格差
トントントンとまな板を叩く音がキッチンからリビングに響く。ふんわりとコーヒーの香りを漂わせながら、カウンターキッチンの横に設置してあるテーブルでヴィベルが端末を覗き込んでカップに口を付けた後、優しい笑みを浮かべ、キッチンで朝食の支度をする里桜を見つめる。
「今日は何のスープですか?」
「具だくさんトマトのコンソメスープ!」
「トマトスープですか? いいですね。今日も暑くなりそうですし」
「コンソメスープだよ。トマトは皮を剥いて、潰さずに大き目に切るの」
「里桜の作るスープは美味しいですからね。いいお嫁さんになりますよ」
「相手が居ないよ。ヴィベルさん」
他愛もない会話をし、里桜が微笑んだ。オーブンが電子音を発し、パンが良い具合に焼けたと知らせてくれる。
「では、そろそろ結婚しましょうか」
ヴィベルの言葉に里桜は笑うと、「だから、相手が居ないって言ってるじゃない」と、オーブンからパンを取り出しながら言った。
「私とですよ。里桜」
「……え?」
——スマートフォンのバイブレーションがベッドの縁で振動する音が聞こえる。
手を伸ばし、目覚まし時計代わりのそれを止めると、里桜は微睡みながら布団の中で呆けた。
——いつもの朝の様子を夢で見るだなんて、私ったら他に見る夢無いの?
と、呆れながら起き上がり、欠伸をした。
——ん? 待てよ? 夢の最後辺りヴィベルさんが妙な事を言っていた気がするけれど。うーん。なんだろ。思い出せないや。
ま、いいか。と、着替えを終えて里桜はリビングへと向かった。
リビングにはヴィベルの姿は無かったがカーテンは開けられており、不思議に思い握りしめているスマートフォンを見つめた。
『業務が立て込んでいますので今日も早朝から出社します』
と、ヴィベルからのメッセージが入っており、昨日のうちに言ってくれれば私も早起きしたのにと、唇を尖らせた。恐らくヴィベルの事だから、里桜に早起きさせては申し訳ないと気遣っての事だろう。
リビングに差し込む朝日に眩しそうに瞳を細め、里桜はガランとした人気の無いその様子に、急に寂しくなって僅かに手を握りしめた。
ファメールはどこだろうか。まだ眠っているのだろうかと振り返り、リビングのドアを見つめる。
起こしに行ったらまずいだろうか。きっと慣れないところに来て疲れているはずだ。ゆっくり眠らせてあげなければと思いながらも、里桜は落ち着かず、そわそわとし、座る事もせずにその場に立ったまま、リビングのドアを見つめ続けた。
握りしめたスマートフォンが振動し、里桜はドキリとして、つい床に落としてしまった。慌てて拾い上げ、画面を覗き込んだ。ファメールからのメッセージだと気づき、読み進める。
『おはよう、里桜。今日はヴィベルが早朝から騒がしくて目が覚めちゃったよ。僕も暫く日本に滞在する事になりそうだから、レアンと買い物をしてくる事にした。夕方にはジグラート本社に向かうから、そこで落ち合おうか』
里桜は慌てて猛スピードで返信を打ち返した。
『お買い物、私も一緒に行きたい! 何処に行けばいいの!?』
レアンとファメールが居るであろうカフェの側に到着すると、アッシュブロンドの背の高い男性が、年配の女性と何やら話し込んでいる様子が見えた。レアンと一緒に居る、あの女性は誰だろう? と、不思議に思って歩を進めると、二人の会話が聞こえてきた。
「外国の方ではこの辺りの道も分からないでしょうに」
「大丈夫ですよ。今はスマートフォンがありますから」
「私はどうも機械が苦手で。助かるわ」
「一緒に迷わないように確認致しましょうか」
どうやら年配の女性が道に迷い、困っている所に、レアンが声を掛けたようだ。二人でスマートフォンを覗き込み、レアンが「あちらの様ですね」と、高い建物に遮られた曲がり角を手で指し示した。
「ご丁寧に有難うございます」
不安げに、けれど丁寧にお礼を述べた女性に優しく微笑むと、レアンはすっと手を差し出した。
「どうぞ、マダム。一緒に近くまで参りましょう」
レアンの整った顔立ちに、優しい微笑みを向けられ、年配の女性が頬を染める様子を遠目に見つめながら、レアンらしいなと里桜はため息をついた。
誰に対しても分け隔てなく優しく紳士的で、決して独りよがりでは無い。レアンはいつだって他を気遣う余裕のある大人の男性だ。
ただ、日本人女性はああいったフェミニストな対応には慣れていない為、大丈夫だろうかと、少し心配になりながら二人の背を見送った後、ファメールが待っているであろうカフェへと向かうべく、歩を進めた。
「あれ? 里桜だ」
「あ。ホントだー。久々じゃん」
かけられた声に里桜はドキリとした。拒絶したい気持ちのままなんとかその声のした方向へと顔を向けると、数人の里桜と同じ年ごろの女性達が立っていた。
高校の頃のクラスメイトだ。中央に立っているショートカットの女性は、このチームのリーダー的な子で、率先して里桜を虐めていた。大学に上がって顔を合わせる事など無いだろうと思っていたのに……と、里桜は俯いた。
緊張し、手のひらに汗がじんわりと滲むのが分かる。動機が激しく、呼吸が苦しい。
「外に出てくるなんて珍しいじゃん。引きこもり女は高校で卒業したの?」
「誘ったって断ってばっかだったよねー?」
里桜は黙り込んだ。早くこの時間が過ぎる事を願いながら唇を噛む。
「つーかさぁ、大学生になっても相変わらず洒落っ気なくない?」
「ホント、だっさーい」
「ジャージじゃないだけマシ?」
「あんたさぁ、いつまでもそんなだと彼氏できないよ?」
「そうだ。あたしらが服選んであげようか?」
「あ、いいね。ほら、来なよ。丁度服見に行こうって話してたとこなんだ」
——どうしよう。嫌だ、行きたくない……!!
ぎゅっと拳を握りしめ、里桜は強張る唇を必死に動かした。
「あ、あの。友達と、待ち合わせ…して、るから……」
「はぁ? 折角親切にしてあげてるのに」
「超シラケるー」
「ご、ごめんね。また、今度……」
彼女達をすまなそうに見つめた後、逃げる様にパッと駆け、里桜はカフェの店内へと入った。
緊張の為、体中の震えが止まらない。ドキドキと鼓動する心臓が苦しくて、落ち着こう、と深呼吸をし、まだ震えの収まらない唇をきゅっと噛みしめた。
エアコンの効いた涼しい店内にほっと一息付くと、窓際で本を読みながらコーヒーを飲む、プラチナブロンドの髪の青年の姿が目に入った。そして、彼の美しい出で立ちにチラチラとしきりに視線を向ける他の客や店員達を目にし、里桜は思わず自分の服装を見下ろした。
群青色のTシャツに、白いジーンズ。ヒールの無いサンダル。片掛けのボディバッグを背負い、ブラウンの長い髪は無造作にポニーテールにしていた。勿論、化粧も何もしていない。
カフェの前で会った同級生達がバカにするのも頷ける、と、里桜は再び視線をファメールへと向けた。
自分に比べ、窓辺に座るファメールは高価そうな生地のスーツに身を包み、夏場だというのにきっちりと上着を着こんでネクタイまで締めていた。金色の瞳で本を見つめるまなざしは色っぽく、見ているだけでドキドキする程に美しい。
こんな自分がファメールの側に行っては、彼は恥ずかしいと思うに違いない。
「お客様、お待ち合わせですか?」
店員に声を掛けられて、里桜は「はい……」と、小さく答えながら俯いた。
——どうしよう。ファメールさんの所に行くのに勇気が要る……。
「里桜、早かったですね」
後ろから声を掛けられて振り向くと、にこやかな笑みを浮かべたレアンの姿があった。
アッシュブロンドの髪に、グレーのスーツ。ネクタイは締めてはいないが、カジュアルなYシャツを着こみ、良く磨き上げられた革靴を履いていて、鍛え抜かれた大きな体に品の良い立ち振る舞いで、目立つ事この上無い。
店内の視線がレアンへと一気に集中し、ぎこちない笑みを浮かべた里桜に、レアンは優しく肩に触れ、「兄上はあちらに」と、席に行くように促した。
「モデル?」
「スポーツ選手?」
「綺麗な髪」
「すっごくイケメンね」
日本人らしく控えめではあるが、レアンを褒めちぎる声がそこかしこから聞こえてくる。ファメールが座る席へと向かう短い距離は、晒し者の様に居心地が悪く、「やあ、来たのかい」と、里桜を笑顔で迎えた完璧過ぎるファメールの様子に、里桜は増々項垂れた。
「どうしたのさ?」
「ええ。元気が無いようですが」
「な、何でもないよ! えーと、早くお店出ようよ。お買い物行くんでしょ?」
「それならもうある程度購入したよ」
そう言って、ファメールは『これでね』と言う様にスマートフォンをトンと叩いた。
「え? じゃあ、お買い物は行かなくていいの? 着替えは多めにあった方がいいと思うよ。日本は蒸し暑いし」
「僕の秘書は優秀だからね。日本の気候も理解してくれているだろうから、心配無いよ」
「そうなんだ。あれ? アダムさんは? 一緒じゃないの?」
「アダムはゲームに夢中で引きこもっています」
……私もアダムさんとゲームしてれば良かったかな、と、里桜は小さくため息をついた。
このキラキラ二人組と一緒に居ては、自分のみすぼらしさ加減が恥ずかしすぎて穴を掘って埋まりたい気分に陥る。店内の視線は痛いし、出かけるにしても二人の志向と自分は明らかにずれているのではと思われた。
「里桜、折角だからどこか案内してくれないかな? 僕は日本に来るのが初めてでね」
「いいですね。私もアダムとあのビルに閉じこもっておりましたから」
里桜の思いも裏腹に、ファメールとレアンは里桜をデートに誘った。
気乗りしなそうに俯く里桜を見つめ、ファメールは何となく察して微笑んだ。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外して襟元のボタンを緩めると、袖口のカフスを外して無造作にまくり上げた。
レアンは普段絶対に着崩さないファメールの行動を見て不思議に思ったが、成程と彼も察し、ジャケットを脱いだ。
「ああ、けれど、蒸し暑い中歩くのは勘弁して欲しいかな。日本の気候は苦手だよ」
「そうですね。気取らずに過ごせるような所をどこか知りませんか?」
気取らずに? と、里桜はチラリとレアンを見つめた。先ほどまでのカッチリとした印象からカジュアルな様子となって、穏やかにニコリと微笑むレアン。
そういえば、昨日一緒にお出かけしたいと話していたなと思い出し、「そういうことなら任せて!」と、里桜は嬉しくなってドンと胸を叩いて頷くと、どこに案内しようかとあれやこれやと提案し始めた。
「ここからだと、浅草かなぁ。でも暑いから涼しい屋内の方がいいかなぁ。ファメールさんやレアンはアダムさんと違って遊園地なんて興味無さそうだし……そうだ、水族館とかどう? 涼しいし、日本の魚が……」
「里桜とならどこへ行っても楽しいだろうね」
里桜の手を取り、その指先にキスをすると、ファメールがふっと微笑んだ。里桜は恥ずかしくなって顔をカッと赤らめた後、何かを思いついて「そうだ!」と、声を上げた。
「プラネタリウムは? 最新映像技術を駆使した施設がこの近くにあるの! ファメールさんは天文学者さんだし、どうかな?」
「私も里桜とならばどこへ行っても楽しいと思いますが……」
そう言って、レアンが咳払いをし、『兄上、少々馴れ馴れしいのでは?』と、暗黙の意思を向けて、ファメールがやれやれと肩を竦めて里桜の手を離した。
「レアンはお医者様だから……うーん……寄生虫博物館とか興味ある?」
「……止めてください」
「良かった。私も虫嫌い」
「星は、今はいいかな。仕事を思い出してしまいそうだからね。水族館なんて行った事が無いから興味があるね」
「じゃあ、水族館に行こう!」
水族館にはレアンの運転で向かう事となった。車を回してくるから待つ様にと言われ、街路樹の木陰で涼んでいると、再び先ほどの高校の頃のクラスメイトが現れたので、里桜は逃げ出したくなる気持ちを抑えよう、と、ぎゅっとボディバッグのベルトを握りしめた。
「あれ? 里桜じゃん。まだ居たんだ」
「友達に約束すっぽかされたんじゃね?」
「なーんだ。それならあたしらに付き合いなよ」
里桜は慌てて首を左右に振った。
「ち、違うの。今、友達が車を回してくるのを待ってて、それで……」
「別にさー、嘘つかなくていいよ。あたしらと行きたくないだけでしょ?」
「う、嘘じゃないよ。その……」
「何? もごもご言うから全然聞き取れないんだけどー?」
どうしよう。こんな様子を二人に見られたら、みっともなくてがっかりされちゃう。と、里桜は焦り、おどおどとした。
——お願い。二人が来る前に、私に構うのを止めてどこかに行って……。特にファメールさんには見られたくない。きっとがっかりした様にため息をつくに違いないもの。
私が自分に一つの自信も無く、みっともなくて劣等感の塊の様な人なのだと、彼に知られたくない……。冷たい言葉を今貰ったら、私……。
「里桜。友人かい?」
カフェからテイクアウトしたアイスコーヒーを持って、ファメールが里桜に声を掛けた。プラチナブロンドの髪が日の光を浴びてキラキラと輝いている。
里桜は泣き出しそうになって唇を噛んだ。
——どうしよう。最悪のタイミングだ。
ファメールは、女性達に囲まれて俯き、こちらを見ようともしない里桜の様子を怪訝に思った。どうしたのだろうか。彼女らは里桜の友人ではないのか? と、訝し気に眉を寄せる。
「あ、あの、ね。高校の時の、クラスメイトなの……久しぶりに会ったから、その……」
しどろもどろに必死に紹介しようとする里桜の声が震えている。
ファメールはスッと優雅にサングラスを外した。金色の瞳を細めると、女性達を一瞥し、口元を綻ばせ紳士らしく僅かに頭を下げた。
ファメールの余りの美しさに、彼女達は唖然としてゴクリと息を飲んだ。
女性? いや、まくり上げた袖から覗く筋肉質な腕は男性だろう。背も高く見上げる程だ。プラチナブロンドの髪がまるで銀髪の様にキラキラと輝いて、長い睫毛もまた美しく、つい見惚れてしまう。
そんな彼の完璧な様子に対し、里桜は殊更に劣等感を感じずにはいられなかった。いっそ他人のふりでもしてくれたら良かったのにと、筋違いであるとは思いながらもファメールを責めてしまう。
俯く里桜を見つめ、高校の頃のクラスメイトだという女性達へと視線を走らせて、ファメールは小さくため息をついた。『どうやら里桜は彼女らとあまり良い関係では無いようだ』と、洞察力の鋭い者でなくても容易に気づく事だろう。
「キミ、大丈夫かい?」
ファメールに声を掛けられて、ハッとして里桜は顔を上げた。無意識のうちに泣きそうな顔を浮かべている里桜に、ファメールはニコリと微笑んだ。
「キミが紹介してくれないのなら、僕から自己紹介しなきゃならないんだけれど?」
「あ、そ、そうだよね。ごめんね、えーと……」
「ちょっと、その前に」
ファメールは彼女達の前でわざとらしく里桜の肩に腕を回し、その頬にキスをした。
「里桜。日陰に居ないと日に焼けてしまうよ。キミの美しい肌に傷がついたら大変だ」
「ふぁ……ファメールさん!?」
「キミは僕の宝物なんだからね。Mon,ange(僕の天使)」
突然どうして歯の浮くような事を言い出すのか、と、里桜は顔を真っ赤にした。
まるで絵本の中から出て来たかの様なファメールの美しさと仕草、言葉遣いを目の当たりにし、里桜の高校の頃のクラスメイト達は唖然とするしか無かった。
「え、えーと……」
「里桜。お待たせしました」
レアンが声を掛け、その場の全員がレアンへと視線を向けた。アッシュブロンドの髪をサラサラと風になびかせて、優しそうに微笑む様子に思わずドキリと心臓が鼓動する。
背が高く逞しい体つきが洋服越しにもよく分かる。できる事ならYシャツのボタンをはだけてくれないだろうかと願う程に洗練された肉体美だ。それでいて整った顔立ちに優しそうな笑みは反則と言っていい程の包容力の豊かさで、誠実そうな面持ちも伴って、彼が言う言葉は簡単に鵜呑みにしてしまうだろうと思えた。
ところが、だ。里桜はレアンの乗って来た白く美しい車体のスポーツカーに目が釘付けとなった。先ほどまでの憂鬱な気分をどこかへやり、素っ頓狂な声で叫んだ。
「うそ……フェラーリGTC4ルッソ!?」
瞳を輝かせ、里桜はハイテンションで車へと駆け寄ると、やれ美しいラインだの、エンジンの馬力がいくつだのと褒めちぎりながら一人興奮して夢中になってうんちくを語り出した。
「4人乗りの方にしておいて良かったです」
「買い物前提だったからね」
「え、待って。二人乗りも持ってるってこと!?」
「何台かビルの駐車場にありました。養父は偶に日本に来ていたので、その為に購入したのでしょう。私はあまり車に詳しく無いのですが」
「どれも日本の道路では運転がしづらそうなものばかりさ。僕は里桜のMINI太がお気に入りだよ」
一体どんなお金持ちなの!? と、里桜は苦笑いを浮かべた。
ファメールは振り返ると、完全にアウェイと化した女性達にニコリと微笑んだ。里桜はハッとして彼女達を振り返り、申し訳なさそうに手を振って、車に乗り込んだ。
「ちょっとぉ。里桜を迎えに来た人、モデルか何か? 車の運転してきた彼もめちゃくちゃ美形だし、超高級車だし、一体どうなってんの?」
「里桜の家って、超貧乏じゃなかったっけ?」
走り去った里桜達を見送りながら、彼女達は唖然として言い合った。




