憂患
冷めきったコーヒーの入ったカップを手にしたまま、ダイニングの椅子に腰かけて、里桜はぼんやりと冊子を眺めていた。郵便受けに投函されていた何かの広告冊子だが、内容を読んでいるというよりは、ただそこに置かれていた場所にたまたま視線が向けられているという様な状態だ。
ヴィベルは今日も早朝から会社に出かけており、里桜が目を覚ました頃には家の中にその姿は無かった。
一人きりでガランとした広いリビングに居ると、何故だか無償に心細くなり、里桜はため息をついて冷めきったコーヒーを啜った。
「……美味しくない」
更にため息を重ね、里桜は項垂れた。
エルティナさんとアルカの捜索はヴィベルさんじゃないとできないし、ファメールさんは居なくなっちゃったし、アダムさんとレアンは仕事があるからと忙しいみたいだし。私一人だけ役立たずだ……。お出かけでもすればいいんだろうけど、そんな気にもなれないし。
玄関のチャイムが鳴り、里桜は端末を手に取った。アッシュブロンドの髪の男性が、屈んでカメラに向かって「里桜」と、声を掛ける様子が映し出され、里桜は慌てて外へと飛び出した。
「どうしたの? レアン!」
嬉しそうな里桜の様子に僅かに照れて、レアンは「何度か電話をかけたのですが……」と、遠慮がちに微笑んだ。
「あ……スマホ、部屋に置きっぱなしだった」
実の所、大学の友人からのメールが里桜にとって気の重い話題になっており、里桜はスマホを見る事が嫌になっていたのだ。事の発端は昨日のファメールとレアンとのデートを、高校時代のクラスメイトに目撃された事だった。
『里桜、すっごいイケメンと一緒に居たんだって?』
同様のメールが複数人の友人達から届き、里桜は頭を悩ませた。終いにはメールの返信を待ちきれなくなった友人から電話がかかって来て、色々と問い詰められる結果となった。
『彼氏が出来たんなら教えてよ!』
「ち、違うよ! 友達だもん!」
『どうして付き合わないの? 勿体ない!』
「え!? えーと、だって……私なんかじゃ釣り合わないし」
『はぁ!? 里桜、かわいいじゃない。自信持ったらいいのに』
「か、可愛くなんかないよ! 服もダサいし。止めよう! こういう話、苦手だし!」
『里桜、そんな恵まれた容姿してるくせになんでそうも遠慮するの? 処女でもあるまいし』
「……処女だもん」
『はぁ!? 本気で?』
「うん……」
『じゃあそのイケメン二人、大人な男性だって聞いたし。Hしてもらっちゃえば自信もつくんじゃない?』
「はぁ!? な、何言ってるの!? 無理無理無理無理!!」
昨夜の友人との会話を思い出し、顔を真っ赤にする里桜を、レアンは不思議そうに見つめた後、申し訳なさそうに微笑んだ。
「里桜、すみません。私が使っている端末の調子が悪く、見て頂こうかと。忙しかったですか?」
「あ。ごめん。ちょっと考え事しちゃった……」
フワリと風がレアンの髪を撫でた。Yシャツから柔軟剤の香りだろうか、清潔そうな爽やかな香りが里桜の鼻を擽り、つい視線を向けた。ボタンの開けられているYシャツから垣間見える分厚い胸板をついじっと見つめる。
……すっごい筋肉。
「……里桜?」
里桜は何故、自分の胸元を見ているのだろうか? と、レアンは不思議に思って小首を傾げた。
「あ、端末ね! わかった! 任せて! 上がって。あ、車はガレージの方に回してくれる?」
里桜は慌てて取り繕う様にそう言うと、レアンをリビングへと通し、コーヒーを用意して、レアンの端末を覗き込んだ。
「端末の調子が悪いって、どんな感じなの?」
「今朝落としてしまいまして。電源は入るのですが、OSが上がらないのです」
「ハードディスクかなー。落としちゃったんなら、データだけサルベージして新しい端末に換装しちゃった方が無難だね。後々別の不具合が出ても良くないし」
「お手数をお掛けします」
「一旦故障個所チェックしよう。OSのバージョン教えて」
里桜は自分の端末を持ってくると、チェックアプリがどうだなどと言いながらレアンの端末に接続したり、キーボードを叩いて何やら調べたりと作業を始めた。
チラリとレアンへと視線を向けると、ジャケットを脱ぎ、Yシャツ姿となっており、その隆々たる筋肉に里桜は再び暫し見惚れた。
何やら里桜の様子が妙だなと、レアンは少し照れて咳払いをした。
「あの、どうかしましたか?」
里桜はハッとして「何でもない!」と、慌てて首を左右に振った後、不思議そうに小首を傾げているレアンをチラリと見た。
「ねえ、レアン。なんでそんなに筋肉あるの? 鍛えてるの?」
レアンは僅かに困った様に眉を下げて微笑むと、「トレーニングのせいでしょう」と、肩を竦めた。
「気持ち悪いですか?」
「へ!? どうして!?」
「女性は嫌う人も居ると兄上が」
里桜は「全然そんなことないよ! カッコイイと思う!! うん、男性らしくて素敵だよ! レアンは爽やかで暑苦しさも無いし、良いとこどり!!」と、褒めちぎった後、「触ってもいい?」と、了承を得て、レアンの胸に触れた。
分厚い胸板の感触にレアンの体温を感じる。つい飛び込みたくなるこの包容力を嫌う人がいるだなんて、勿体ないと里桜は思った。
「背も高いし、とっても素敵だと思うけど」
「……ありがとうございます。幼少の頃は人一倍身体が小さかったんですが」
レアンは里桜の頭を優しく撫で、微笑んだ。
「コンプレックスでしたので、食生活を改善し、トレーニングをしているうちにこのように」
「努力の賜物じゃない!」
里桜はニコリと笑うと、レアンの胸に額をつけた。
「レアンのそういう努力家なところ、尊敬しちゃう。私も頑張らないとって思うもの」
思わず抱きしめたくなる衝動を必死に抑え、レアンは顔を背けながら「ありがとうございます」と言うだけで精一杯だった。
「あ。ごめんね、端末見なきゃ。レアン、暇だよね。テレビでも見てる?」
「いえ。大丈夫です。何か手伝える事はありますか?」
「平気。任せて!」
用事を言いつけられた事が嬉しくて、里桜はパッとテーブルにつくと、張り切って作業をした。ああでもないこうでもないと調べながらぶつぶつと呟く里桜から視線を外し、レアンはボードの上に置かれている写真に視線を向けた。
里桜の両親と、里桜、ヴィベルの4人が着飾り、緊張した面持ちで映っている。写真の中の里桜は四~五歳位だろうか。
「ヴィベルとは、随分小さいころから一緒だったのですね」
「うん。叔父と姪というよりも、兄妹みたいでしょ? お母さんとヴィベルさんは歳も離れているし、本当の姉弟じゃないんだって。だから、私とヴィベルさんは血の繋がりが全然無いの」
里桜も写真へと視線を向けた。里桜の七五三祝いの写真。四人で写っている写真で残っているのはその一枚だけだった。他の写真は、何故か父がデータを全て消してしまったのだ。
「私、お母さんの事件の後、ヴィベルさんに凄く反抗的で。血が繋がってもいないのにお世話になってるって事がどうしても引け目に感じていたの。お父さんの事もお母さんの事も、ヴィベルさんには全く関係ないのにって」
里桜は震える手をぎゅっと握りしめた。
「今だってそう。私、何の役にも立ってない。皆のお荷物になってばかり。だから、ファメールさんにも呆れられちゃったんだよね」
「兄上に?」
「出ていって欲しく無かったの。ここに居て欲しかったのに……」
ブルージルコンの瞳から涙を溢れさせる里桜にレアンは驚いて、宥める様に頭を撫でた。里桜はレアンに甘えてはいけない、と、抱き付きたい気持ちを抑え込んで、テーブルに突っ伏した。
「里桜、兄上は今朝様子が変でした。苛立ってアダムに八つ当たりをして、それでアダムが誤って私の端末を落としてしまいました。それを見て『里桜に修理依頼でもしてきなよ』と、嫌に強引に勧めるのです。何か意図があるのだろうと兄上の勧めを承諾したのですが」
『もしも、ここに来たのが僕じゃなくレアンだったのだとしても、キミは同じように引き留めた。そうだろう? キミのその思いは、寂しさという増強剤による偽りの感情さ』
昨日ファメールが言った言葉を思い出して、里桜は更に涙を溢れさせた。
——ファメールさんの言った通りだ。私は、レアンに頼られて嬉しかった。一人で居るのが嫌だから……。
「レアン、どうしよう。私、『好き』がわかんない。これじゃあただの寂しがりやの八方美人だよ」
「里桜?」
「私、ファメールさんが家から居なくなっちゃうのが凄く嫌で堪らなかったの。それなのに、レアンがここに来てくれて嬉しかったし、レアンがこの後帰ってしまうのも凄く寂しいし嫌だなって思うの。ファメールさんにもレアンにも、同じようにそう思っちゃうの! アルカにだって逢いたいし、私おかしいのかな」
レアンは小首を傾げると、小さくため息をつき、里桜の隣の椅子に腰かけた。
「里桜、何もおかしい事ではありませんよ。友人が複数人遊びに来て、一人でも先に帰ってしまえば寂しいと思うのは当然なのではないのですか?」
「え?」
「楽しく過ごしていた相手が居なくなるのは、誰でも寂しいでしょう。それがどうして悪い事なのです?」
溜息をつき、レアンは「兄上のヤキモチにも困ったものです」と、里桜の背を優しく撫ぜた。
「やきもち?」
「ええ。一人で勝手にヤキモチを妬いているだけですよ。そんなことに振り回されては不幸なだけです。気にする必要はありませんから」
ふっと笑うと、レアンはマリンブルーの瞳を細めて里桜を見つめた。
「とはいえ、兄上はヤキモチを妬く相手が随分と限られていまして。私と、アルカにだけだったのですが。里桜にもヤキモチを妬く様になったのですね」
「……それって、喜んでいいのかよくわかんない」
「慣れるまで大変だと思いますが、付き合ってやってください。全く、兄上は妙な所が子供で困ります」
里桜は我慢しきれずレアンに抱き付いた。レアンは驚いて、照れながらも里桜の頭を大きな手で包み込む様に撫でて、泣きじゃくる里桜を宥めた。
「嫌われたと思ってすっごくショックだった!」
「傷つけてしまってすみません。兄上の代わりに謝ります」
「でもね、『好き』がわかんないのはそう。私、どうしたらいいのかな。自分の子供っぽさといい加減さで人を傷つけたくないのに!」
自分の胸の中で泣きじゃくる里桜が堪らく愛しいとレアンは思った。できることならば、この愛しい女性を独り占めして、誰からも傷つけられないようにしてしまいたいと考えながらも、深呼吸をして自分の気持ちを落ち着かせて、里桜の背を優しくトントンと叩いた。
「焦る必要がどこにあるのです?」
「でも、呆れられちゃう! 私、もう二十歳だっていうのに、恋がなんなのかも知らないんだよ? 恥ずかしくてどうしようもないっ!」
「そんなことで呆れる者などいませんよ」
「でも、居なくなって欲しく無いもの! ファメールさんにもレアンにも、折角会えたのに!」
「里桜に会うまで私も兄上も二年待ちました。まるで永遠の様に長く感じ、やっと出会えたというのに、私も兄上も里桜から離れたいなどと思ってませんよ」
「皆が何処かに居なくなっちゃいそうで怖いの!」
「居なくなったりなどしません。大丈夫ですから」
里桜は顔を真っ赤にしてレアンを見上げた。里桜のその表情が余りにも可愛らしく、レアンは僅かに困惑して、ゴクリと息を飲んだ。
「あの、ね。どうすればいいのか本当にわかんなくって……私、もう二十歳なんだよ? それなのに、男の人とつきあったことが無くて、まだ処女だなんて。友達にも退かれちゃう」
「……」
レアンまで顔を真っ赤にすると、思わず顔を背け、コホンと咳払いをした。
「里桜、それこそ焦ってどうこうしてはならない問題だと思いますが」
何故、今突然そんな事を言うのだろうかと、戸惑うレアンに、里桜が「レアンは女性経験あるの?」と追加の質問をするので、レアンはフリーズした。
自分の発言にハッとして、里桜は慌ててフォローする様に声を発した。
「ご、ごめんね! 女性が苦手なんだもんね!」
女性に対して触れる事ができないレアンに対して失言だったと、里桜はマズイと思ったが、レアンは思いのほか落ち着いた様に小さく咳払いをして視線を背けた。
「ええ、まぁ。経験が無いことも無いですが」
「そうなの!?」
「私の話はいいんです! 止めましょう!」
慌てて話題を変えたレアンを見上げて、里桜は『レアンも男性なんだもんね』と、当然の事を考えて、自分相手にはそういう感情は一切無いのだろうな、女性が苦手なレアンが、自分にはこうして普通に触れるのだから。と、ふっと笑った。
「友達からね、言われたの。私、洒落っ気無いでしょ? 恋をすれば女性は綺麗になるなんて言うけど、縁が無いのかなって思って。昨日、ファメールさんもレアンもとっても素敵だったのに、私ったら一人だけダサくって。こんなだから、ファメールさんも呆れちゃったのかなって。一緒に居て、ホントは恥ずかしかったんじゃないかって思ったの」
「心配要りませんよ。里桜は十分綺麗ですし、女性として魅力的です」
レアンの言葉に瞳をまんまるくすると、里桜は「ホント!?」と、可愛らしく小首を傾げた。
「私が嘘をつけないのは知っているでしょう?」
「うん。でも、レアンは私とは平気で触れたりできるじゃない。それって、私の魅力が無いからなんだろうなぁって思って」
「それは違います!」
慌てて否定すると、レアンはまくし立てる様に言葉を続けた。
「里桜は美しいですよ! 私がなぜ平気なのかは私自身も分かりません! ですが、十分魅力的です! 私を物差しにしてはいけません、大間違いです!」
顔を真っ赤にして否定するレアンをポカンとして見上げて、相変わらず優しいなと里桜は微笑んだ。その微笑みが余りに愛しく感じ、レアンは大きくため息をついた。
「全く、情けない。アダムからも聞いたでしょう? このトラウマのせいで、私は女性の手術ができず、医者として不適合者なのですから」
「全然触れられないの? 私には平気なのに」
レアンの手を取り、里桜は自分の両頬にペタリと触れさせた。頬が左右から押され、ムニュッと唇をアヒル口にして変顔をして見せる里桜が可愛らしく、レアンがぷっと笑った。
「あ、レアン、今の笑顔可愛い!!」
「え!? かわ……」
里桜はレアンの両頬に自分の両手を充ててむにゅりと寄せた。ケラケラと笑い、「可愛い!!」と言う里桜に、レアンもつられて笑った。そして、里桜はぎゅっとレアンを抱きしめた。
「レアンのトラウマ、無くなるといいね。ね、一緒に頑張ってくれないかな? 私も色々無くしたいトラウマがあるから」
里桜に抱きしめられながら、レアンはその温もりを味わう様に瞳を閉じた。
「里桜と一緒ならば、何でも頑張れます」
「有難うレアン!」
ちゅっ、と、里桜がレアンの頬のキスをした。顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべると、「はじめの一歩。ね?」と、里桜は恥ずかしさに耐えられず、自分の両頬を自らの両手で覆った。
「ダメ。恥ずかし過ぎる!!」
レアンは里桜の肩に優しく触れた。彼女のブラウンの髪をサラリと耳にかけてやると、潤んだブルージルコンの瞳に吸い込まれそうな程に見つめた。
「レアン?」
里桜の柔らかい桜色の唇がふわりと動く。
里桜は端末の画面に視線を走らせて、「あ。故障原因が特定できたみたい」と言って、するりとレアンの手から抜け出すと、端末を取って微笑んだ。
「ね、修理急ぐよね? 端末、買いに行こう! データならサルベージできると思うし」
「……助かります」
「鞄、取って来る!」
パッと離れて自室へと向かう里桜を見送りながら、レアンはため息をついた。
——何故、里桜には触れて平気なのだろうか?
里桜に初めて会った時、不安げにアルカの後ろから自分を見上げる様子を見て、『守るべき人』なのだと直感的に思った。
それは男女関係無く『リオ』に対して芽生えた感情だった。今でもその思いは変わる事なく、彼女を守りたいと願っている。勿論、自分の事を異性として見てはいないのだと知っていても。
下心が無いといえば嘘になるだろう。彼女も私の事を想ってくれるのなら、どんなにか幸福だろうかと考える時もある。しかし、そこまで望んではならない。私は彼女の枷になりたくはないのだ。
私が恐ろしく狂暴な化け物だと知った後も、里桜は私に対する態度を変えずに居てくれた。それがどれほどに嬉しかったか彼女には伝える事ができない。守る為には、近づかない事が一番なのだと決心していたからだ。それなのに、里桜は何の恐れもなく私に近づき、躊躇なく触れる。その行為が堪らなく嬉しく感じながらも、罪悪感に苛まれるのだ。
そう、私は化け物だ。エデンでも、現実世界でも。もしも私の過去を知ったのなら、彼女は私を恐れるだろう。残酷で、血に飢えた化け物なのだから。




