ラファエルの懺悔
————もう、何日食事を口にしていないだろうか。
乾燥してひび割れた唇を動かすと痛む為、私は虚ろな目を僅かに上げて食卓を見つめた。用意された食事から放たれる匂いに吐き気をもよおし、視線を外して口を押えた。自分の手の甲をぐっと噛み、気分の悪さと格闘する。
思い出すのは極上の肉の味だ。私にとってはそれが最悪の記憶であるというのに、口の中に、頭の中に、記憶に沁みついて離れないのだ。
あの日、普段は落ち着きが無く苛立ってばかりいる父が、不気味な程に穏やかな笑みを浮かべていたことを覚えている。食事を満足に与えられず、やせ細った体躯の私の背を撫でて、父が「今日はお腹いっぱいに食べよう」と言ったのだ。夢だろうかと疑う程に、私は飢えていた。週に一度、家を出た母親がクスクスを持って来てくれる事だけが、私の命を繋いでいたのだから。
パリの十八区では毎週金曜日に、クスクスを無料で振舞うレストランがあるのだという話は、随分後になってから知った事だった。
「さあ、食べようか」と、父がテーブルに置いた料理が、まさに忘れる事ができない味となった。
——あの『肉』だ。
よく油が乗っているのに、ほんのりと酸味のある変わった味の肉。それまで味わった事の無い程に美味しく、父がどこから手に入れたのだろうかと疑問に思ったが、そんなことなど後回しで良いと思える程に私はがっついた。
人生で初めてのごちそうに涙すら零し、美味しい、美味しいと何度も言いながら頬張った。飢えで麻痺した胃を、ゆっくりと正常に緩和し、満たしていく至福を味わう。その様子を、父は満足気に見つめていた。
今日は母がクスクスを持ってきてくれる日だ。幼少の私はほんの少しの時間すらも待ち切れず、食べきれなかった肉をタッパーに入れて母の元へと向かう事にした。雑居ビルの一角の粗末なアパートの一室を借りている母も、私の様にやせ細っている。
普段は貰う側だが、この美味い肉を母にも味わって貰いたい。そうすれば、父の元に帰ってきてくれるかもしれないと、幼い私は簡単に考えていたのだ。
サプライズなのだから母を驚かせたかった。何度も何度も口の周りを手の甲で擦り、肉汁がついていないか念入りに確かめた。
大丈夫。何もついていない。きっと気づかれないはずだ。母の驚く顔が早く見たいと、ドキドキしながら家のドアに手をかけた時、数人の大人達に取り押さえられた。
「やめ……離してっ!!」
彼らは、誰が呼んできたのだろうか? ひょっとして、母の作ったクスクス以外を口にした私を罰する為に? 母に黙って食べ物を口にした子は、どんな罪に問われるのだろうか?
「ごめんなさい!! ごめんなさい!!」
「落ち着いて、君を傷つけたりしない! さぁ、静かに。落ち着いて」
暴れる私を宥めながら、彼らは私を保護しに来たのだと言った。彼らの言っている意味を理解することができずに呆然と佇む。
キィ……と開いた母の部屋の中に、警官が何人もいる事が伺い知れた。母はどうしたのだろうか? 中で何が起こっているのだろうか? 私は保護しに来た大人達の話を聞くフリをしながら、室内の話し声へと耳を傾けた。
「被害者はこの家に住む女性」
「遺体の一部が切り取られている」
「一体どこに?」
「屋内には見当たらない。犯人が持ち出したのだろう」
「何に使うのだろう?」
「さあて、殺人犯の考える事は……」
カツン、と、私は小箱を落とした。容器の蓋が開き、地面に先ほどの食欲を刺激する芳醇な香りが漂った。
「う……うえっ……ええ……」
突然嘔吐をする私を慌てて大人達が気遣い、背を撫でた。骨ばった背に驚いた様に視線を交わしていたが、私にはそれを振り払う余裕すら無かった。
父が私に食べさせた『肉』は、母の肉体の一部だったのだ。
胃の中のものを吐き終える前に、すでに衰弱しきっていた私はそのまま気を失った。
保護された時、私は五歳。体重は十三kgだったそうだ。その年齢での平均体重は二十kg前後だと言うので、衰弱していたのも頷ける。
今思えば、何故生まれてくることができたのかと問いたい程に両親の私に対する扱いはぞんざいなものだった。一度も名前を呼ばれた事が無く、そのせいで私は本当の名を知らないままに育ったのだから。
そして当然ながら、私には摂食障害が付きまとった。それは常に私を蝕み、心にダメージを負うと、味覚が感じられなくなるのだ。食事を摂ることが苦痛で仕方が無い。特に、『肉』はこの先一生口にする事ができないだろう。
「ラファエル、また食べないつもり?」
はぁ、とため息をつき、リタはうんざりした様に私を見下ろした。
「ただでさえそんなにガリガリに痩せてるのに、栄養失調で倒れるわよ。また点滴が必要かしら?」
テーブルの上に置かれたほとんど手つかずの料理を前にして、私は黙って俯いた。リタが再びため息をつくと、電話が鳴った。
何やら会話した後に、彼女はいそいそと鞄を手に出かける準備をし始める。恐らく病院からの呼び出しだろう。リタは女医だ。いつも忙しくしていて、食事も掻っ込むだけ掻っ込んで早々に家から出て行くが、それでも出来る限り自宅で食事を摂る様にと努力していた。
唯一の家族団らんの時間だと考えていたのだろうが、私は生憎彼女の家族と呼べる様な立場の人間ではないし、何より食事の時間が苦痛だった。
何故リタは、フランスの孤児院から里親に引き取られる予定だった私を、強引に日本へと連れて来たのだろうか。結局私は里親になるはずだった人物の顔を一度も見ることなく、日本にあるリタの家に住む事になったのだ。ラファエルという名は、里親になる予定だった人が私につけてくれた名なのだそうだ。呼ばれても返事をすることにどうにも躊躇ってしまうのは致し方ない。
「にいに」
つん、と洋服の裾を引っ張られて見ると、キラキラとしたブルージルコンの瞳を私に向けて微笑む少女の姿があった。リタの一人娘、里桜だ。人見知りが激しく、私以外には懐かないのだと言う。
「ねぇ、あそぼ!」
「……わかりました」
十も歳の離れた里桜の遊び相手は私の役目だ。リタは恐らくその為に私を日本に連れてきたのだろうと考えた。里桜は生まれた時から病を抱えているらしい。とはいえ、人見知りな事以外は特段何の障害もない普通の少女だ。
彼女の父、総一朗の話では、里桜は両親以外誰とも口を利きたがらないのだと言う。それが何故か私には現れず、総一朗が涙して喜ぶ程に懐いているのが不思議だった。
リタは自分の事を「姉さん」と呼ぶようにと言っていた。となれば、私にとって里桜は姪という事になるのだろうが、彼女は私を「にいに」と呼んでいた。勿論、リタの前では「ラファエルさん」と呼ばなければ叱られる為、歳の割に順応して呼び分けていた。
「何をして遊びましょうか」
席を立とうとする私に里桜は小さな頭を左右に振って制すと、自分の席から料理の乗った皿を持ってきて、私の隣の椅子を引いてちょこんと座った。三歳の彼女には大人用の椅子が大きすぎて、テーブルとの高さが合わない。
「里桜ちゃん、椅子、持って来ましょうか?」
「だめ。にいには座ってて!」
彼女は何をしようとしているのだろうか、と、黙って見ていると、大人用のナイフとフォークを手に持って、プイっと私から顔を背けた。
「えーと、里桜ちゃん?」
日本語が未熟な私は、彼女に何か粗相を働いたのだろうかと不安になった。
「あの……」
「まぁ、ラファエル。また食事を食べないのかしら?」
突然、里桜が発した言葉は、リタの口調を真似ていた。呆気に取られている私の前で、里桜は不器用に料理を切りながら、はぁ、とため息をつく。
「ただでさえそんなにガリガリに痩せてるのに、栄養失調で倒れるわよ! また点滴が必要かしら?」
つん! と鼻先を背けて見せながら言う里桜の様子が、リタに余りにもそっくりで思わず吹き出して笑うと、そんな私を見て彼女はニッコリと微笑んだ。
「お母さんがいっつもすぐいなくなっちゃうから、私ね、一人でご飯食べる事が多かったの。でも、もうずっとにいにが一緒だから寂しくないね」
……寂しくない? 一緒に食事なんかできない私は、彼女にとっては壊れた玩具でしかない。簡単に飽きて捨てられてしまう様な存在だ。リタは恐らく手に余ると、私を孤児院に返品するに違いない。
私は悲しくなって、里桜から目を反らした。
「私は、里桜ちゃんと一緒に食事ができません」
「どうして?」
「食べられないんです」
「お口があるのに、どうして食べられないの?」
「……味がしないんです」
「知ってるよ! にいにはお肉が食べられないんでしょう? でも、これはお肉じゃないもの」
まだ幼い彼女には理解できないだろう。
里桜は小首を傾げると、椅子の上に立ち上がり、自分の皿を私の方へと差し出した。
「これ、食べてみて! 味がちゃんとするから!」
私の料理にだけ味付けがされていないのだと彼女は思ったのだろう。
「いえ、そういう意味では無くて……」
「ホラ、見て! 上手に切れたでしょう?」
彼女の皿の上には、不器用ながらも綺麗に一口サイズにカットされた食事があった。私の為に大人用のカトラリーで頑張ってカットしてくれたのだろう。
「お母さん、お料理とっても下手なんだって。でも、にいににどうしても食べて貰いたいって、頑張って作ったの。にいにが来てくれるまでは、ずっとケータリングだったんだよ」
リタが、私の為に……?
「私もお母さんのお手伝いしたの! にいにに食べて貰いたかったから。ね、食べてみて!」
もしも、吐いてしまったらどうしようかと不安に思った。そんな事をしてしまったら、彼女はガッカリして私を軽蔑するに違いない。
「一口だけ。ね、いいでしょう?」
「ですが……」
「お願い。にいに」
ブルージルコンの瞳でじっと見上げられると、私はその純粋な瞳に映る価値もないのにと、つい溜息をついてしまう。
「……わかりました」
懇願する様子に躊躇いながらも、仕方なく里桜から皿を受け取り、料理を口へと運んだ。口の中の異物を噛む事に躊躇していると、里桜が再びリタの口調を真似て言葉を放った。
「食はとても大事なのよ? 食材という命を貰い、受け継ぐのだから」
私は思わず噛みしめた。塩味、僅かな酸味、野菜の甘味。ソースのさっぱりとした風味。それらをごくんと飲みこむと、喉の奥へと落ちて胃が僅かに満たされた。
いいや、満たされるどころか、私の胃はもっとくれと要求し始めた。耐えられずにフォークで次々口へと運んでは飲み込んでいった。
里桜はブルージルコンの瞳を細めて嬉しそうに微笑むと、「泣いちゃうくらい、美味しいの?」と、私を見つめた。三歳の少女とは思えない程に大人びたその顔を見て、ふと、その小さな身体に抱える病の事を思い出した。
もしも病気が発症したのなら、彼女はどうなってしまうのだろうか? 私は一体、いつまでこの子と居られるのだろうか?
「パンもちゃんと食べないと大きくなれないよ? ごめんなさい。焼き過ぎちゃってちょっと固いけど」
「……はい」
「牛乳飲む?」
「はい」
「待ってて、持ってきてあげる!」
こんな小さな女の子にとっては大変だろうに、私に食べさせようと一生懸命になってくれている。
それはまるで、私の為に自らの命の時間を与えているかのように。
それならば、私は彼女に何ができるだろうか? そう考えて、私に出来る事は『食べる事』なのだと考えた。壊れた玩具を少しでも機能させなくてはならない。
以来、私は里桜と一緒ならば、食事が美味しいと思える様になった。次第に一人でも食事が摂れる様にはなったものの、それでも里桜と摂る食事は何よりも美味しく感じた。
だから、リタが死んだあの日。食事用のナイフでさえも握る事ができなくなってしまった彼女を見て、私は思った。
里桜にこれ以上心労をかけるわけにはいかない。私は一人でも食事を摂る事ができる。美味しいと、思う事ができるのだと証明しなくてはならない。
しかし、何を口にしてもやはり味がしない。そうなると、噛む時の食感すらも煩わしく気味の悪い感覚になる。まるで砂を噛んでいるようにすら感じるのだ。
酒で舌の感覚を麻痺させて、流し込む様に食事を摂った。満腹中枢は狂い、体重はみるみる増えていく。しかし、それでいいと思った。太る事で、里桜はきっと私がちゃんと食事を摂れているのだと安心するだろうから。
里桜、今度は私が貴方を救う番です。心配は要りません……。私は、貴方に心配されなくとも大丈夫です。だから、私が貴方を心配します。誰よりも大切な人なのですから。
肥え太った私を嫌悪感露わに見る里桜に、ヘラヘラと笑った。呆れた様にため息をつかれても、それでいいと思った。
いっそのこと、愛想をつかしてくれたらいい。そうしたら、私は食べる事を止められるのだから……。
「ヴィベルさん、お家着いたよ」
肩を揺すられて目を覚ますと、ブルージルコンの瞳で里桜が心配そうに覗き込んだ。ふと、ここはどこだろうかと考えて、別荘からの帰り途中、里桜の車の中で眠ってしまったのだと理解した。
「あ、すみません。眠ってしまっていました! 運転を任せきりですみません」
「全然、気にしないで! 昨夜もあの後お仕事してたんでしょう? 無理させちゃってゴメンネ」
慌てて飛び起きたヴィベルに、里桜は申し訳なさそうに謝った。
「でも……皆で海に行けて良かった。すっごく楽しかった! ありがとう、ヴィベルさん!」
「いえ、私は何も……」
「別荘の点検なんて、管理人さんにお願いすれば良かった事でしょ? アルカのデータの事で、私が落ち込んでたから、元気づけようとしてくれたんだよね?」
参ったな全てお見通しかと頭を掻きながら、「バレてましたか」と苦笑いを浮かべたヴィベルに、里桜は「今度は私が心配する番」と、ニコリと微笑んだ。
「最近一緒に居る時間が短いよね。ご飯、ちゃんと食べれてる?」
里桜の質問にヴィベルは瞳をパチクリとさせると、曖昧に返事をした。その様子に里桜はため息をつき、ツン! と鼻先を高くした。
「栄養失調で倒れるわよ! 点滴が必要かしら?」
リタを真似た里桜の言葉に苦笑いを浮かべ、ヴィベルは「すみません……」と、謝ると、里桜はニコリと微笑んだ。
「ごめんね。違うの。私も一人だと食べるのが嫌で……。あのね、夕食、私が作るから、一緒に食べよう。ね、ヴィベルさん!」
車から降り、荷物を家へと運び込む里桜を見つめながら、ヴィベルは唇を噛んだ。
里桜を独占してはいけない。彼女は自由なのだから。自分と一緒に居る時間が多ければ多い程、彼女に依存してしまいそうで恐ろしくなる。
もしも彼女が自分を必要としてくれたのなら、どれほどに幸せな事か知れない。そうなる為に努力したつもりではあったが、里桜は恐らく誰とも付き合おうなどと思ったりしないだろう。
「ヴィベルさん、まだ寝ぼけてるの? 大丈夫?」
車から降りたままぼうっとしているヴィベルに里桜が声を掛けた。ブルージルコンの美しい瞳を心配そうに向け、白く華奢な肩を竦めるその姿が美しく、ヴィベルはついじっと見惚れた。
「ヴィベルさん?」
「私も、夕食の用意を手伝います」
唐突な申し出に里桜は「え?」と、小さく漏らした後、にっこりと微笑んだ。
「うん。一緒に作った方がきっと美味しいね」
できることなら、この優しい彼女が本当に心から必要とし、頼れる男性と共になれることを願う。それが自分でなくても構わない。




