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夢現逃花 —ムゲントウカ—  作者: ふぁる
アルマゲドン編
103/170

愉しみ

ぎ……ギィー……ご…ゴゴゴ…ギリィーギリギリ


凄まじい音に顔を顰め、両耳を両手で塞ぐ少年の天使達を前に、里桜は一生懸命にバイオリンを(かな)でた。


「お姉ちゃん、もう止めて!」

「耳が壊れる!」

「天井が落っこちる!」

「世界が滅ぶ!」

「ちょっと! そこまで言わなくたっていいでしょ!? 楽器の演奏にセンスが無いのは分かったから!」


溜息をつき、「ピアノならちょっとはマシに弾けるんだけれどなぁ」と、唇を尖らせていると、カツカツと窓ガラスが叩かれた。

 誰だろう? と、窓の外へと視線を向けると、灰色の髪をしたアルカにそっくりな顔の男が、早く開けてくれという風にジェスチャーをしていた。

 キィと音を立てて窓を開けると、彼が突然手を叩き始めたので、里桜は「え!? 何!?」と、驚いた。


「素晴らしい演奏ではないか! パガニーニの再来ではと畏怖(いふ)したぞ!」


いくら何でもそれは無い……と、里桜が唖然としていると、少年達がやいのやいのと野次を飛ばした。


「エル、耳がおかしいんじゃないの!?」

「地獄の演奏!」

「悪魔の腹の音っ!」


エルは少年の天使達の言いぐさに「分かっていないね」と首を左右に振りながら肩を竦めた。


「お前達はまだ芸術の何たるかが分かってはいないのだよ。温かみのある優しい演奏ではないか! さあリオ。もう一度聞かせてくれないかね」


エルの言葉に、里桜は(あれ? 私、エルに名前教えたっけ?)と疑問に思ったが、今まで誰かにそんな風に誉められた事のない里桜は少し照れ臭くなって唇をすぼめた。

 数々の習い事に時間を費やしそれなりの功績を残しても、母は誉めてくれた事が無かった。父は常に仕事が忙しく、見てくれた事すら無かったかもしれない。


「どうしたのだね? リオ、演奏はしてくれないのかな?」

「エルさんってなんだか変わってるなって思って」

「ほお?」

「あ。ごめんね! 変な意味じゃないの! 私なんかをこんな風に誉めてくれる人なんて、今までいなかったから」


 長い灰色の睫毛を揺らして瞬きをすると、エルは不思議そうに眉を吊り上げた。が、その後にまるで我が子を見つめるかのように目を細め、優しく微笑んだ。里桜はそのエルの表情にドキリとした。それは恋愛感情といったものとは違い、何故だか自分の全てを受け入れてくれたような温もりを感じたのだ。

 両親からの愛情が希薄だったが故に、里桜にはそれが親子の愛情に等しいものだと理解ができなかったが、エルという人物に好感が持てた。

 プティタンジュ達がどうしてエルにあんなにもなつくのか、わかる気がするな……。


「リオは素晴らしい子だとも。もっと自分に自信を持つべきだよ」

「ありがとう」


ニコリと微笑む里桜にエルは手招きをした。里桜は何だろう? と不思議に思って窓から身を乗り出すと、エルは大きく温かい手でふわりと里桜の頭を優しく撫でた。

 アルカの手よりもずっと大きく感じる。


「リオは既にずっと以前から。この世に生を受けたその瞬間から祝福されているとも」


ほんのりと甘い香木の香りがエルから香った気がした。エルの手の温もりがじんわりと染みる。


 里桜の脳裏に母の背中が浮かんだ。

——お母さん、どうして私を認めてくれないの? 独りぼっちにしないで……。どうすれば側に居てくれるの? 独りは嫌だよ。お願い、どこにもいかないで!!


「……おや、何故泣くのだね?」

「あ、あれ……?」


里桜は慌てて瞳を擦り、自分でも何故涙が零れたのかよく分からずに照れ隠しにへへっと笑うと、エルは優しく微笑んで頷いた。


「さあ、演奏を再開してくれないかな?」

「え!? で、でも……」


「さあ、早く」と演奏をせがまれて、里桜は渋々バイオリンを手に取った。


ぎりぃいいいいいいい、ぎ……ぎぎりぃいいぎりりいいいい


顔色を紫に変えて少年の天使達が耳を塞ぎ、それに比べてエルは満足そうに頷きながら、まるでクラシックでも聴いているかのように優雅に瞳を閉じた。


「ふむ。素晴らしい! リオに子供が出来たのなら、子守歌に良いだろうとも。さぁ、もっと続けておくれ!」

「どんな騒音でも眠れる強い子になるだろうね!」

「その前に耳がどうかしちゃうったらっ!」

「更にその前にボク達の耳がどうにかなっちゃう!」

「リオ、芸術の分からん者達は放っておいて、さあ続けるのだ、さあ!」


いいのかな……と、里桜が躊躇していると、ふわりと金木犀の香りが里桜の鼻を(くすぐ)った。


「ちょっと! 何してるのさ!? キミは僕の耳を破壊するつもりかい!?」


プラチナブロンドの髪を逆立て、金色の瞳を三角にしてミカエルが怒鳴り込んで来ると、里桜はサァッと血の気が引いて口をパクパクと動かした。


「え!? ミカエルさん、聴いてたの?」

「騒音被害で他の天使達から苦情があったから何事かと思って来てみれば、キミって人間は!」

「ごめんなさい」

「少しは黙って居られないのかい!?」


……だって、エルさんが弾いてってせがむんだもん。と、里桜はシュンと小さくなって俯いた。少年の天使達とエルはミカエルの姿が見えた途端に蜘蛛の子を散らす勢いで隠れてしまった。

 酷いよエルさん……!?


「今日もガブリエルが不在の日か。全く、不在にするときはこの娘を縛って檻にでも入れておけばいいんだよ」


ブツブツと愚痴ると、ミカエルは大きなため息をついた。


「えーと、でもね? ここで楽器を弾いて時間を潰していてってガブリエルさんが言ったんだけど」

「……ガブリエルが?」


ふっと部屋の中を見回すと、ミカエルは小首を傾げた。


「なるほど。なにやら結界が張ってあるようだね。その酷い楽器のセンスは誰かを遠ざける為なのかい?」


ジエルが里桜に近づけない様にとレアンが張った結界だ。そういえば、里桜の演奏が酷い事に対して、レアンは妙に嬉しそうにしていたが、それもジエルを遠ざける為の作戦だったのだろうか?

 里桜はミカエルにどう説明したものかと苦笑いを浮かべていると、ミカエルが小さくため息をついた。


「天使の中には堕天を望む者も居るからね。それらを弾こうとしているということか」

「まだ私に近づくと堕天するって思ってるの?」

「キミの様な人間と長く関わっていればいずれ堕ちるだろうさ。神の教えを破ってばかりいる不信心者め」

「神の教えってどんなものなの?」

「そんな事も知らないのかい!? 呆れて物が言えないね。少しは勉強したらどうなのさ? 全ては経典に記されているんだ。自ら学ぶ事もしないキミに、教えを説く程僕は暇じゃないんだ」

「お菓子を食べるのもダメ、楽器もダメなの?」

「経典によるところにもなるけれど、忠実に守るのならそういうことさ」


ミカエルの言葉を聞きながら、里桜はそんな風に堅苦しく生きていたら、楽しくもなんともない人生だろう、と、憐れむ気持ちでミカエルを見つめた。ファメールらしくない、と思ったのだ。

 彼は誰からの指図も受けない。他人に縛られる生き方は彼にとってもっとも苦痛であるはずなのだ。それなのに、このミカエルは神こそは全てなのだと、その苦痛の中生きる事を余儀なくされている。そしてそれを受け入れている。この世界の常識であり、そうでなければ生きていけないのだと、まるで神に従う兵隊として生まれたかの様に……。


「……なんだい? その目は」

「え? あー、なんか、ミカエルさんちっとも楽しくなさそうだなって思って」

「楽しむ必要なんか無い」

「え!? それ、生きる意味あるの!?」

「……どういう意味さ?」

「ただただ神様のいいなりの人生だなんて、そんなのロボットで良くない!?」

「ロボット?」

「心なんか必要無いじゃないってこと!」


心が、必要無い……? とミカエルは考えて、訝し気に眉を寄せた。


——そうとも、何故神は天使に()()()()をお与えになったのだ?


 ミカエルはそう考えて、ハッとした様に首を左右に振った。この娘にかどわかされて妙な事を考えるとは、神に背く事になってしまう、と、自分を戒める様にキッと里桜を睨みつけた。


「これ以上キミに妙な真似をされても困るし、僕が直々に監視してやるよ。全く、面倒ったらありゃしない」


 ガブリエルが里桜を擁護することに疑問を抱き、理由を聞いたが納得するような回答は得られなかった。どうもガブリエルの様子に最近妙な印象を受ける。サマエルの居場所を急に聞いて来たのにも引っかかる。

 ……この娘が姿を消せば自ずとボロが出るに違いない。なに、面倒だが執務室の隅にでも鎖で繋いで、口が利けないように封印でもしておけばさほど問題無いだろう。

 と、ミカエルが考えていると、里桜はパッと顔を明るくした。


「それじゃ、私。何かお仕事のお手伝いをするよ! ミカエルさんいつも忙しそうだから」


エデンでファメールの仕事の手伝いをしていたことを思い出し、里桜は提案した。

 ミカエルは片眉をツンと吊り上げると、「キミなんかに出来るような仕事なんてあるはずないだろう?」と、言った後、人差し指を顎につけて考える素振りをとった。長い睫毛が金色の瞳を隠す様に伏せられて、その様子が嫌に色っぽい。里桜はついじっと見惚れた。


「どうせ文字一つ分かりもしないんだろうしね。足手まといもいいところさ」


顔を上げたミカエルから慌てて目を反らした里桜に、ミカエルは怪訝な顔をした。

——何か悪だくみでもしているんじゃないのか? この娘は。

 と、眉を顰める。


「……なにさ?」

「な、なんでもないよ!!」


慌てて顔を真っ赤にして両手を振った里桜を訝し気に見つめる。


「隠し立てすると……」

「み、ミカエルさんが綺麗だからちょっと見惚れただけ!」


凄んだミカエルに顔を真っ赤にして慌てて答えた里桜に、ミカエルはきょとんとした。


「……は?」


——何を言っているんだ? この娘は。

 と、小首を傾げ、「どこがさ?」と、片眉を下げてため息交じりにミカエルは言葉を吐いた。


「どこがって。えーと、全部? プラチナブロンドの髪も綺麗だし、長い睫毛も金色の瞳も、すっと通った鼻筋も、唇の形もとっても綺麗。羨ましいくらい」

「誉めたって何も出ないよ」

「ええ!? 自覚無いの!?」


唖然とした里桜にミカエルは「別に普通さ」と答えるとじっと金色の瞳で里桜を見つめた。艶やかなブラウンの髪にパッチリと大きなブルージルコンの瞳。ふっくらとした頬に桜色の唇。


「綺麗だというのなら、キミはなかなかのものだろうね。勿論、僕は見た目に惑わされたりなんかしないけれど」


ふわりと風が吹き、里桜の唇に髪がくっついた。ああ、折角の綺麗な唇が……と、何気なくミカエルは白く長い指でさっと摘んで払いのけてやった後、ハッとして顔を赤らめた。


——僕は一体何をしているんだ!?


 里桜は熱くなった両頬を両手で包んで冷やし、頭から湯気を上げた。


——な……何!? 今の! ミカエルさん、だよね? ファメールさんじゃなく、ミカエルさんだよね!?

 と、ミカエルの首筋に刻印されている『A』の文字を確認し、あわあわと狼狽えた。


 コホン、と咳払いをした後に、ミカエルは平静を保ち「とにかく!」と、わざとらしく声を上げた。


「僕と一緒に執務室に来てもらうから。仕事の邪魔だけはしないようにね!」

「あ、文字。数字も分かるよ。だから、何かお役に立てないかな?」

「……へぇ? 多少は学があるようだね。期待はしないけれど、少し手伝って貰おうかな。猫の手も借りたい程に忙しいんだからね」


やった! 役に立てるかもしれない! と、里桜はブルージルコンの瞳を輝かせ、嬉しそうに頷いた。その笑みを見て、ミカエルは小首を傾げた。


「何をそんなに嬉しそうにしているのさ?」

「だって、ミカエルさんの役に立てるなら嬉しいじゃない」

「……ふーん?」


人間なんて、僕達を利用するだけして僕達の役に立とうだなんて考えは微塵も無いものだと思っていたけれど、と、ミカエルは興味深そうに金色の瞳を細め、里桜を見つめた。

 少しでもおかしな事をしようものなら、それを大義名分に裁いたところで、ガブリエルも何も言えないだろう。と、ミカエルは頷いた。


「まあいい、とりあえず僕の執務室に向かおうか」


杖を翳そうとして、ミカエルはハッとして里桜を見下ろした。強引に飛ばす事もできるが、少々乱暴な気もするなと考えたのだ。正当な理由も無く傷つけては、後でガブリエルに何を言われるか分かったものじゃない。


「ミカエルさん?」


 どうかしたのかと小首を傾げる里桜に、ため息をつき、スッと腕を差し出した。


「ほら、捕まって。飛ぶから」

「へ? あ、うん」

「強く捕まったら怒るからね!?」


ああもう、面倒くさい。皺になったら……と、苛立つミカエルの腕に里桜がそっと触れた。か細く白い指に桜色の爪が遠慮がちにミカエルの白いローブに触れる。

 なんと、か弱く華奢な手なのだろうか。女性の手とは、皆このようにか細く折れてしまいそうなものなのだろうか。この様な弱く儚い者が、天上のエデンを貶める様な事をするだろうか。それなのに、何故僕はこうも警戒している……?


「ミカエルさん?」


じっと里桜の手を見つめるミカエルを不思議に思い、里桜が声を掛けると、ミカエルはハッとしたように咳払いをし、杖を翳した。

 ミカエルの執務室へとパッと移動すると、思わずバランスを崩した里桜をサッと支えた。


「ありがとう、ミカエルさん」


 お礼を言い、ブルージルコンの瞳を向ける里桜を見つめ、慌てて突き飛ばす様に里桜から離れると、執務室の椅子へと掛けた。


「ミカエル様、所用はお済ですか?」


ラファエルが慌てた様に駆けつけて、ミカエルはプイと顔を背けながら顎先で里桜を指した。ラファエルは里桜の姿に驚いてミカエルに視線を向けたが、ミカエルはその視線を無視し、机の上に積み上げられた書類の山の対応を始めた。

 ミカエルが面倒ごとを自ら引き受けるとは珍しい、と、ラファエルは困惑しながらもミカエルに業務の話を進めた。


「ミカエル様、書類の仕分けは終わっています。こちらは押印のみですので」


ラファエルの報告に頷くと、ミカエルは羽ペンをとった。里桜は嬉しそうにニコニコと微笑みながら、「押印だけでいいなら、私が押しておくよ」と、申し出て、ミカエルの仕事を手伝った。


 上機嫌な里桜の様子にラファエルは怪訝な顔をして瞬きした。


「なにやら楽しそうですね」


この娘はミカエルが恐ろしくはないのだろうか? と、興味を持ったのだ。


「え?」


楽しそうだったかな? と、里桜は考えて、緩んでいる自分の頬に、確かに楽しいなと納得した。


「私ね、とっても大切な人が居て、前にその人のお仕事を手伝う事が出来て嬉しかったの。だから、ミカエルさんのお手伝いも出来て嬉しくて、だから楽しいのかも」

「大切な人ですか?」

「うん! とっても大切な人!」


——それは、ガブリエルの事だろうか?

 と、二人の会話を聞きながらミカエルは考えた。ミカエルにとって大切な人とは何だろうか。神か……? 神の為に生きる事は自分にとって喜びに繋がるだろうか、と考えて、ミカエルは眉を寄せた。

 喜びを感じない事に、自分の忠誠心が足りないと思ったのだ。そしてフト、里桜の言った言葉が引っ掛かった。


『ミカエルさんのお手伝いも出来て嬉しいの』


それは、里桜にとって、ミカエルもその『大切な人』なのだとでも言うのだろうか……?


「キミさ、軽々しいにも程があるね。僕はキミの事が嫌いだ」


 ミカエルの突然の発言に里桜はポカンと呆気に取られた。


 嫌いな人を、わざわざ執務室に連れて来るだろうか? 転びそうになった私を支えてくれたのに? と、里桜は小首を傾げ、ラファエルは思わず失笑した。

 二人の様子にミカエルは無性に恥ずかしくなって顔を赤くし、プイっと顔を背けて書類を捌き始めた。


 やはり、この娘と会話していると調子が狂う。会話は必要最低限に留めよう。


「大切なその人はね、とっても照れ屋なの。本当は優しいのに、すぐに悪態ついちゃう可愛い人」


 里桜の言葉に、どうもそれはガブリエルのとは違う者の様だとミカエルは思った。ガブリエルは悪態をつくような事はしない。

 そういえば、この娘がここに来た時に、大天使ミカエルである僕を誰か別人と勘違いしていたなと思い出し、ひょっとしてその人物の事を話しているのかと思った。

 だとすれば、この娘の言う『大切な人』とは、()()顔がよく似たその人物の事か……?


 ニコニコと楽しそうに話す里桜をチラリと見て、ミカエルは何やら面白く無いと思った。


「何やら誰かさんに似た方ですね。リオさんと仰いましたか。お手伝い感謝します」


 いつもピリピリしている執務室が、今日はいつになく穏やかだ。ラファエルは毎日こうならばいいのに、と心から感謝していうと、里桜は「大した事できないけど、何でも言ってね!」と、愛想よく返した。

 ブルージルコンの瞳がラファエルに向けられる。ラファエルもまた、ブルートパーズの瞳を優しく細め、里桜を見つめ返した。


「では、こちらも押印お願いしますね」


ラファエルが資料を里桜に手渡そうとし、里桜が受け取る為に細く白い手を伸ばした。ミカエルは咄嗟に手を差し出して奪い取る様にその書類を手にした。


「ミカエル様? これは押印のみで問題のない書類ですが」

「え? ああ、分かってるさ。でもちょっと気になっただけだよ」


きょとんとする里桜とラファエルの前で誤魔化す様に言った後、ミカエルは『僕は何をやっているんだ!?』と、項垂れた。


「ああ、リオ。そこの書棚から青い背表紙の本を取ってくれないか?」


気を取り直して指示を出すと、里桜が素直に返事をして席を立った。フワリと純白のワンピースが揺れる。

 清楚で可憐な装いが何と似合うことか。もしも自分があの娘に服を選ぶとしたら、同じ様な物を選んだに違いない、と考えて、ミカエルは冷や汗を垂らした。


——これは由々しき事だ。この()()に大天使ミカエルが翻弄されている。ガブリエルが来たのなら、早く押し付けてここから追い出さなければ、皆に示しがつかない。

 

「はい、ミカエルさん」


ニコリと微笑んで本を差し出す里桜に、ミカエルは苛立った様にプイと顔を背けて悪態をついた。


「わざわざ手渡さなくったっていいよ。机の上に置いておいてよね、僕は手が離せないんだから、見て分かるだろう?」

「うん。じゃあここに置いておくね」


悪態をつかれたにもかかわらず、気にも止めずに里桜が本を置き、椅子へとかけて、押印の続きを黙々と行った。


 ……なんなんだよ! この罪悪感はっ!!


 ラファエルはそんなミカエルの様子を唖然として見つめた。彼の記憶の中で、こんな風に狼狽えるミカエルの姿を見た事が一度も無いのだ。冷静沈着で、時には無慈悲な程に断罪する、何事も淡々と無感情な程にこなすミカエルが、一体どうしてしまったというのだろうか。

 先ほどから表情がコロコロと変わっている……。


「不吉の前兆……?」


ポツリと呟いたラファエルの言葉に「なんだって?」と、鋭くミカエルが聞き返し、慌てて「何でもありません! あ、お茶でも淹れてきましょうかね」と、パタパタとせわしなく執務室を後にした。

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