身体の傷と心の傷
「うおおっ! この前小娘と一緒に行った海よりもずっと綺麗だなっ! ミシェル、ガブリエル!! おめーらもこっち来いよっ!」
アダムが大はしゃぎで砂浜を駆け、海の中へとばしゃばしゃと入っていくと、「気持ちいー!」と、叫んだ。
金属製の義手義足が太陽の光を反射し、ギラギラと光る事もお構い無しに、一心不乱に子供の様に水と戯れている。
「レアン。あの義肢、海水は平気なのかい?」
ビーチパラソルの下でサングラスを掛け、グレーのラッシュガードを羽織ったファメールが皮肉を言うと、レアンが「ええ」と、返事をしながらアダムを見つめた。
「入浴に備えて防水加工はしてありますし、真水で潮を洗い落とせば問題無いのですが。ただ、少々重いので泳ぐのはどうかと」
「沈めばいいのに……」
ファメールの言葉にレアンは苦笑いを返すしか無かった。
「ごめん! 一緒に別荘の様子見につきあってくれると嬉しいんだけど、お願いできない?」
先日土下座でもするかの勢いで里桜がレアンに声を掛けてきた。なんでも、里桜の父が所有する別荘の修繕工事をしていたのだが、工事が終わった為内部確認に行くというのだ。
「アルカが見つかってない時に申し訳ないんだけど、ヴィベルさんは仕事が忙しくて行けないんだって。その、私、虫が苦手だから、一人だと……」
「里桜、いくら古い建物とはいえ、虫は居ないと思いますが。管理会社が定期的に清掃にも入っていますし……」
「居たらどうするの!?」
極度の虫嫌いの里桜は鳥肌を立てて悲鳴の様にヴィベルに反論した。
「ほっとく訳にもいかないし、でも私じゃ退治できないもん!! ゲームオーバーじゃないっ!!」
涙目になって言う里桜に、レアンは優しく微笑んだ。
「一緒に付き合うのは構いませんが、アダムを放っておくのは少々心配ですね」
アダムとファメールを二人置いて行っては、帰る頃にアダムはバラバラに解体されているかもしれない、と、レアンは心配そうにアダムを見つめた。
「アダムさんも一緒に行けばいいんじゃないかな? 別荘は海の側なの。そうだ! アダムさん、海好きみたいだし、海水浴がてら一緒に行こうよ!」
それを聞いてアダムは瞳を輝かせてソファの上で子供の様に飛び跳ねた。
「海だって? 俺も行っていいのか!?」
「うん。泳ぐ時真っ裸にならないなら全然いいよ。一緒に行ってくれると私も助かるし。別荘に万が一虫が出たらお願いね!」
「やった! 虫なんか任せろ! 魔術で冷凍にしてやるぜ!」
「良かった、有難う! あ、でも、凍らせるだけじゃなくて後片付けもお願い」
里桜はチラリと我関せずとして本を読み続けるファメールに視線を送った後、ファメールさんは誘っても来てくれないよね……と、思いながらも、おずおずと声を掛けた。
「ファメールさん……あの……」
——断られるに決まってる。
彼の事だ、『子供じゃないんだから虫くらい一人でどうにかしたらどうなんだい? 僕は暇じゃないんだ。そんなものにつきあうのはご免だね』と言うに違い無い、と思いながらも、里桜はおずおずとファメールの側へと寄った。
「ファメールさんも一緒にどうかな? あ、忙しいとは思うんだけど、その……そ、そう! 別荘は温泉もついてるの! だから、その……」
パタンと本を閉じると、ファメールは金色の瞳で里桜を見つめた。
「何が? 全然聞いていなかったんだけど?」
わざと聞いていないフリをしているなと、レアンとヴィベルは気づいたが、里桜は全く気づかずに慌てて最初から説明を始めた。
「ふーん? それで? レアンもアダムも同行するのに、僕を誘う理由は何なのさ?」
「えーと……」
一緒に行きたいから、じゃ、ダメだよね? と、里桜は困ったなと俯いた。だが、ファメールとしてはその言葉聞きたさに敢えて惚けたのだ。
言いよどむ里桜の様子を期待しながら見つめていると、ヴィベルがその背後ではらはらした様にブルートパーズの瞳をしきりに瞬きした。
虫だなんだという理由ではなく、里桜の『希望』でファメールを誘ったのなら、この場に居る皆にファメールと里桜との関係性が最もリードしているのだと知らしめる事になる。
里桜、滅多な事を言わないでくれと願うヴィベルと、早く思っている事を皆の前で言えばいいのにと期待するファメール。そんなことを言ったところで断られてしまうかもしれないという里桜の三つ巴の図が出来上がり、レアンはどう助け船を出そうかと頭を捻った。
「ミシェルよー、お前海水パンツ履くのか?」
アダムの空気を読まない突然の発言に全員の頭の上に、何故そんな事を聞くのかと『?』が浮かんだ。
「……何が言いたいのさ、クズアダム」
「女モンの水着の方が似合うんじゃねーかと思ってよー」
ゴスッ!!! と、ファメールがガラス製の灰皿で思いきりアダムを殴りつけると、金色の瞳を三角にして怒鳴りつけた。
「死ねっ!! 100万回死ねっ!!」
「#$%☆&~!!!!」
アダムは悶絶して両手で頭を抑え込んだ後、涙目で反論した。
「頭割れたらどうすんだよっ!!」
「粉々にしてやるよっ!」
「なんだよっ! ホントの事言っただけだろ!?」
「一億回死ねっ!!」
「逆に海水パンツ履いてる方が周りが困惑するだろっ!?」
「どういう意味さっ!?」
「お前、その辺の女よりかよっぽど色っぺーじゃねーか! 皆お前のおっぱいに大注目してペタンコにガッカリするに決まってらっ!」
「ちょ! ちょっと、アダムさんっ! 変な事言わないでよ!」
里桜が慌てて言葉を挟んだ。これ以上余計な事を言われると、ただでさえ望み薄だというのに、ファメールは余計来てくれなくなってしまうだろうと焦ったのだ。
ファメールは鬼の形相でアダムを睨みつけると、クルリと踵を返した。その行動を不思議に思い、里桜が「ファメールさん、どこに行くの?」と、声を掛けると、振り返りもせずにファメールはサラリと答えた。
「アルマゲドンの筐体を破壊しに」
「ちょ!! お前っ!!」
「クズアダムの入ったプログラムごと跡形も無く破壊してやるよ!」
「待て待て待て!!」
アダムが慌ててファメールを取り押さえようとすると、拳で思いきり頭を殴りつけられ、再び悶絶した。
「☆%$&!!!」
「100憶回死ねっ!!!!」
「が……ガラスの灰皿より痛ぇっ!! お前っ! 手袋の中に何入れてやがんだ!?」
「アダムさん、叩かれて当然だよ。ファメールさんて結構たくましかったし、男性らしくて綺麗な身体してたもん」
里桜の発言にヴィベルが瞳をひん剥いた。
「里桜? 何故ファメールの裸を知っているんです?」
「何回か見たから」
「は!? 何故です!?」
「え? それは……秘密」
エデンで水を掛けてしまい、自分から服を脱げと言ったとは言えないし、自宅の脱衣所で服を脱いだファメールと一緒に居たとも言えない……と、里桜は困って誤魔化そうとそう言った。
ヴィベルは頬をヒクつかせながら、まさか、ファメールと里桜はいつの間にか男女の関係になっているのかと冷や汗を垂らした。確認しようにも、里桜にしつこく聞いたら嫌われそうだ。であれば、ファメールに聞くしかない。と、ヴィベルはコホンと咳払いをし、疑いの眼差しでファメールを見つめた。
「引きこもって星の研究ばかりしているファメールが、逞しいなど俄かには信じられませんが」
——なるほど、ヴィベルは僕に喧嘩を売っているな? と、ファメールはムッとした。
「そうかい? 里桜が証言してくれた通り、これでも結構鍛えてるんだ。ヴィベルなんかよりは筋肉がある方だと思うけれどね。キミは昔随分と肥えてたらしいじゃないか」
「私はもう太ってなんかいませんけどっ!?」
「確かに太っていないけれど、キミこそ引きこもりITヲタクじゃないか。そんなだから誰かさんに異性として見られていないんじゃないのかい?」
「なんですと!?」
ツンと鼻先を背けて言うファメールに、ヴィベルはいやいや、また話を逸らせようと策略にハマるところだった、と、頭を押さえた。
「ちょ、ちょっと、単刀直入に聞きますけど。何故里桜はファメールの裸を知っているんですか!? それも一度じゃないとはどういう事です!? ファメール、あなたまさか……」
「別にキミには関係無いじゃないか。それともキミに僕と里桜の事を逐一報告しなきゃいけない理由が何かあるのかい? 彼女はもう二十歳だろう。過保護も大概にしなよね。里桜に嫌われるよ?」
里桜に嫌われる!? それは嫌だッ!! と、言いよどむヴィベルに、ファメールは肩を竦めてやれやれとため息をついた。
「ヴィベルさんを嫌いになんてならないよ。私の為に心配してくれてるんだもん」
ふっと笑ってそう言った里桜にヴィベルは感動し、なんて可愛いのだろう! と、抱きしめたい気持ちを押えて瞳を潤ませた。
——ヴィベル、それはキミなんか保護者としてしか見ていないと里桜は言っているようなものじゃないか。
と、ファメールは感動しているヴィベルに冷たい視線を送った。
「あ。海水浴するなら水着買わなきゃ」
ポツリと言った里桜の言葉に、アダムが「おお! 小娘、俺が選んでやる!」と、鼻息を荒くして言った。
「へ? アダムさんが選んでくれるの?」
「おう! 紐みてーなヤツ!! すぐ脱がせそうなヤツ!」
「バカじゃないの!? 絶対嫌っ!! Tシャツ短パンみたいなデザインのが良いっ!」
それは絶対つまらない!! と、ヴィベル、ファメール、アダムが驚愕の表情を浮かべた後に、コホンとファメールが咳払いをした。
「分かった。じゃあこうしようか。僕にキミの水着を選ばせてくれるなら一緒に行ってもいいよ」
「わ! ホント!?」
両手をパチリと叩いて里桜は嬉しそうに笑うと、「ファメールさんセンス良いから嬉しい!」と、無邪気に喜んだ。
「それで? どんなのを選んだのです?」
タープを運んで来ながらヴィベルがじとっとファメールに声を掛けた。ビーチチェアの上で優雅にアイスコーヒーを一口飲むと、ファメールはフフンとバカにしたように鼻で笑った。
「それは見てからのお楽しみさ。それにしても、キミは仕事が忙しくて来られないんじゃなかったのかい?」
「いいえ。全くもって問題ありません!」
里桜が心配過ぎて無理やりにスケジュール調整をしたヴィベルは、こめかみをピクピクとさせながら答えた。ファメールはくすりと小さく笑うと、「ふ~ん?」と、意地悪そうに眉を吊り上げた。
「キミが来れるなら何もこうしてまぬけに全員で来る事なんか無かったのに。別荘の点検が目的なわけなんだし、サクッと終わったじゃないか。それとも、キミも里桜の様に虫が苦手だから一人じゃ来られなかっただなんて言うつもりじゃないだろうね?」
「まさか!」と、ヴィベルは完全否定した後に、苦笑いを浮かべた。
「別荘の点検だなんて口実に過ぎません。アルカのデータが行方不明であると発覚して以来、里桜が塞ぎこんでいたので、わざと用事を頼んだんです。里桜は一人では外出したがらないので、いい機会だと思ったんですよ。大学の友人達を誘ってくれればいいと思っていたのですが、まさかこの面子になるとは」
「なるほど、それでレアンを誘った時にキミは青い顔をしていたのか」
「里桜は女性の友人が多いですし、夏休み中ですからね。まさか虫の心配をするとは思いませんでした」
「まあ、虫退治に女友達は役に立たないだろうしね。けれど、それでキミが心配してべったりついて来るんじゃあ、意味無いじゃないか。結局のところ里桜の水着姿が目的なんじゃないのかい?」
「違います! ……まあ、見たいとは思ってますが」
この男にだけは里桜を渡して堪るかと、ヴィベルは苛々しながらタープの設営をし始めた。ファメールは先に設置してあるビーチパラソルの下で優雅にビーチチェアに腰かけている。
無意識のうちエデンでの二人の様に、まるで主従関係のような構図を意図せずに描いていた。
「ヴィベル、手伝いますよ」
レアンもヴィベルを手伝ってタープの設営を始めると、ヴィベルは今更ながらにレアンの素晴らしい肉体美に唖然とした。
腕の筋肉がタープを広げようとするだけでぐっと盛り上がり、太い首筋を伝う汗が鎖骨から、隆々たる大胸筋へと流れる。腹筋は当然ながら六つに割れ、パッとタープを広げた時に垣間見えた背筋は彫刻の様に美しかった。
ファメールはともかく、レアン相手には勝てるわけが無い! と、ヴィベルが見つめていると、その視線に気づいてレアンが不思議そうにマリンブルーの瞳を細め、爽やかに微笑んだ。
「大丈夫ですか? 熱中症にならない様に、水分はこまめにとってくださいね」
……おまけに優しい。と、項垂れるヴィベルにレアンは本当に具合が悪いのではと心配になった。何か飲み物でも買ってこようかと思った矢先、里桜が手をブンブンと振りながら駆けて来た。片手には重そうなクーラーボックスを抱えている。
「ごめん! お待たせっ! 飲み物、冷え冷えのを沢山調達してきたよ!」
柔らかそうな大きな胸をウエディングドレスの様な艶やかな白い生地で包み、更にヴェールの如くオーガンジーのリボンに覆われて、彼女が手を振る度にふわりと揺れた。細くキュッと締まった腰に群青色の大きな花をあしらったパレオを巻き、長くほっそりとした脚が僅かに見え隠れする様子が清楚さを醸し出している。
里桜の透き通る様な白い肌を一層引き立てるコーディネートは流石ファメールと言うべきか。腰に結ばれた紐の先には大粒の木製ビーズが揺れ、愛らしさが上乗せされ、つい手を伸ばして解きたくなる衝動に駆られる。
ヴィベルはポカンと口を開け、いつの間にこれほど大人になったのか、と、唖然としながらも里桜の美しさにくぎ付けになった。
レアンは目のやり場に困りながらも、里桜の持つクーラーボックスを代わりに受け取った。
「ありがとう、レアン」
弾ける様な笑顔でお礼を言う里桜が眩しい。
里桜はレアンを見上げて思わず『おおっ』と、心の中で感嘆の声を漏らした。美しく鍛え抜かれた肉体に、瞳をまんまるくする。
「レアン、筋肉凄いっ!」
ペタペタとレアンの腕を触りながら、「私なんか片手で持ち上げられちゃいそうだね、カッコイイ!」と褒めちぎり、レアンは照れて顔を赤くしながら謙遜した。
「里桜、日陰にどうぞ」
レアンがタープの下へと里桜を促すと、「僕の見立ては間違いなかった様だね」と、ファメールがニコリと微笑んだ。
ファメールは里桜の艶やかなブラウンの髪を結いあげて、パレオの柄に似た群青色の花の髪留めを付けてやった。
「よく似合ってるよ、里桜」
「ありがとう、ファメールさん」
「あれ? 里桜、その傷は……?」
ファメールが、里桜の肩から胸の辺りまで続く、薄っすらと残る傷痕を指摘した。
「覚えてないの。エデンから戻って来た時についてたんだけど。いつついたのか全然。ドレスの時はメイクで隠してたんだけど、水に入るのにメイクするのもなーって思って」
二人の会話にレアンが心配になり、里桜の傷痕に視線を向けた。
……あれは、エデンで里桜が一人街に出た時に乱暴をされてついた傷ではないか? と、訝し気に眉を寄せた。ファメールはあの場に居なかったのだから、知らないのは無理もない。だがあれは確かにアルカが魔力を分けて癒したはずだ。
しかし、噛み痕といい、何故里桜には仮想空間であるはずのエデンでの傷が残るのだろうか……。
レアンは里桜に「痛みますか?」と、聞いたが、里桜は全く気にした様子も無く、「全然!」と、笑顔で答えた。
「お、小娘。来たのか!」
ポタポタと髪から水を滴らせながらアダムが来ると、ペロリと海水のついた指を舐めた。その様子が嫌にワイルドな色気を醸し出す。里桜は何故か恥ずかしくなり、パッと視線をアダムから反らした。
そういえば、エデンでアルカの裸を見た事があったっけ、と、急に思い出して首を左右に振った。
「なんだ、沈まなかったのかい?」
憎まれ口を聞いたファメールに、「いや、ちょっと沈みかけた」と、タハハと笑いながら、アダムは里桜の持ってきた飲み物を受け取り、グビグビと飲み干した。
「うはー! 生き返るぜ!!」
「キミ、死んでたのかい?」
「こまけーことは別にいいじゃねぇか。それにしても小娘、お前めちゃんこいいおっぱいしてんなっ! 今度から小娘じゃなく、巨乳女って呼ぶか?」
「バカじゃないの!? 絶対嫌っ!!」
「それともそれ、上げ底か?」
パッと手を伸ばし、里桜の胸に触れようとしたアダムの手をレアンが素早く掴んだ。
「失礼な真似は止めなさい!」
「ちっ! なんだよ、別にお前のじゃねぇだろ!?」
「レアン、アダムの義肢をタングステン製に変更して泳がせたらどうだい?」
「沈むっつーのっ! それよりミシェル、お前それ脱げよ!」
アダムがファメールの着ているラッシュガードを指さして、言った。
「は? どうしてさ?」
「小娘の叔父と肉体美を競い合うんじゃねぇのか?」
「別に競い合う気なんか無いけど。それにヴィベルはそれどころじゃないようだけど?」
里桜に見惚れ、呆っとしたままのヴィベルに視線を向けて言うと、ファメールはやれやれと肩を竦めて見せた。
「ヴィベルさん、大丈夫? 熱中症になったんじゃ……」
心配して里桜がヴィベルの額に触れた。ヴィベルはカッと顔を赤らめると、瞬時に里桜から離れた。あまりの素早さに唖然とした里桜に「いえ! 全然大丈夫じゃありません!!」と、ヴィベルは叫んだ。
「ええ!? 早く冷やさなきゃっ!」
「お構いなく!!」
「倒れちゃうよ!?」
「はい、倒れそうですっ!」
「ヴィベルさん!?」
全然会話が噛み合っていないんだけど!? と、里桜は心配になって離れたヴィベルへと近づいた。
「里桜、ちょっと……来なくていいですから!」
「冷たい飲み物、飲んだ方がいいよ!」
なるほど、ヴィベルはどうにも里桜の色香に惑わされたようだぞ。と、ファメールがふっと笑い、里桜の足元を指さした。
「おや、大きな虫だ」
「ウギャアッ!!!!」
何とも色気の無い悲鳴を上げ、里桜が飛び跳ねてヴィベルに抱き着いた。意表をつかれてヴィベルは砂に足を取られ盛大に転ぶと、ヴィベルを下敷きにして里桜が覆いかぶさる様な体制になった。
「虫ヤダっ!! 何処行ったの!? どんなの!? 気持ち悪い奴!? うわっ! 最悪っ! 殺虫剤持ってないっ! タープ移動させようよ~っ!!」
半泣きしながらヴィベルにぎゅっとしがみつく里桜に、ファメールは「あれ? 見間違いだったようだね」と、サラリと答えると、何食わぬ顔で再びビーチチェアへと腰かけた。
ヴィベルの身体に、里桜の柔らかい胸の感触が伝わる。里桜の髪からシャンプーの香りがふんわりと鼻を擽り、彼女の頬がヴィベルの頬に触れた。細く華奢な肩と腰の感触。すべすべの太ももが触れあい、ヴィベルは全身に里桜の存在を感じた。
「もう、ファメールさん、びっくりさせないでよ! ほんっとに虫嫌いなんだってばっ!」
里桜は頬を膨らませると、「ヴィベルさん、ごめんね、大丈夫?」と、起き上がり、心配そうに覗き込んだ。
ハッとしてヴィベルは大慌てで起き上がると、顔を真っ赤にして里桜から離れ、その様子を見てファメールはしてやったりとケラケラと笑った。
「ヴィベルさん?」
「里桜、大丈夫ですから! 近づかないでください!!」
「でも……」
ヴィベルはファメールにしてやられた! と、悔しそうに唇を噛んだ。
ただでさえ大人っぽくなった里桜の美しさに見惚れていたというのに、彼女の身体の感触まで味わってしまったら、男であれば誰でも元気になってしまうだろう! これ以上はまずい。またあんな姿を里桜に見られでもしたら、一気に信用を失ってしまう! と、ヴィベルは涙目になりながら、自分を落ち着かせる為にとても嫌な事を考える事に全力を注いだ。
私は虫。虫になって里桜に嫌われる。嫌われる……。
「里桜、ヴィベルは少しそっとしておいてあげてください」
「え? うん。でも、大丈夫かな……」
「放っといてやれば大丈夫ですから」
「そうなの? レアンがそう言うなら……」
レアンが見かねて助け船を出し、里桜をヴィベルから引き離すと、アダムが瞳をキラキラと輝かせ、里桜の手を引っ張った。
「小娘! スイカが海に浮いてるぜ!? あんなに浮くもんか!? それに皆投げて遊んでるぞ!?」
「あれね、スイカの形をした風船だよ。ビニール製で、中に空気が入ってるの」
「俺もあれ、欲しい!!」
里桜が得意げにニッコリと笑うと、「持って来てるよ」と、鞄を取った。
「ホントか!?」
里桜がスイカ柄のビーチボールを鞄から取り出すと、「アダムさん、膨らませてくれる?」と、手渡した。
「っしゃあ! 任せろっ!」
「やれやれ、子供でもあるまいし、みっともない」
ツンと鼻先を反らすファメールを、レアンは兄上も意地が悪いな、と、溜息をついて見つめた。
ファメールは自分の身体の傷痕を周囲に晒したく無いと思っている為、わざとヴィベルに対してああいう行動に出たのだろう。
ラッシュガードを脱がない理由を話す事で、里桜に気を使わせるのも嫌だと考えたのだろう、と、レアンは冷たい飲み物を持ってヴィベルへと手渡した。
「大丈夫ですか?」
「はい。お陰で助かりました」
「全く、間抜けなんだから嫌んなっちゃうね。童貞でもあるまいし」
プイと顔を背けて言うファメールを見て、ヴィベルに申し訳無く思ってレアンは苦笑いを浮かべた。
「兄上、いくら何でもやり過ぎです……」
「なにがさ?」
「分かってらっしゃるでしょう?」
レアンに窘められて、ファメールは小さく舌打ちをして、「悪かったよ」と、素直に謝った。
「気にしないつもりだったんだけれど、やっぱり無理みたいだ」
里桜の肩から胸にかけて薄っすらと残った傷痕。それを、全く気にしない様子の彼女に対し、ファメールは急に自分の身体に残る傷痕に羞恥した。そして、羞恥する自分がみっともなく思えたのだ。里桜は女性だというのに、あれ程に堂々としているのだから。
レアンは両手に残る火傷の痕を隠す為、普段は手袋を欠かさずにつけていたが、海では隠す事無くその手袋を外していた。里桜はその事に対しても全く気にも止めていない様子だった。
ヴィベルの身体には傷痕一つ無く、本人が言った通り、しっかりと鍛えられて、なかなかに逞しい体つきをしていた。
「すまなかった、ヴィベル。僕が悪かったよ。醜い身体を晒したくなかったんだ」
里桜も恐らくファメールの傷痕など気にしないと分かってはいたものの、海水浴場では周囲の目がある。周りの者が向ける奇異の視線を、里桜が気にしないかといえばそうでは無いだろう。
急にしおらしくなったファメールに、ヴィベルは少し気まずい思いで首を左右に振った。
「いえ。ファメールの身体に傷があるのは知っていましたから」
ヴィベルの言葉に、ファメールは「え?」と、金色の瞳を向けたので、ヴィベルは意外そうに瞬きをした。
「エデンでは一応それなりに貴方に仕えていましたから。高熱を出す度に、誰が看病していたと思っているんです?」
ヴィベルは立ち上がると、砂を払ってため息をついた。
「私もすみませんでした。里桜の事となると、ついムキになってしまうものですから」
「……そこは、まあ、お互い様さ」
「吹いても全然空気入らねぇっ!」
「そうじゃなくって、ここ、ぎゅっとつままないと上手く空気が入って行かないの」
「こうか? お! 入った! 膨らんだっ! あれ? 萎んだっ!」
「空気入れたら手を離さないと」
「ああ、なるほどな」
スイカ柄のビーチボールに空気を入れようと奮闘している里桜とアダムを見つめながら、ヴィベルは瞳を細めた。
こんな風に出かけた事は一度も無かったな、と、考えて、先ほどのファメールの悪戯など、些細な事に感じる程に、ヴィベルは里桜の様子を微笑ましく思いながら見つめた。
「ファメール、里桜に付き合ってくれて、感謝しています」
ヴィベルの言葉に、ファメールはツンと片眉を吊り上げた。
「どうして僕にそんなこと言うのさ? 僕が来なくても、レアンとアダムが一緒に来ただろう?」
「こんな風に水着を着て楽しもうとはしなかったと思います」
レアンから受け取った飲み物を一口飲むと、ヴィベルは里桜の楽しそうな様子を見つめた。
「里桜が身体の傷を気にしていないなど、嘘ですよ。現に、プールはおろか、友人達と海水浴へ出かける事も全て断っていたのですから。だから、水着も持っていなかったんです」
「え?」
「……エデンから帰って来た後、泣きそうな顔でシャワーから上がって来たので、声を掛けたんです」
ヴィベルはその時の様子を思い出しながら、ファメールに話した。
怯えた様に身体を震わせる里桜に、どうしたのかと聞いたが、彼女はなんでもないと答えた。顔色が悪く、何でもないはずはないと、ヴィベルはすぐに病院に行く支度をしようとした。
「待って! 違うの。ホントに何でもないの!」
「ですが……」
「大丈夫! 元々お嫁になんか行けないんだし! 今更こんなのなんかあったって変わんないよね」
「え?」
里桜は瞳に涙を溜めながら無理やりに微笑んで見せると、バスローブを解いて肩を見せた。僅かに残っている傷痕に、「何故?」と、ヴィベルは眉を寄せた。
「いつついた傷なのか、覚えてないんだけど。私、こんなんじゃ誰とも付き合ったりすらできないよ」
「まさか、そんな事ありません!」
「ダメだよ。もう、女性として傷がつき過ぎちゃってるもの……」
本人が気にしているのだから、『大丈夫』だとか、『気にするな』という言葉はかえって逆効果だろう、と、ヴィベルは思った。
ブルージルコンの瞳からポロポロと涙を零す里桜を見つめていると、ヴィベルの心もズキズキと痛んで仕方が無い。
「……里桜。私も含めて、貴方の全てを受け入れる人が必ず現れますよ」
「きっと嫌われちゃうよ」
里桜の言った言葉は、恐らくアルカ、ファメール、レアンの3人からの事を言っているのだろうとヴィベルはすぐに察した。
「嫌うものですかっ! 眉を顰めようものなら、私が殴りつけてやります!」
里桜がどんなにか醜い傷をその身体に刻んでいたとしても、彼らならば受け入れてくれるはずだ。少なくともファメールの身体にも傷があることを、ヴィベルは知っていた。
「……彼らはそんな薄情な人達では無いはずです。里桜を救ってくれたのですから。そうでしょう?」
「嫌わないかな?」
「ええ。勿論です。絶対に」
彼らは恐らく、里桜の身体についた傷の事を知っているはずだ。それでも里桜を受け入れてくれる。彼女の心に傷をつけるような発言をするはずがない。と、ヴィベルは思っていた。
ヴィベルの話を聞きながら、ファメールは訝し気に眉を顰めた。
「ちょっと待って、『元々お嫁になんか行けない』って、それはどういう意味さ?」
レアンも頷き、心配そうにヴィベルを見つめた。
「里桜は、結婚する事が夢だと言っていました。それなのに、その夢は叶わないことなのだと自分で言っているのと関係が?」
二人に問われ、ヴィベルは俯いた。僅かに手を握りしめ、悲痛の表情を浮かべる。
「……そうですか。やはりまだ里桜は気にしていたんですね。でも、それは、私の口からは言えません」
いつか、里桜が自分の口から話す事になるだろう。けれどそれは、里桜の決心が必要な事であり、自分が勝手に口に出して良い内容ではない、と、ヴィベルは判断したのだ。
無理に聞く訳にはいかないと、ファメールとレアンもそれ以上問いただす様な真似はしなかった。
「……里桜の肩の傷痕ですが」
レアンがエデンで起こった事を二人に話した。その傷を、アルカが癒した事もだ。
「やはり、里桜だけは現実世界の肉体に影響を及ぼしてしまうようだね」
「アルマゲドンには絶対にダイブさせる訳にはいきません」
レアンの言葉にファメールとヴィベルが頷いた。
「危険な目に遭わせたくは無いからね」
「里桜が傷つくのを、もう見たくは無いんです」
パァン!!!!
と、凄まじい破裂音に驚き、三人は何事かと音のした方向に視線を向けた。
「ちょっとぉ!! アダムさん、膨らまし過ぎっ!」
「あー……スイカ風船が破裂した……」
「一体どんな肺活量なの!?」
どうやらアダムがスイカ柄のビーチボールを膨らませ過ぎて、破裂させてしまった様だ。残念そうにしょぼくれているアダムの側にレアンが行き、「二人とも怪我はありませんでしたか?」と、破裂した破片を拾いながら言った。
その時、僅かに里桜が手を動かして、肩の傷を隠した様子を、ファメールは見逃さなかった。
「何とも無いけどびっくりしちゃった」
明るく笑う里桜を見つめ、ズキリと心が痛む。
「……なにさ、この位の事じゃないか」
ファメールが小さく呟く様にそう言うと、ラッシュガードのファスナーを下ろした。パッと脱ぎ捨てて立ち上がると、里桜の肩にトンと触れた。
「里桜、アダムのバカがすまないね。新しいのを買いに行こうか」
肌に刻まれた傷痕が露わとなったファメールが差し伸べた手を、里桜は全く気にすること無く取ると、ふわりと微笑んだ。
それは、聖母マリアの様な慈愛に満ちた笑みだとファメールは感じた。
思わずそんな風に考えて、ファメールは金色の瞳を見開いたままゴクリと息を飲んだ。
「ありがとうファメールさん」
微笑む里桜を呆然と見つめるファメールに、里桜が「どうしたの?」と、小首を傾げた。
「いや、何でもないよ」
手袋越しではなく、久方ぶりに直接人の手に触れたな、とファメールは思った。里桜の手は想像以上にか細く、折れてしまいそうな程に華奢だった。けれど、その手が力強くファメールの手をきゅっと握ったので、何故だか無性に照れて顔を背けた。
「アダムさん、スイカ柄のでいいの?」
「ああ、スイカがいい!」
「次割ったら承知しないからね!」
ファメールに叱られて、アダムは「へーい」と、しょんぼりとして答えた。
「まったく、アダムのバカさ加減ったらどうしようもないな」
「ビニール風船ってあんな風に割れるなんて知らなかった。びっくりしちゃった」
里桜とファメールが和気あいあいと話しながら海の家に向かう様子を、ヴィベルは微笑んで見つめた。
身体についた傷も、心の傷も、完全に消す事はできないかもしれない。それでも、理解することはできるはずだ。理解し合えれば、傷ごと全て愛する事ができるだろう。今は人に言えない傷の事も含め、全てを愛してくれる人を里桜も同じく想うことができるのなら、その相手が例え自分ではなくても心から祝福したい。
ヴィベルはそう考えて、祈るようにため息をついた。




