ミカエルの懺悔
ファメールはシガーを口にし、ふぅっと煙を吐いた。金色の瞳を閉じ、眉を顰める。
——アルカにとって脅威をもたらす存在を抹消しなければならない。
僕が最初に里桜に芽生えた感情は『憎悪』だったのかもしれない。僕から守る為にわざとレアンの元へと彼女を送り込んだアルカの行動が、腹立たしいことこの上無かったからだ。それに加え、レアンが日に日に彼女を大切に思う事に対しても苛立ちを覚えた。
僕から大切な兄弟を奪う憎き娘。
そうとも、早いうちに彼女の存在を消し去るべきだ。僕はそう考えて行動することにまったくもって抵抗は無かった。彼女を消す事で兄弟から恨まれる事になろうとも構わない。アルカを。いや、僕にとって居心地のいい大切な世界を失う事に比べれば、問題ではないのだ。
エデンの僕は心のどこかで感じていたのかもしれない。現実世界がどれほどに混沌たる世界なのか。だからこそ彼女も逃げて来たのだろうから。それでも、ここは僕達の楽園だ。脅威は追い出す他無い。
それなのに、彼女のブルージルコンの瞳は美しかった。意志の強い、清らかなあの瞳で見つめられる度、僕は自分の矮小さに気づき、劣等感に苛まれた。
絶世の美女とまではいいがたいものの、宝石の様な煌めく瞳と、陶器の様に白く透き通る肌。薄紅色の唇に、儚げな微笑みを浮かべる彼女は、ただ弱い者ではなく、強く優しい存在だった。
その彼女が、僕の為に涙を零したのだ。熱で魘されて起きた時、看病に疲れて眠る彼女の頬に残る涙の跡に僕の心は激しく揺さぶられた。
彼女の流す涙は水晶の様に煌めき、確固たる意思で僕を見つめ頷く姿は戦乙女の様に清廉であり、また微笑む姿は聖母マリアのように婉麗だった。
瞳を細め、彼女に見入る僕に気づきもせずに、無邪気に笑い、少しばかり迂闊な様子には思わず手を差し伸べてしまうのだ。
僕のこの汚れた手を差し伸べたというのに、キミは何の躊躇も無くその手を取り、純真無垢にもお礼すら述べる。
——キミは知らないだろう。
キミと触れる度。僕は、自らの汚れと矮小さを深く深く噛みしめるのだ。キミがもし僕の過去を知ったのなら、どんな瞳を向けるのだろうか?
それを思うと恐ろしくて仕方がない。
「ほぉら、どうだ? おれがお前を美しく飾り立ててやる」
僕が思い出す実父と言えば、低く気味の悪い声色で僕にそう呟く様だ。
光り輝く薄刃を白く薄い皮膚にブツリと刺され、ツッと線を引かれる度に、僕は激痛に身悶えた。口には布を押し込められ、叫びは誰の耳にも響かない。両手両足は縛られて、体も動かない様に台の上に固定されている。
暗闇に浮かぶ青白い僕の肌に、父がつけた文様が刻まれていく。文様から溢れ出た血液を見て、父は眉を歪めて乱暴に布でこすり取った。
「おれの芸術が見えん!! 汚れた血めっ、流れ出でるなっ!!」
何故こんな仕打ちをされるのか。父が言うには僕は汚れているからなのだそうだ。僕の父も母も、栗色の毛色なのだ。つまり、この両親からプラチナブロンドの髪の子が生まれるはずがない。妻の不貞で生まれた僕を穢れと言うのも当然なのかもしれない。
僕は生まれながらにして汚れた存在なのだ。
肌に深く刻まれた傷は熱を持ち、僕は毎日の様に魘され続けた。体力ももう限界だ。ひと思いに殺してくれたのならどれほどに幸せか分からない。
ところがだ。ある日を境に父がピタリと姿を現さなくなった。暗い地下室で、僕は誰からも忘れ去られた様に何日も一人で過ごした。そうしているうちに、今更僕を飢えさせて殺すつもりなのだろうかという考えにたどり着いた。
僕は歓喜した。これで開放されると。この苦しい地獄から、僕は死をもって開放されるのだ。生きる事は苦しい事でしかない。痛みしかない。ただ苦痛に悶えるだけのこの世界に、何一つの未練もない。
死ぬことで、僕はこの世界での汚れた肉体を捨て、清らかな魂のみの存在になれるのではないだろうか。
死よ、早く僕を開放してくれ!!
けれど……僕の願いは叶わなかった。地下室への扉が開かれて、眩い光に眉を寄せた瞬間、僕は絶望した。どうして、このまま暗闇の中で僕を死なせてくれなかったのだろうか、と。ただただ空腹に苦しみ、化膿した傷の痛みに悶えていただけの無駄な時間でしか無かったのだ。
初めて外の世界へと運び出された時、世界は夜だった。けれど、光り輝く満天の星々の光が僕には眩しくて仕方が無かった。あの美しい無数の光が汚らわしい僕を清めてくれたのなら良いのにと、願わずにはいられなかった。
「なんて……綺麗な……」
空を見上げた僕は、溜息と共に言葉が自然と零れた。
「早く乗りなさい」
羨望の眼差しで空を見上げる僕は無理やりに車に押し込まれた。車内は閉じ込められていた地下室と変わりなく、闇に飲まれている。僕の行先もまた等しく、闇の中に続いている事だろう。
保護された僕は、父親がどこぞで首を吊り自殺したのだという説明を聞かされた。その死にざまは恐らく悍ましい程に醜く汚れたものだっただろう。
母親はと問われたが、知らないと答えた。僕が物心ついたころにはその姿を見た事が無いからだ。調べる気も得にない。どうだっていいと思っていた。
取り調べの後、大して間も開けず僕は孤児院で保護される事になった。
孤児院での入浴を頑なに拒否し続けた。僕の肌につけられた傷跡を、皆奇異の目で見るに違いない。気味が悪いと蔑み、汚い物を見るような目を向けられるに決まっているからだ。
ついに我慢ならなくなったのだろう。埃まみれで薄汚れた僕を施設の大人たちが無理やりに風呂へと入れるべく、両手両足を縛り上げた。抵抗できない状態のままボロ服をナイフで切られ、裸にされた。露わとなった僕の肌に刻まれた文様を、彼らは当然の如く眉を寄せて見つめた。
汚いものを見るようなその目に晒されて、僕は余りの屈辱にぎゅっと瞳を閉じ、歯を噛みしめた。
「何の騒ぎだね?」
施設の大人達を掻き分けて、中年そこそこの顔つきの割に、嫌に白髪だらけの男が顔を出した。
「エルネストさん、新しく入った子の沐浴をさせようと……」
「無理やりにかな?」
「ですが、この子は保護される以前からずっと入浴していません。不衛生な状態では病気になってしまいます」
エルネストと呼ばれた男性は何故だか「では私が代わろう」と、上等そうな上着を脱ぎ、カフスボタンを外してワイシャツの袖を捲り上げるとと、孤児院の職員達をその場から追い出した。シャワーのお湯を出し、温度を自らの手で確認した後に、僕へとそっとかけようとした。
「僕に触るなっ!!」
「父親が刻んだのかね?」
矢継ぎ早に問われた言葉に、僕は思わず絶句した。
あれが父親だと僕は認めたく無かった。そうとも、あんなものと僕は血が繋がってなどいないのだ。そう思いたかった。
口を閉ざした僕を、優しく丁寧に洗いながら、エルネストは言葉を続けた。
「美しい文様だな。まるで星座のようだ」
あの美しい星々と比較され、僕はカッと頭に血が上った。
「バカにしているのかっ!!」
「まさか」
「あの男が悪戯に刻みつけた醜い傷痕だ!」
そうだ。呪いの文字の様に悍ましいに決まっている。あの男は僕を憎んでいたのだから。
「あの男、か。父親だろう?」
「いいや。見て分かるだろう。血なんか繋がっちゃいない」
「こうも汚れていては分からぬな。確かに父親の髪色とは異なるようだが、恐らく君はアルビノだ。DNA検査をしてみるかね?」
アルビノ……。孤児院で読んだ書物に書かれていたそれは、遺伝子障害により生まれつきメラニン色素が作れない疾患の事だ。
「違う! 僕は弱視じゃない! 肌も紫外線を受けても火傷しない!!」
紫外線に弱いアルビノは、視覚に障害を持つ事が多く、皮膚は太陽の光で火傷を負う程に弱いのだと言う。僕の反論にエルネストは頷いた。
「幸いだった。君は見た目への影響のみで、皮膚にも影響が出ていない様だね」
「嘘だっ!! そんなハズはない。ありえない。あってはならないことだ!!」
僕は信じたく無かった。あの男が本当の父親なのだと思いたくはない。誤解で片づけられたくはない。刻みつけられた身体の傷も、心の傷も、たかだかその程度の言葉の価値しか無いというのか。
「こんな、醜い傷痕が……たかが勘違いなんかで……!!」
エルネストは優しく微笑むと、自らのワイシャツのボタンを外し、その体に刻まれた痛々しい傷跡を見せた。まるで肉体を引き裂かれた様なその痕に、僕は心の底からゾッとした。
あからさまに眉を寄せる僕の表情に、彼も気づいたことだろう。
「この傷はね、戦争でついたものだよ。どうだね、醜いだろう?」
ああ。醜い。とてもね。と、口には出さずにそう思った。
手に石鹸をつけ、エルネストは泡立てた。そしてその泡を僕の髪へと塗り付ける様を、黙って受け入れた。
僕は彼の命を奪わなかったことが不思議に思える程の凄惨な傷痕をじっと見つめ続けた。
「一体これは誰がつけた痕なのだろうね? 何者なのか。人であることには違いないのだろうけれどね。君は父親を怨むのかな? では、私は全人類を怨まねばならないね」
「戦争なんかするからじゃないか」
「そうだね。君の言う通りだとも。そんなことをしなければ良いのだ」
僕の髪を洗いながら、彼はつづけた。汚れが落ちて、僕の髪色が初めて彼の目に晒される。
「ほう。プラチナブロンドの髪か。やはり君は美しい子だね」
「美しいものか。僕は穢れている。だからこんな傷を刻まれた」
「私のこの傷はね。君と同じ位の年頃でつけられたものだ」
瞳を見開いた僕に、エルネストは優しく微笑んだ。
「私の父は軍人でね、戦地でもうけた子が私だ。だから私は子供の頃、ずっと戦場で生活していたのだよ」
全くの無関係じゃないか。たまたまそこに居ただけ。その国に生まれたというだけでついてしまった痛ましい傷痕。それは、誰の罪だろうか……?
「戦地の子供など、社会にとってはゴミクズ同然。誰の目からも気にされもしない。貧困な子は、穢れどころか命と呼べもしない存在なのだよ」
——命とも呼べない……?
生き物相手に傷を刻まれるどころか、石ころのように扱われただけ。
「大きな砲弾がね、私のすぐ真横に落ちた。妹は粉々になってしまったよ」
シャワーを掛け、僕の汚れを洗い流し、エルネストは満足そうに微笑んだ。刻まれた傷痕を指でさし、なぞる様に触れた。
「うむ。これは白鳥座のようだ。これはさそり座かな? 美しいな」
「僕は汚いよ。貴方とは違う」
「汚くなど無いとも。絶対に、ね」
大きなタオルで包み込むと、エルネストは僕の両手両足の縄を解いだ。
「穢れなど無い。君は綺麗だとも。胸を張りなさい。堂々と生きる権利が君にはあるのだからね」
「……生きる権利?」
それは苦しみ悶え続けよと言う意味だろうか、と、眉を顰め彼を睨みつけた。
「勿論だとも。堂々と、ね。誰もに与えられた権利さ。君だけではなく、万人にね。何も特別な事では無い」
「僕もその万人に含められる?」
「君が特別な事は何もない。現に今、君はこうして生を受けているのだから。全てと等しく権利は与えられるのだよ」
「皆僕と同じく苦しんでいるのだといいたいの?」
「そうではない。君も皆と等しく幸せに生きる権利があるのだと言っているのだよ」
——皆と等しく?
権利がある……?
まさか。僕には何もない。何一つ与えられたものなど無い。生きる権利すらも無いのだ。
「そんな権利、僕にあるものか!」
「この世に生まれた。それが証明だ」
エルネストの言葉は、僕の心に深く深く突き刺さった。言い逃れできない程の権利の証明。存在している。それこそが生きる為の権利なのだ。
つっと、僕の瞳から涙が零れ落ちた。
「……生きてはいけないのかと」
「何故だね?」
「僕は……汚れているから」
「言っただろう? 穢れ等無い。君は美しい。この世界に必要な存在なのだよ。だから生きている」
数日後、エルネストは、僕を里子に欲しいと孤児院に申請した。僕は『ミシェル』という名を貰い受け、彼の元で、彼の役に立つべく生きる事にした。
「ミシェル。大天使の聖名を名乗りなさい。お前は気高く美しい」
エルネストは敬虔なクリスチャンだった。毎日祈りを捧げる度、彼は僕を誇らしげに見つめた。大天使の名を僕にくれた彼にとって、誇らし気なその瞳は、僕を綺麗なのだと認めてくれているのだと裏付けてくれている。
ああ、僕は、彼の元でなら穢れとしてではなく、気高く生きて行けるだろう。だから、エルネスト、貴方の言う事ならば何でも利くよ。貴方に嫌われないように、役に立てるように。
僕は貴方の為に生きる。そう誓ったのに……。
『ああ、ミシェル。なんと、汚い子だろうね』
エルネストが放ったその言葉は、やっとの事で生きようと現世に這い上がった僕を地獄に突き落とすには、十分過ぎる言葉だった。




