里桜
出来立てホヤホヤのアスファルトの匂いが辺りに立ち込めている。背後でモクモクと白い湯気を上げながら、凸凹だった道路が整地化されていく。赤い光を発する誘導棒を動かして、白いヘッドライトを発する車両たちをテキパキと誘導しながら、里桜は時折押し寄せる虚しさと睡魔に格闘しつつ仕事に勤しんだ。
彼女は頭部にはヘルメット、衣服は青い作業着に反射シートのついたベスト、腕には警備会社の腕章を身に着けていた。ただ、髪はブラウン色で三つ編みに結わえて背中に垂らしており、瞳はブルージルコンの様な色を放っていた。
日本人とはかけ離れた外見であることも災いしてか、時折通行する車両の運転手から理不尽な暴言を浴びたが、里桜は顔色一つ変えずに仕事をこなす。
(もう、疲れた。助けて。誰か)
表には出さない裏で、脳内で何度も繰り返す、誰でもいい『誰か』に対する助けを求める言葉は、里桜の癖になっていた。
どう助けて欲しいか、自分にとって何が助けとなるのかすら分からなくなってしまっているというのに。
「お疲れさん! また明日も頼むよ! 里桜ちゃんが居ると、現場の連中もやる気を出してくれるから助かるよ」
「ありがとうございます。お疲れ様です」
バイト先の中年男性に愛想笑いを返し、
(ばーか。勝手に『里桜ちゃん』だなんて呼ばないでよね)
と、心の中で悪態をつき、くたくたに疲れ切った体で彼女は自転車を漕ぐ。朝日が昇り始めた空を憂鬱に思って視線を落とし、けれど、滅入った気持ちを僅かなりとも元気づけようと、脳内にお気に入りの音楽を流した。
——二年前、里桜の母親が死んだ。
と、言っても、それはなかなかに凄惨な状況だった。
里桜の家は曾祖父の代から会社を経営し、かなり裕福だった。今となってはバイトに明け暮れている毎日ではあるが、当時はパーティだ会食だなんだと正反対の理由で忙殺されていた。
里桜が高校に上がってすぐ、父が受け継いだ会社が倒産。里桜の父は酒に溺れ、母親に暴力を振るうようになった。里桜が何度必死になって止めたことか知れない。幸いにも里桜に対しては甘々だった父親は、娘には暴力を振るわなかったので、それをいいことに里桜が体を張って母親を守る事が多かった。
そんなある日だ。朝起きたばかりの里桜の目に飛び込んだのは、血まみれの母親の亡骸だった。酔いつぶれて血まみれになった包丁を握りしめたまま眠りこけている父親を見て、警察に連絡をしたのは里桜だった。
その頃からだ。
(助けて。誰か、誰か助けて)
彼女が脳内でそんな言葉を繰り返すようになったのは。誰かなんて居ない。居るはずも無い。手を差し伸べてくれる者など誰も居はしないのだ。彼女は分かっていた。
父親が逮捕され、里桜は母親の弟。つまり、叔父の家に引き取られることになった。しかし、その叔父もまた問題があった。
以前は父親の会社で副社長として敏腕に仕事をこなす男で、見目も良く、里桜にとっては憧れの存在だったはずが、今はすっかり落ちぶれた後の里桜の父親と全く変わらない程の酒浸りの男になってしまっていたのだ。
当然、生活が楽なワケも無く、ボロ家には借金取りが時折来るような環境だ。上流階級から一気に底辺にまで突き落とされた彼女は、当然、私立高校の学費等払えるはずもなく、公立の学校へと編入したが、そこもまた泥の沼が待ち受けていた。
お嬢様学校の制服を着て、フランス人の母親を持つ里桜は外見も日本人離れし、その上美しく優雅な所作がこの上なく目立つ。それでいて人殺しの父親を持つ彼女を、思春期の少年少女が受け入れられるわけが無いのだから。
散々な虐めに遭い、里桜の制服はたちまちボロキレになった。仕方なくジャージで学校に通う彼女は教師からも疎まれ、高校生ながら社会からも偏見の目で見られた。
生きていてもいい事など一つも無い。真っ暗な部屋の隅で、呪文のように
(誰か助けて。誰か)
と言いながら、何度自殺を考えたことか。手首に傷こそ無いものの、何度想像の中で自分を殺しただろうか。ふとした拍子でも「あ、ここで一歩踏み出せば……」と、自然と考える様にまでなっていた。
——だが。
彼女はある日ふとふっきれた。
「なんで私が悪く無いのに、死んでやらなきゃならないの?」
一度吹っ切れると人は強い。里桜はいくつものバイトを掛け持ちし、自分の将来を考えて大学に行く為の費用を稼ぐ事にした。頼れる大人なんて居ない。いいや、頼りたい大人が居ないのだ、と。
当然、学力についても下げる訳にはいかない為、学校にもしっかり行く。家での勉強も怠らない。自分にとっての『今』は、修行期間だと考えればいい。
大学を卒業する頃には、修行も明けて人間らしく生きられるに違いない。と、彼女は自分の志を貫くことに決めた。
一生懸命に生きる人間は美しい。彼女は元々の美貌に拍車をかけるが如く、精神面が強く研ぎ澄まされて、周りからは増々孤立していった。
当然、友人の一人もできなかったし、作ろうとさえ彼女は思わなかった。元々明るく人当たりの良かった里桜の性格は氷の様に冷たく、他人を寄せ付けなくなっていった。そうすることで自分を守っていたのだ。
他人に傷つけられないようにするためには、自分が堅牢になり拒絶するしかないのだ。
里桜はいつの間にかすっかりと人間嫌いになっていた。当然、年頃の少女だというのに恋愛の一つも無ければ、むしろ完全に拒絶反応すら出ている程だった。男性に対しては特に嫌悪感すら抱いていた。それは、父親に対して抱いた不審感からきたものだろう。




