、キミ自身だって分からないんじゃないのかい? キミは自分の気持ちだって分かっていないんだから。今現在アルカの事を想っているのかどうかすらね」
苛立った様にファメールが口にする言葉に、里桜はびくびくしながら頷いた。店員が琥珀色のカクテルを里桜の前へと置き、去っていくと、ファメールは深いため息を吐いた。
「わかんない……けど、もし傷つけちゃったんなら謝らなきゃって思ったから」
「傷なんてものは何もしなくてもつくんだよ。そんなことをいちいち気にしていたら生きてなんかいられないだろう?」
「でも、傷つけたくないよ。私の行動で大切な人が傷ついちゃうなんて嫌だもん!」
「良い人ぶるのは止めてくれないか。傷つくのを恐れているのは、僕じゃなくキミの方なんじゃないのかい?」
ファメールの指摘に里桜は絶句し、俯いた。
——傷つくのを恐れているのは私……?
確かにそうかもしれない。高校生の時の様に、また独りぼっちになるのを恐れている。皆が私から離れてしまうことが堪らなく怖い。
嫌われたくない……。
「……飲まないの?」
運ばれてきたカクテルを勧めたが、里桜が押し黙ったままだったので、ファメールは苛立った。葉巻を浅く吸い、不味いと感じて眉を顰める。ふと、里桜の言う「傷」とは、ファメールの身体にある無数の傷をやはり醜いと思っての事なのではと、卑屈な思いが過って、そんな自分に苛立った。
何かに耐えるように唇を噛みしめる里桜を見つめ、その柔らかい唇から血が出てしまうのではと心を痛めた。
「唇を噛むのを止めた方がいいよ」
ファメールの言葉は里桜の耳には入っていなかった。
「里桜?」
溜息をつき、グラスに口をつけない里桜の代わりにファメールがカクテルを口に含むと、里桜の顎へと手を掛けて口移しにカクテルを飲ませた。甘い濃厚な味わいが里桜の口に広がり、喉を流れる。
里桜の唇の柔らかさを感じながら、ファメールはぎゅっと締め付けられる様な胸の痛みを味わった。
——里桜は、『僕を傷つけた』と言った。それはつまり、これから僕を傷つけるのだと予告しているのと同じことだ。アルカに再会したのなら僕にこうして触れさせる気はないのだろう。
彼女にとって『僕』とはその程度なのだと言う事なのだ。アルカには到底及ばないのだと、そう言いたいのか。
「僕を傷つけたと、キミ自身が罪の意識で傷つくことを恐れている。違うかい?」
まだ自分の気持ちすら理解していない。そんな状態で拒絶されるのはいくら何でも不条理ではないか?
ファメールはチラリと里桜を見つめた。里桜は先ほどのキスで頬を紅潮させ、相変わらず男性に免疫が無いのだと言わんばかりに瞳を潤ませて俯き、その様子が堪らなく愛おしく感じた。
「キミに傷つけられる程、僕はヤワじゃない。何一つ自分から動こうともせず、受け身でいるだけのキミなんかにね」
里桜はファメールの言う意味が理解できず、悲し気に眉を寄せた。
「受け身?」
「ああそうさ! 傷つきたくないって怖がってばかりいて、キミからは何も動こうなんてしやしないじゃないか。自分の気持ちを確かめる為に何か行動を起こしたかい? 傷ついたって、傷つけたって、自分からぶつかってみたらいいじゃないか! 僕をバカにするのもいい加減にしてくれ」
——自分からぶつかる? ファメールさんの言う通り、私は甘えてばっかりで、自分から動いていない……。何もしないでいたら、そしたらまた…?
「傷つくことを恐れてばかりいたら前に進むことなんかできやしない。周りの足を引っ張るだけのキミに、何の価値があるっていうのさ? そんな風に物怖じして動けないでいる間に、キミの周りからは傷つける相手すら愛想つかしていなくなってしまうだろうさ!」
ヒヤリと里桜は背筋が凍り付いた。
また、独りぼっちになってしまう……? 何もしないでいると…。
「さあほら。特訓してやるよ。僕がキミにね! いつまでも受け身で居ればいい。戦う事をせずに、自分の手に舞い込んできたものだけを文句を言わずに受け止めて、満足していればいいじゃないか! キミにはそれがお似合いさ! そんなキミになんか僕が傷つけられるとでも思ってるのかい!? アルカだってそんなキミなんか願い下げだろうさ!」
「どうすればいいの……?」
震える声を発した里桜の頬をするりと長い指で触れると、ファメールは寂しげに金色の瞳を細めた。
「キミの気持ちを確かめたらいいじゃないか。キミにだって選ぶ権利がある。欲しいと思うならその為に戦う気にもなるだろうさ。例え自分が傷だらけになったとしてもね」
「確かめてもいいの?」
「やってみたらいいじゃないか。どうせできやしないだろうけれどね」
ファメールがカクテルのグラスに口を付けようとしたとき、里桜がそのグラスを手でそっとどかし、代わりに里桜の方からファメールの唇にキスをした。両肩を抱き、舌を差し入れてファメールの口内に残る甘い貴腐ワインのカクテルを吸いつくす。
ただただ、ファメールの事を自分はどう思っているのかを確かめたい。確かめなければいけないのだという一心だった。仄かに香る金木犀の香りも、煌めくプラチナブロンドの髪も、胸が締め付けられる程に愛しいと感じた。その事実が悲しみを帯びて、里桜はファメールを感じながらも苦しくて堪らなかった。
柔らかい里桜の唇はとろける程に心地良く、遠慮がちに掴んだファメールの肩で震える細い指の感触と、顔を近づけた時に触れている胸の温もりとを味わいながら、ファメールは陶酔しそうな自分の意識に狼狽えた。
唇を離し、迂闊にも高鳴る心臓に耐えきれずにネクタイを緩めた。
なかなかに積極的じゃないか、と、金色の瞳を里桜に向けると、里桜はブルージルコンの瞳からポロポロと涙を零した。
「どうしよう、ファメールさん。増々わかんなくなっちゃった…」
幾筋も頬を涙が伝い、里桜の膝の上にポタポタと零れ落ちる様を、ファメールは唖然として見つめた。
「ファメールさんの言う通り、アルカと再会したらどうなっちゃうんだろうって、不安が強くなっちゃった。怖い。アルカに会うのが怖いって思っちゃう。どうしよ……」
里桜の反応にファメールは妙な違和感を覚えた。
里桜がアルカとの再会を恐れる事になるのは望んではいない、と、ファメールは眉を寄せた。そうじゃない。僕は、そんなことを望んでなんかいない。では、僕の望みとは一体何だろうか…?
「一歩前進したってのに、怖がる必要なんか無いじゃないか。キミの気持ち通り素直に行動すればそれでいい」
「違うの、私にはそんな資格なんか無いから。誰かと付き合ったりする資格なんか、私には無いんだもの。それなのに、向き合う事なんかできないよ!」
またその話か、と、ファメールはため息をついた。
里桜の言う『資格が無い』とはどういう意味なのだろうか。それが理由で僕を遠ざけるのだとしたら、アルカに対しても同様ということだろう。
「キミは、アルカともつきあう気は無いと言っているの?」
「……うん。誰とも付き合えないよ」
「自分の気持ちが分からないからかい?」
「分かりたく無いの……知ってしまったら傷つくから、わざと見ないふりをしてるのかも。ファメールさんの言う通り、私は自分で向き合おうとしてないから。ただ、どうしても一人にはなりたくないの」
「全く、訳がわからない……」
苛立った様にファメールがため息をつき、里桜は不甲斐なさで瞳を潤ませた。
「とにかくキミは、僕の事をさほど大事に想ってなんかいないということだね。考えるに及ばない、そういうことだ」
「そうじゃないよ! そんなんじゃ…! 甘えちゃいけないって思ってるだけで」
「同じことさ」
——里桜。キミは、アリエルが押し掛けて来た時、ヤキモチを微塵も妬かなかっただろう? それが答えなんじゃないかな。僕が苛立ったのはアリエルに対してじゃなく、キミが不満を顔に全く出さなかったからさ。
けれど、人の気持ちというのは変わりやすい。僕はそこに希望を持つべきなのか、絶望すべきなのか分からない。
「馬鹿馬鹿しい。僕はね、キミが僕をどう思っていようと関係ない。そんな事、どうだっていいよ」
強がりの様な言葉を吐きながらも、それはファメールの本心でもあった。肝心なのは、アルカが帰って来る事だ。そこからやっと進める事ができるのだから。里桜が今時点で誰を想っていようが関係ない。
しかし、里桜はファメールのその言葉を別の風に捉えた。ファメールは里桜の事を想っていないのだから、里桜がファメールをどう想っていても関係ないと言いたいのだろうと捉えたのだ。
「……ファメールさんは、アリエルさんと結婚する気は無いの?」
「絶対無い」
「誰か好きな人が居るからなの?」
里桜の問いかけに、ファメールは苛立った。そんなこと、決まってるじゃないか、いい加減にしろと言わんばかりに声を発した。
「僕は……!」
……僕は、どうして里桜を欲している? 何故だ?
『全部ひとりで背負って、一人で傷ついてないで、もっとオレを頼ってくれよ!』
灰色の瞳を向けてそう言うアルカ。そんな事を言いながら、一番に傷ついて矢面に立ち続けているのはアルカだった。
……僕は、アルカのその行為を利用した。
アルカが家を出ると言った時、僕は止めなかった。どこに行くのか知っていながら止めなかった。僕はすでにその時天文学への道を歩もうとしていた。養父に凄まじい負荷を掛けられるアルカを、僕は見捨て続けたんだ。
自分かわいさに……
それが、罪悪感となって僕の心に深く深く突き刺さり、常に痛みを発している。
里桜がはっきりしないせいなんかじゃない。
僕のせいなんだ。里桜に傷つけられるんじゃなくて、傷つけられたい。それを僕は望んでいるんじゃないのか? この手にした宝物、達成感で満ち溢れた幸せを全てアルカに奪われる事で、自分が傷けられる事で、アルカに対する罪悪感を払拭しようと思っているだけなんじゃないのか?
「ファメールさん?」
押し黙ったファメールに、里桜が心配そうに声を掛けた。
「……里桜。すまなかったね。もう僕を気にする必要なんてない」
ファメールは深くため息をつき、消えかかった葉巻を浅く吸い、煙を吐いた。
「僕はただ、自分の背徳行為にキミを利用しようとしているだけなのかもしれない。キミに、僕は友人としても相応しくない。一緒に居ない方がいい」
突然そんなことを言い出したファメールに、里桜は唖然としてブルージルコンの瞳を見開いた。
「ファメールさんは、私と一緒に居たくないってことなの?」
里桜はズキズキとする胸の痛みに耐えながら問いかけた。
「私の事、嫌いなの?」
「……わからない。すまない」
里桜の頭を優しく撫でて、ファメールは微笑んだ。
「悪いけど、一人にしてくれないかな」
ブルージルコンの瞳から涙を零し、里桜は眉を寄せて肩を震わせた。
——私、ファメールさんに嫌われちゃった。呆れられちゃったんだ!
と、幾筋も涙を頬に伝わせた。
何が悪かったのだろうか。全てが? 取り返しがつかないの? もう、お終いなの? 嫌。そんなの嫌だよ。
私、ファメールさんを傷つけちゃったんだ……。
嗚咽を漏らしながら泣く里桜を、ファメールはため息をついて見つめた。
「里桜、泣かないでくれないか」
顔を背けてファメールが言った。里桜が涙を零す度、自己嫌悪の気持ちが強くなる。これ以上彼女の泣き顔を見ているのはキツイな、と、ファメールは席を立とうと考えた。
涙を手の甲で拭いながら、里桜は泣き癖のついてしまった呼吸を必死で整えようとした。
「だめ、止まんない……」
ヒック! と、声を発しながら泣きじゃくる里桜に堪らない程に胸が締め付けられて、ファメールが困った様に微笑んだ。その微笑みが余りにも優しく綺麗で、里桜はハッとした。
……きっと今自分は涙で汚れて酷い顔をしているに違いない。ハンカチもティッシュも部屋に忘れたままだ。女性として最悪な落ち度だ。鼻水も垂れてきた。こんな顔を見られたら、潔癖症の彼に増々嫌われるだろうし、みっともなくて尚更一緒になんか居たくないと思われるだろう。
……ヤバ!
と、顔面蒼白になり、恥ずかしくて居てもたっても居られずに立ち上がると、慌ててその場から逃げ出した。
「え……?」
ポツンとその場に取り残されて、ファメールは唖然とした。立ち去る里桜の背中が小さくなるまで身動きが取れない程に思考停止した自分に、更に唖然とする。
「ちょっと! そっちはロビーだろう!! 何処へ行くつもりなのさ!」
慌てて立ち上がり、スマートフォンを取り出して電話を掛け、ファメールは気が気じゃないといった風にまくし立てた。




