出会い
諦めかけた時、里桜の体が突然水の中でふわりと持ち上げられた。ずっしりとした重みが感じられ、水面から出たのだと分かった。ゲホゲホとむせながら、ありつけた空気を有難く吸い込むと、自分の体が宙に浮いていることに気づいた。
「わ!」
——何だろう。ひょっとして、貰った真っ赤な勇者マントには、空を飛ぶ魔法が掛かっているとか!? しかも、なんだか周りが明るくて良く見える。ここ、洞窟の中だよね?
と、里桜はキョロキョロと辺りを見回した。
「……大丈夫?」
突如声が掛けられて、ビクリと驚いて声のする方向を見つめた。
泉のほとりに灰色の髪と瞳をした男が立っていて、例の老人と同じ光の魔法で辺りを照らしていた。彼は長い睫毛を揺らして瞬きをし、里桜に手を差し伸べると、ニッと微笑んだ。
「こんなところで人に会うとは思いもしなかったぜ」
「う、うん。私も」
「しかも、ちょっと溺れてた?」
「うん。かなり溺れてた。死ぬかと思った」
差し伸べられた彼の手を取ると、彼は優しく里桜を泉のほとりへと立たせた。そして革製のポーチから綺麗な布を取り出して差し出すと、「これで拭きなよ」と、再びニッと微笑んだ。
フワリと甘い、香木の様な香りが里桜の鼻をくすぐった。
「ありがとう」
彼から布を受け取り、里桜は顔を拭いた。受け取った布にも甘い香木の様な香りがしみついている。
「しかしさ、あーんな勢いよく落っこちてくるんだからなぁ。何事かと思ったぜ」
嫌に明るい調子で言葉を放つ人だなと思いながら、里桜は少しだけ彼から距離を置いた。男性相手にはやはり恐怖を感じる。
「その、足を滑らせてしまって」
「あぶねーなぁ。気を付けねーと、怪我するぜ?」
「う、うん。そうだね。気を付ける……」
「ん? なんだ、やっぱり怪我してるじゃねーか。ちょっと見せてみろよ」
「だ……大丈夫だよ!」
人に心配等されるのは随分と久しぶりだ。里桜は無性に照れて遠慮した。
「いいから、ホラ、見せてみろって」
彼は里桜の手首を掴んだ。その瞬間、叔父に襲われた時の恐怖を思い出し、里桜は悲鳴を上げパッと手を引っ込めて後ずさった。
「あ、ごめん」
彼は僅かに驚いて、心配そうに里桜を見つめた。
「ごめん。えーと、オレ……怖い? 怖いか。そうだよなぁ? 初めて会うわけだし」
違う。怖いのは、貴方ではない。と、言いたかったが、里桜の口は強張って言葉を発する事ができなかった。小刻みに震えたまま、その場に立ち尽くす。
「大丈夫。安心して。乱暴なんか絶対しないから。誓うよ。君が心配なんだ」
彼はまっすぐと里桜を見つめてそう言った。その瞳は澄んでいて、誠実だった。
身体のあちこちに痛みがあり、彼の助け無しでは洞窟から出る事もままならないだろう。
「触ってもいいか?」
唇を噛み頷く里桜に微笑むと、優しく手に触れ、傷を確認してくれた。
彼から受け取った布で、里桜は何度も顔を拭いた。何度も。何度も。
人にこんな風に親切にしてもらったのが、余りに久しぶり過ぎて。人って、優しいものなんだっけ? と、思ってしまうほどに久しくて。里桜は涙が止まらなかった。
「傷、結構酷いな。手当しねーと」
「大丈夫……」
「強がるなって。いいから」
溢れる涙を拭きながら、里桜は彼を見上げた。長身の彼は里桜を優しく見下ろしていた。その顔立ちはとても綺麗で、灰色の長髪に大きな灰色の瞳と、スッと通った鼻筋に整った形の唇は、絵画から出て来た天使の様に神々しくさえ思えた。
藍色の詰襟の衣服は銀の糸で刺繍が施されていたが、派手さは無く、品のある落ち着いた出で立ちだった。腰のベルトには群青色の鞘の長剣が下げられていて、里桜はそれから視線を外す様に目を逸らした。
——刃物は苦手だ。
「骨は折れたりしてなさそうだけど、擦り傷だらけだな。痛いだろ?」
彼は白い手袋を外し、長い指の手で里桜の頭を撫でると、「たんこぶまで出来てるぜ」と、心配そうに眉を寄せた。
「はは。間抜けだね」
「君、名前は?」
「里桜」
「リオか。そっか。ごめん、女の子かと思った」
女の子だもん。と、思ったが、言わないでおいた方がいいかもしれない。こちらの世界で『リオ』は女性につける名では無いようだ。否定をせずに愛想笑いを浮かべる里桜に、彼は疑いもせずに「なんだ、そっかぁ」と、頭を掻いた。
「ちょっと残念。好みだったし。めちゃくちゃ可愛いのになぁ」
「……え?」
——何を言ってるの!?
と、カッと顔を赤らめた里桜に気づきもせず、彼は咳払いをすると軽く里桜の肩に手を乗せた。
「なあ、リオ。その怪我、治療しようかと思うんだけど、いいか?」
どうして同意を得る必要があるのだろう? と、不思議に思ったものの、吸い込まれそうな程に美しい灰色の瞳を見上げて里桜は頷いた。
「よし。じゃあ、気にすんなよ?」
気にするなって、なにを? と、問おうとした時、彼は突然里桜の唇にキスをした。
————はい??
思考が停止した里桜の唇に、彼の唇が優しく触れる。暫くの間、呆然としている里桜に彼は口づけを続けた。
「よし。っと」
彼が唇を離した時、里桜はよろけ、思わずペタリとその場に座り込んだ。
——ちょっと待て。私のファーストキス!!
「あれ? 大丈夫?」
「なんでキスなんかっ!?」
「や、だから確認しただろ? 怒るなよ! それにキスって言うな! 治療だっ!!」
「治療ってどういう……!」
フト、体中擦り傷だらけだったはずのヒリヒリが無くなっている事に里桜は気が付いた。頭のズキズキと痛んでいたはずのコブに触れてみても、痛みはおろかコブの痕跡すら無くなっていた。頬の痛みも、手首に残っていた跡でさえも綺麗さっぱりと消えている。
「……あれ?」
「だから、治療なんだって」
「魔法!?」
「あー、いや、ちょっと違う。そうか、気づいてなかったのか」
彼はすまなそうに笑いながら、頭を掻いた。
「オレは、あんたら人間に忌み嫌われる魔族なんだ。悪い、最初に伝えときゃ良かったなぁ。こんなところで会ったもんだから、てっきり気づいてんのかと思った」
魔族? 想像していたのとは随分違うな、と、里桜は驚いて男を見上げた。角があるわけでも無く、尻尾があるわけでもない。
「……魔族はキス魔なの?」
「や、そうじゃねーよ! あー、人間はあまり知らねーのか。一部の魔力の高い魔族には、口移しで魔力を移す事ができるんだ。だから、あんたの怪我が治ったってわけ」
——治療の為のキス。だと?
心なしか里桜を男性だと思ったからか、彼の口調が荒っぽくなった気さえした。
「そうでもなけりゃ、男同士でキスなんかしねーだろ? 治療だ。わかった? 変な気起こすなよ? オレはそーいう趣味はねーし、女の子大好きだし」
あっけらかんと笑う彼を睨みつけて憤然と立ち上がると、彼から手渡されていた布で唇をゴシゴシと擦った。
——もう、最悪だ。ファーストキスの相手が化け物で、その上治療のためだなんて!! 私の人生、一体どうなっちゃったっていうんだか。底辺が見えない地獄に突き落とされている気分だ。
と、里桜は涙目になり、唇がヒリヒリと赤くなる程に拭きまくった。
「なんだよ、何もそんなに嫌がらなくったって」
「嫌に決まってるでしょ!?」
少し残念そうな顔をする彼にプリプリと怒りながら里桜は怒鳴った。
「なんか、まぢで女の子みたいに柔らかい唇だったんで、びびったぜ。ちょっと気持ちよかったし」
「!!!!」
顔を真っ赤にして慌てふためく里桜に、彼は平然として微笑み、手を差し出した。
「自己紹介が遅れたな。オレはアルカイン。まあ、宜しく」
誤魔化された様で腑に落ちない顔をしながらも手を取り握手を交わすと、アルカインはニッと笑った。
よく笑う男の人だな、と、里桜は思った。それに比べ、ここ数時間の自分は泣いてばかりだ。
「宜しく。アルカインさん」
「アルカでいいよ。親しい奴らは皆そう呼ぶぜ。『さん』づけなんか、こそばゆいから止めてくれ」
愛嬌のある笑顔を向けて彼はそう言った。
「で? リオは何しにこんなとこに来たんだ?」
洞窟を歩きながら、アルカが当然の質問をしてきた。まさか異世界から勇者として召喚され、魔族の王。つまり、アルカの国の王様を退治しに来た等と言えるわけもなく、里桜は答えに困りつつ、「道に迷った」とだけ伝えた。
ツッコミどころ満載の答えではあるものの、アルカはそれ以上問いただすような事をしなかった。
「アルカはどうして? 一人でここに来たの?」
「ああ。ここはサ、人気が無くて居心地がいいんだ。涼しいしな」
「人気のない所にわざわざ来るなんて。何か嫌な事でもあったの?」
しまった。会ったばかりの人相手に、ちょっと立ち入り過ぎか? と、里桜は思ったが、アルカは全く気にした様子も無く会話を続けた。
「それがさー、聞いてくれよー。ファメールの奴がさぁ~。あ、ファメールってのは、オレの兄弟なんだけどな? そいつ、すーぐガミガミ怒りやがるんだよ。やれ女口説くなとか、仕事しろとか、夜遊びするなとか」
「……はあ」
怒る内容は至極全うな気がするけれど?
「で、街にメリアちゃんって、めちゃくちゃかわいい女の子が居たんでナンパしたら、『その暇で仕事しろー!』って怒り狂って、オレに魔術で隕石落としてくるんだ。あいつ、オレの嫁かってーの!」
……この人、顔はいいし親切だけれど、実はかなりのどうしようもない男なんじゃ? ファーストキスの相手は最低かもしれない。
「で、その隕石で火傷しちまったから、洞窟の泉で冷やしてたってわけ」
「え? 火傷!? 大丈夫なの?」
くっとアルカの衣服を引くと、彼が足を止めて振り向いた。
「ちゃんと冷やせたの? ごめんなさい。私が飛び込んで、アルカの治療の邪魔をしてしまって」
キョトンとして里桜を見つめた後、彼は照れた様に微笑んだ。
「いや、全然大丈夫。心配してくれてありがとな」
その笑顔が余りにも素敵な明るい笑顔だったので、里桜は思わずじっと見つめた。