奔逸
玄関の明かりすら灯っていない真っ暗な家に到着すると、自転車を隅に停め、なるべく音を立てない様に玄関のドアを開けて家の中へと入った。そうっと廊下を歩き自室へとたどり着くと、荒らされた状態の部屋を見て、唖然として立ち尽くした。
——泥棒が入ったのか? いや、まさか。酒浸りの叔父が毎日家に居るのだからそれは無いだろう。ということは、犯人は叔父以外に居ない。目当ては里桜の預金通帳だろう。
彼女の考えは的中した。机の引き出しに入れておいたはずの預金通帳が無くなっている。殺したい程に憎しみが沸き起こった。憎しみは涙になって溢れ、叫びたい衝動を、唇を噛み切らんばかりに噛み締めて抑え込む。
冷静にならなければ。今キレてはダメだ。まだ取り戻せるかもしれないのだから。相手は酔っ払いとはいえ男性だ。腕力では到底は敵わない。叔父は、父親とは違う。里桜に暴力を振るう危険性は十分にあるのだ。
「……叔父さん」
リビングのソファで死んだように眠る叔父に里桜は声を掛けた。「私の通帳、知らない?」と、言葉を続けようとした彼女の目に、大量の酒が散乱している光景が飛び込んで、言葉を飲み込んだ。
辺りを見回し、ゴミくずの中から大事な通帳を見つけ出し、震える手で開いた里桜は、絶句した。
残高に「0」が表示されている。
眠り続ける叔父を心の中で罵詈雑言を浴びせながら叩きのめす。悔しくて溜まらずに両頬を涙で濡らし尽くし、里桜は嗚咽を漏らした。
——どうして、自分はこうも無力なのか。そして、なんて愚かだったのだろう。想像できたはずだ。この人間のクズなら、やりかねないことを。通帳を常に持ち歩かなかった自分の落ち度でもある。里桜は抑えようの無い怒りを自分に向け、反省に色を変えようとした。
拳で涙を拭い、時計を見た。学校までまだ時間がある。とりあえず、体中に染み付いたアスファルトの臭いだけでも落としたい、と。里桜はシャワーを浴びる事にした。
熱めのシャワーに打たれながら、思い切り泣き、鼻水も垂らしまくった。
(誰か。お願いだから、誰か助けて!! 早く!!)
——いい加減、誰か助けて。もう、限界だ。
当然。その『誰か』は、居ない。自分を助けられるのは、『自分』しかいないのだから。まだ他に希望を追い求めているのかと自嘲して、押し寄せる虚しさに耐えた。
風呂から上がり、伸び放題の長い髪を乾かす間もなく三つ編みに結い上げて、さっと高校のジャージへと着替えを終えて脱衣所のドアを開けた。が、里桜は、思わず「うっ」と息を詰まらせた。
「里桜ちゃん、帰っていたんですね」
腹の出た醜い体形の叔父がゆらりと彼女の目の前に立っている。吐く息は酒臭く、里桜は吐き気を抑えるのでいっぱいだった。邪魔だ。どけ、と言わんばかりに彼女は睨みつけたが、代わりに反してきた叔父の視線に、ゾクリと背筋を凍らせた。
湿っぽいその目線は、明らかに里桜の体を見ている。叔父が着ているスウェットの股間が膨れ上がっているのに恐怖を覚え、後ずさろうとした里桜の手首を、叔父が力任せに掴んだ。ゾワリと全身の毛が逆立った。
「止めて!! 離して!!」
叫んだ里桜の頬は力任せに殴りつけらた。痛みよりも恐怖が里桜を支配した。
「止めて!! 叔父さん!!」
壁に押し付けられ、頭を強打した瞬間、彼女の恐怖は怒りへと変わった。
里桜には何か、『ぶちキレスイッチ』でもあるのだろうか。彼女はぎゅっと歯を食いしばり、叔父に思い切り頭突きを食らわせた。
「痛っ!!」
ふらりとよろめいた叔父は、里桜の手首を握る力が弱まった。素早く抜け出し鞄を掴むと、その地獄の様な家から彼女は脱出した。
坂道を駆けのぼり、駅へと向かう人々に逆走しながら、里桜は無意識にも母親が埋葬されている墓のある丘へと向かった。墓所の入り口へとたどり着き、切らせた息を整え涙を擦ると、叔父に殴られた頬が今更になってズキリと痛んだ。
その痛みに、里桜の涙が反応でもしたかのように滝の様にだらだらと流れ出した。
——だめ。こんな顔、お母さんに見せられないよ。きっと、がっかりさせちゃう。
彼女は墓所の入り口で泣きじゃくりながらしゃがみ込んだ。ガクガクと震える体は恐怖に支配され、自分の制御が一切効かなくなってしまったようだ。
「どうして、私も一緒に連れて行ってくれなかったの? お母さん……」
声すらも震えた。自分のその声に情けなさを覚え、里桜は歯を食いしばって蹲った。
十一月だというのに、白い太陽の日差しが容赦なく照り付ける。時間は誰にも平等とは言うが、だからこそ酷でもある。日が高くなるにつれ、彼女の頭は冷静になっていき、逃げ場の無い現実をつきつけられるかの如く、喉の渇きに気がついた。
——まいったなぁ。学校をサボっちゃった。しかも二度とあの家には帰れない。帰りたくない。大学に行くお金も無くなった。それどころか、生活すらどうしたものか。
深いため息をつき、辛うじて持ち出した鞄の中を探って財布を取り出す。千円札が三枚と、小銭が少し。それと、バイト先の中年男性から半ば強引に買わされた宝くじ。
苦笑いをし、財布を鞄にしまった。宝くじの抽選結果はとっくに出ているだろうけれど、これ程の不幸続きの自分が当たるはずも無い。それよりも、これが数百円の現金であった方が、今はどれほどに有難いか。
行く当てもなければ喉も乾いた。おまけに顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの為、人気のない神社へと向かった。
手水舎の水で顔を洗い、ぐびぐびと飲むと、水のお礼に5円だけお賽銭を入れ、手を叩いた。
サアっと、心地よい風が頬を撫でる。風に乗って香木か何かの、甘い良い香りが里桜の鼻をくすぐった。
なんとなく元気を貰った様な気持ちになり深呼吸をすると、近くのベンチに腰を下ろした。困ったときの神頼みとも言うが、普段から信心深くもなんとも無い自分は、まさにそれだな、と思って苦笑いを浮かべる。
里桜は神頼みついでに宝くじの抽選結果をスマートフォンで見てみることにした。
「……ウソ……」
ポツリと里桜は呟いて、何度もスマートフォンに表示されている番号と、宝くじ券を見比べた。カタカタと手が震える。震える手で恐る恐る宝くじを財布にしまい、その財布を鞄へと丁寧に入れた後、その鞄を抱きしめるように抱え込んだ。
(3憶。当たった……)
ウヒャ————ッ!! っと叫びたくなるのを彼女は必死で飲み込んだ。
ちょ、ちょっと待って。それだけお金があれば、大学なんて余裕じゃない!? 住むところにだって困らない。この先の生活だって、贅沢さえしなければ不自由無いじゃない!?
「やったぁ……あ!」
控えめに、且つ、心の底から絞り出すかのように里桜は叫んだ。
もう、最高!! 私の人生で一番幸せな瞬間なのかも。そう、世の中お金が全てを支配するのだもの! お金があれば、お父さんがあんな風にならなかっただろうし、お母さんも……。
いや、両親の事なんかどうでもいい。私は絶対に人を好きにならないし、結婚もしない。子供の頃の夢は『お嫁さんになりたい』なんて可愛らしい事を言っていたけれど、そんな事は最早どうでも良いことだ。お金さえあれば、人に頼る事を最小限にして生きる事ができるのだから。誰にも邪魔されず。人に関わる事も無く。
『助けて!! 誰か、誰か助けて!!』
どくん……と、里桜の心臓が激しく鼓動した。
——何? 今の。私の声じゃない。誰?
『お願い! 誰か! 助けて!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
眩い光に包まれて、里桜は眉を顰めた。
——何? 何なの? UFOか何か?? それとも、ミサイルでも振って来たとか!? ちょっと、冗談でしょう! 私は今からやっと幸せな人生を歩むの! 絶対に死んでなんか堪るもんかっ!!
……いや、待てよ?
嫌に冷静になって、里桜は考えた。こんな最低な人生から抜け出して、別の人生を歩むのもいいかもしれない。どうせなら、日本では無いどこかの異世界で、絶世の美女になれたらいい。物語に出て来るようなお姫様で、お金にも周囲にも何不自由なく暮らしていければいい。白馬の王子様なんて要らない。ただ、今とは全く違う私になれたらどれほどにいいだろうか……。
そう、願わくばサラサラの金髪に神秘的な蒼い瞳のお姫様……いや、女王様がいいな。両親もいらない。勿論夫も要らない。自分の国で、悠々自適に幸せに暮らせたら、どんなにかいいだろう。
そんな事を考えながら、里桜は光に包まれ、瞳を閉じていた。