サマエルの懺悔 —前編—
まだ日の昇らない時刻に流れる礼拝の声を乗せた放送に、オレは飛び起きて外へと出た。藍色の空の下、砂丘が幾何学的な模様の様に描き出される風景を見つめ、冷え込む空気をすぅっと肺一杯に吸い込んだ。痛みを伴う程に冷たい水で身を清めると、礼拝堂へと続くまだ暗い道をサクサクと音を立てながら歩いた。
人々の影が渇いた大地にポツポツと浮きだっている。オレもその影の一つになり、祈りを捧げながら一歩一歩礼拝堂へと歩み進めるのだ。この時間が一日の中で最も好きな時間だ。
「アーダム、君はまだ幼いのに熱心だな」
大人達が誇らしげにオレを見つめ、優しく微笑んだ。
「当然さ! オレ達は皆、神の為に生きているんだから」
元気に答えたオレに「そうかそうか」と頷きながら瞳を細める様子が大好きだった。自分の存在を大事に扱ってくれている気がして、嬉しかったのだ。
オレは毎日大人達に混じって一日五回の礼拝を欠かさずに行っていた。最初の礼拝の後、二度寝する大人達を他所に部屋の掃除をし、時間が余れば共有の部屋やキッチンも全て綺麗に掃除した。
オレは捨て子だった。けれど、彼らは同じ神を崇拝する者には心底優しい。大人達全員がオレの親代わりだったし、大人達もオレを本当の子の様に可愛がってくれていた。信仰が家族を作り、居場所を与えてくれる。神の存在の素晴らしさを身をもって味わっているのだから、信心深くなるのも当然と言えるだろう。
——例えそこが、世間から危険視されているテロリスト集団だったのだとしても、だ。
彼らは名前の無いオレを「アーダム」と名付けて呼んだ。神が作りし最初の人間の名。オレはその名が誇らしかった。
規律を重んじ、盗みは厳罰。酒も楽器も禁止されていて、言葉もスラングは決して使わない。その生活の厳格さから、行儀見習いにわざわざ子供を預けに来る親も居るらしい。
もしかしたら、オレも本当は捨て子なんかじゃなくて、親が行儀見習いに預けているのかもしれない。いつか両親が立派に成長したオレを迎えにきてくれるのかもしれないと、淡い期待を抱いていたりもした。
「アーダム、汚い言葉を覚えてはいけないよ」
子供だったオレは興味本位で覚えた言葉を発して、大人達に叱られた。勿論、その時の一度きりで、以来言葉には気を付けた。
勿論、言葉だけじゃない。女性は黒いローブを羽織って髪や肌を一切見せない。結婚するまでは男女共貞操を貫くのだ。そして一日五回の礼拝。それが日常だった。厳格な秩序の元で生活をする事こそ、神の為に生きるという事に繋がるのだから。家族と認められる為には神を信じ、規律を重んじる。至って普通の事だった。
その拠点にはオレ以外にも子供の姿があった。いつも優しく他人を気遣ってばかりいるヴィベル。一見女の子の様にすら思える程綺麗な容姿をしたファメール。無口で真面目なレアン。三人はよそ者のオレをすんなりと受け入れてくれた。正しく信仰の賜物だ。
人は神の為に生きる。万人を幸せに導く唯一の方法だ。信じていれば幸せでいられるのだ。
オレ達は四人連れ立って礼拝堂に顔を出した。
ここでは礼拝堂が学校の代わりにもなっていたからだ。
四人で居れば何だってできると思っていたし、いつも笑いが絶えなかった。きっと大人になってもずっと一緒なのだろうと勝手に思っていたし、願っていた。
今思えばどうしてそんな風に考えていたのか不思議でならない。
遠くで光る爆弾の光も、その中へ向かって行く大人達の姿も。運び込まれる大怪我を負った人も、命を失ってしまい、空っぽになった身体が道に横たわっているのも、その全てが日常だったというのに。
それでもたとえ銃弾が飛び交う戦場の中でも祈りを欠かす事は決して無い。敵に気づかれる恐れがあったのだとしても。
ジハード(神の戦)で死ぬ事は信仰する者にとっては名誉な事だ。
——そう、神の為に戦い、死ぬのだから……。
焼け焦げた無数の遺体の山を目前にして、オレはただただ立ち尽くすしか無かった。
真っ暗闇の中、どうにも寝付けなくて一人寝床を抜け出した。外の冷たい風が頬を撫でる中、遠くで光る交戦の様子をぼうっと眺めていた時、ふいにヒュルルルと耳をつんざく様な音が迫って来るなと思った。
オレの経験の浅い脳でもそれが迫撃砲の弾が飛んでくる音なのだと瞬時に理解できた。ああ、なんだろう。人はこうやって死ぬのか。それも悪くはない……あいつらと一緒にいられて楽しかったな。
しかし、たったその一瞬で、さっきまでオレに笑いかけてくれていた人達がオレの目の前で、ただの肉の塊と化しているのだ。酷い悪臭を放つ煙には硝煙の臭いも混じり、彼らの命を奪った兵器の凶悪さを物々しく裏付けている。
たった一人生き残ってしまった事に、オレは呆然としていたのだ。
攻撃は同じ神を崇拝する同胞からによるものだった。そうだ。オレ達の敵は、同胞と呼べる者の中に居る。しかし、彼らは同じ神を崇拝するとはいえ、オレ達の様に規律を重んじはしない。
……神とは?
信仰すれば、皆が幸せになれるんじゃなかったのか? この無数の焼け焦げた遺体の山の中には、ヴィベルとファメールとレアンも居るだろう。
彼らはこれで幸せなのか? 残されたオレは、ジハードで死ぬことができずに不幸なのか?
不幸……だけれど。けれどそれは、一人だけ生き残ったからだ。もしも四人で生き残れたのなら、大丈夫なんとかなるさと励まし合い、きっとこんなにも不幸に思わなかったに違いない。四人で死んでいたのだとしたら、ジハードで死んだのだから本望だと思えただろう。じゃあ、だとしたらたった一人生き残ったオレはどうしてこんなに悲しいのだろうか?
……オレの信仰心の弱さのせいなのか? 本当に?
人の形をした真っ黒い墨が連なる山の前で、ただただ呆然としたまま立ち尽くしていた。凍える様な寒さすら寄せ付けない程に炎は燃え盛り、オレの家族達を見るも無残な姿へと変貌させていく。
……神って、何なんだよ……
「Hey! Ne bougez pas!!(動くな!)」
怒鳴り声の様な声を掛けられ、オレは振り向いた。ブラウンの髪に僅かに白髪の混じった男は、砂埃だらけの軍服に身を包んでいた。見た事も無いようなブルージルコンの瞳の色に違和感を感じ、男の手に握りしめられている銃を前に唖然としたまま立ち尽くした。
オレの家族達が扱っていたような粗末な銃とは明らかにレベルが違った。どこにも破損が無く、まるで新品の様に油が塗られてギラギラと光るそれは、必ずやオレの命を一瞬のうちに奪うだろう。
逃げる事は罪だと教えられていた。オレの生も死も、全ては神が決めてくださるのだ。
けれど、教えとは裏腹にガタガタとオレの身体は恐怖で震えた。逃げようにも足がすくんで動く事ができないのだ。そして、身動きのとれないオレの頭を、男は優しく撫でた。
オレはなんとか抵抗しその手を振り払う事に成功した。神が下りるとされる頭に触れるのは不敬な事だ。
「見つかって良かった。彼らと共に死んだのではと懸念した」
先ほど掛けられた言葉とは違い、男はオレの分かる言葉で話した。訝し気に眉を寄せて男を見ると、男は心の底から安堵した様に深いため息をついた。
「怪我は無いか?」
答えないオレの身体を両手で確認するように優しくパタパタと叩き、「ふむ、無さそうだな」と納得した様に一人頷いた。
「行こうか。さあ、早く」
「どこへ?」
眉を寄せたオレに、「戦争の無い、平和で安全な世界にだ」と、ニコリと微笑んだ。
「嫌だ」
「何故? ここに居ては敵に見つかってしまうよ」
男の服装は外国の軍服に身を包んでいた。彼の言う『敵』とは一体誰を指しているのだろうか……?
いや、そんなことはどうでもいい。ただオレはここから離れたくはない。離れてはいけないのだ。
「皆がここに居るから、だからどこへも行かない」
黒こげになった遺体の山を指さしてそう言った。ヴィベル、ファメール、レアン。三人を置いてなど行けない。
男はゆっくりと頷いた。
「彼らは殉死した。君の信仰では、最後の審判を前に天国に行けるのだから、それは幸せな事なのだろう?」
「オレも行きたい。ジハードで死ぬんだ!」
「神が君の死を許さなかったから、君は生きているのではないのかな? 君が生きる事を、神は望んでおられるのだ」
「……どうして」
優しかった皆の元に行きたい。それだけなのに、神は赦してはくれないのかと、オレは絶望した。
「私と君が出会った事もまた神の真意と言えるだろう。私と共に世界を救おうではないか」
「世界を救う?」
「そうだとも。この世界は混沌に飲み込まれてしまっているのだよ。君がいるここだけではなく、世界中がね。君はその救世主となる為に、神は使命を全うさせるべく君を生かしたのだ」
突然大それたことを言ってのけた男の名は『エルネスト』と言った。細かい話は分からないが、オレをずっと探していたらしい。内戦の最中にわざわざ密入国してまで平和なフランスからシリアにまで来たのだから、よく分からない男だ。
けれど……オレなんかの為にそうまでしてくれたのだと思うと、他に行く当てもない事も相成って彼に従うしかないだろうと思えた。失った家族の代わりに、この男はなってくれるのかもしれない……オレは今度はそんな淡い期待を抱いたのだ。
辛い事、目を背けたい事に直面した時に、逃げ道を作ろうと何かに期待を寄せるのは、オレの癖なのかもしれない。そうする事で自分を守っていたのだ。悲しみに暮れてしまわないように。寂しくて心が押しつぶされてしまわないように。
「さて、君の名だが」
フランスに向かう飛行機の中で、男は楽しそうに言った。オレは顔を顰め、「オレは『アーダム』だよ」と言ったが、男は「それは違うな」と尚も楽し気に笑った。嫌に上機嫌な男の様子にオレは小首を傾げ、それに気が付いたのかすまなそうにため息をついた。
「すまないね。君が無事でいてくれたことが嬉しかったのだよ」
「無事なもんか」
オレは家族を失ったんだぞ? そんな状態で無事だなんて言えるはずがない。
「『カイン・サマエル・有賀』それが君の名だよ。どうだね?」
「どうだって言われても。オレは『アーダム』だから。ピンとこないよ」
「名前とは大事なものなのだよ。『家族の証』なのだからね。君もその『アーダム』という名で家族ができたのではないのかな?」
家族の証? と、瞳を上げたオレにエルネストはにこりと微笑んだ。
「これは君の本当の名だとも。カインとサマエルはファーストネーム。最後の『有賀』は、君の母親の姓だよ」
「え? オレの?」
「そうとも。君をこの世界に産み落とした女の名さ。だから家族の証だと言ったのだよ」
エルネストはブルージルコンの瞳を細めて頷いた。オレは反対に瞳を見開いて、エルネストに掴みかからんばかりに近づき、ぎゅっと手を握りしめた。拳の震えが全身に振動し、体中が激しく揺さぶられる感覚に陥った。
「母さんは、何処に?」
ずっと知りたかった。
信仰が与えてくれた家族に、オレは満足していたはずだった。けれど、満足しようとしていたんだ。ずっと知りたくて堪らなかった自分の本当の家族。いつか迎えに来てくれるのではと想像し、淡い期待を寄せていた。
手を差し伸べて、ずっと探していたのだと。大切な我が子よと抱きしめその温もりに包まれて心の底から幸せを感じる自分の姿を想像しては、それは罪な事だと思いを振り切る。
「母親の行方を知りたいかね? まぁ、無論だろうとも。けれどね、カインよ。混沌とした世の中では家族というものは成り立たない。幸せは決して訪れないとは思わないかね? 君はそのせいで今こうして一人なのではないかな?」
例え、実の母親と会う事が叶ったのだとしても、また奪われる。オレは、また独りぼっちになる……?
すぅっと青ざめたオレを、エルネストは僅かに驚いた様な瞳で見つめた。
飛行機の中は温かかったはずなのに、急にガタガタと震えだし、顔を強張らせて俯く。
「一人は、嫌だ……」
絞り出す様にそう言って、オレは無様に涙を流し、鼻水を垂らして泣いていた。
朝起きて、大人達が礼拝に行きガランとした部屋に一人取り残されるのが嫌だった。
ヴィベルと、ファメールとレアンに嫌われたくなくて、一緒に居たくて愛想笑いばかり浮かべていた。
オレの嘘が、罪として皆を奪ったのか? オレの大事な人達全員が積み重なった黒焦げの山は、オレへの罰なのか?
背負いきれない罪悪感に押しつぶされて、オレはその場に蹲り、呼吸すら苦しくてままならない程に嗚咽を漏らし、そして号泣した。
「お願いだよエルネスト。一人は嫌なんだ。寂しくて、寂しくて堪らないんだ! 折角出会っても一人になってしまうんなら、出会わない方がいい。でも、一人は嫌だ。嫌なんだよっ!!」
声を上げて泣くオレの背を、エルネストが温かい手で優しく撫でた。ただ手が触れているだけだというのに、まるで包み込まれているかのように温かく、身体の中の氷をじっくりと溶かしてくれているような感覚に陥った。
「戦争のない、平和な世界に行きたい!」
「そこならば、君は決して一人にはならないとも。孤独を味わう事など無いだろうね」
「誰もいがみ合う事のない、誰もが幸福になれる世界。そんな世界があるのか?」
「君が創るのだよ。君の望みのままの世界をね」
オレの望み……? この男の言うように平和な世界になれば、また故郷で暮らせるようになるだろうか。ヴィベルやファメール、レアンには二度と会えなくなってしまったけれど、平和になった世界で、実の母親と。同胞という家族達とまた故郷で暮らしたい。
「私についてくれば必ず平和な世界へと行く事ができるだろう」
「何でも従う。誓うよ。オレはあんたを信じる」
——オレは、この時悪魔に魂を売った。




