第八十六話、(プロローグ)始まりのメビウス
これは――今起こっている災厄の原因。
ディカプリオ神父を追ってはならない制約が解除される、前日の夜の話。
好きな者だけを集めたぬいぐるみに囲まれた、美しすぎる自室の中。
あたし、日向アカリは夢を見ていた。
おそらく何度も繰り返す世界の記憶が、あたしに入り込んでいるのだろう。
そんなことが起きるのか?
ふつうは起こらない。
けれどあたしはふつうじゃない。
世界最強の父と、本物の勇者の娘。
ふつうじゃないことが日常の、女子高生なのだから。
シーツに肌を滑らせたあたしの頬は濡れていた。
夢を見ている自覚はある。
けれど、起きられない。
あたしの知らないあたしが、夢の中で物語を進めている。
憎悪という名の殺意を抱き。
人の器の中で暴走するパンデミック、かつての池崎さんがそこにいた。
黒き彼の背後には、無数のネコの憎悪がけたたましい威嚇音を発していたのだ。
死闘だった。
覚醒した憎悪の魔性との戦いだ。
当然である。
それは、黒猫のバケモノと化したパンデミックと姫との戦い。
憎悪の魔性と戦っていたのは、五年後のあたしだろう。
あたしの知らない、あたしとは違う道を歩んだあたしである。
勝利したのは姫の方。
赤き髪を靡かせて。
あたしの知らないあたしが、天を憎悪するように睨み死んだ黒猫を眺めていた。
その時初めて、五年後のあたしは滅びの正体を知ったのだろう。
――そう、あなたは……ただ、ご主人様が大好きだっただけなのね。
悲哀に満ちた瞳で。
高貴なる者の慈愛ある表情で――。
五年後のあたしが、黒猫の死体に手を差し伸べる。
おそらく。
この時のあたしは、戦う前には何も知らなかったのだろう。
彼の物語を、彼がなぜ世界を呪っていたのかを。
滅びを齎す魔獣。
自分の庭を壊す、ただの敵。
そう思っていたのだろうか。
けれど。
力なく横たわるパンデミックを眺めて、最後の最後で知ってしまったのだろう。
伸ばすその肉球の意味を。
今のあたしが見た、彼の旅路を――。
あたしの知らないあたしが、真紅のドレスの裾をぎゅっと握り。
けれど、瞳を濡らし――。
言った。
――こんなの、ぜんぜん、ハッピーエンドじゃ、ないじゃない……っ。
と。
勝利を喜ぶ人間を見て。
世界を見て。
悲しき猫の憎悪を滅ぼし去った後に、全てを知った姫は――。
五年後のあたしは。
その時、何を思ったのだろうか。
おそらく、ループが始まる前の、繰り返さぬ正しき世界を歩んでいたあたしは――。
……。
死んだネコを抱き上げた。
五年後のあたし。
その涙が、憎悪の魔性の亡骸と共鳴する。
――いいわ、あなたを救ってくれなかった世界に代わって――あたしがあなたを拾ってあげる。
――あたしだけは、あなたを愛して。受けいれてあげるわ――。
――いつまでも、いつまでも……。
あたしの足元に広がっていたのは、赤い魔力閃光。
おびただしいほどの複雑な魔術式。
宇宙の法則にすら介入する規模の――演算。
最強の魔猫から生まれたあたしという姫は、その時、生まれて初めて本気で願ったのだろう。
何を願ったのか、それはあたしには分からない。
けれど、三獣神にも匹敵するほどの魔法陣が発生していた。
お父様や、おじ様たちの制止を振り切って――。
三獣神の妨害すら実力で払いのけ。
五年後のあたしは。
魔術を発動させていた――。
◇
シーツが擦れる音がする。
あたしが目覚めた音だ。
今のあたしは……、この表現は変かもしれないが、今のあたしが知っているあたしである。
あの夢はなんだったのか。
……。
考えたくはないが、まあおそらくは――ループが始まる前のあたしだろう。
なにか宇宙干渉規模の魔術を発動させたらしいが……。
絶対に、五年後のあたしがなにかをやらかしていた。
それは分かる。
よし。
見なかったことにしよう!
気分を切り替え、元気いっぱいに身体を伸ばしたあたしの横で、バウ?
ペスが手を伸ばし、ぶるぶるぶる!
肉球の先まで酸素を送るように体を振り、欠伸を一つ。
ビーグルたるペスは、今日も元気に尾を振りわふわふ♪
垂れた耳が愛らしい、あたしの新しい家族。
現実と、夢の映像が交錯する。
あの遺跡の攻略ノートにあった一冊では。
パンデミックに選ばれたペスは世界を呪い、そのまま滅ぼしてしまう。
そんな未来もあった。
この子もまた、世界を憎悪したもの。
池崎さんが止めなくてはならなかった、障害の一つ。
今はこうして幸せそうに、獣毛を輝かせているが……。
なにもしらないペスが言う。
『おう、起きたか娘よ! 散歩の時間であるか!?』
「はいはい。ちゃんと行くってば、でも――顔とか洗った後にね」
言ってあたしは、珍しくペスの頬にキスをする前に洗面所に向かう。
濡れた頬と、少し腫れぼったくなった目じりをどうにかするためである。
鏡の中のあたしは、今のあたし。
けれど、様々な記憶が入り込んできていた。
あれはおそらく、最初のあたし。
ループなんてものが発生する前の、二十歳になっていたあたしだろう。
蛇口から、水の流れ続ける音がする。
認めたくない。
それでも、魔導知識を持つ、計算の早いあたしの結論は揺るがない。
天を仰ぎ見るように、あたしは天井を見上げていた。
涙は零れていない。
あくまで泣いていたのは、夢の中のあたしであってあたしではないから。
そう、気づいてしまったのだ。
あたしはそっと心を守るように、胸元に白い指を置いていた。
指が、乙女の白肌に触れる。
あたしの喉は、見てしまった悲しい未来に。
震える声を押し出していた。
「は……、二十歳になっても、あんまり成長してないって……ま、まじかしら」
――と。
そう。
あたしの未来予想図では、もうちょっとセクシーでグラマーな肉体になっている筈だったのに!
綺麗で美人でスレンダーな異界のお姫様。
そこは間違いなく断言できた。
け、れ、ど。
あたしの理想よりも、あきらかに胸のサイズが。
サイズが。
サイズがぁああぁぁぁぁぁぁ!
「あぁあああああああああぁぁぁあぁぁぁ! ぎゅ、牛乳よ! 牛乳! それに、運動! ペス! 急いで支度して! 散歩に行くわよ!」
あたしはまだ諦めてはいない。
未来は常に変化するもの。
ならばこそ、だ。
外的要因。
つまり、栄養を取り、太陽をちゃんと浴びて運動を十分にすれば!
スレンダー美女という未来を、グラマー美女に書き換えることもできるかもしれない!
未来を変えるあたしの冒険は。
まだ始まったばかりである――。
ビシ!
なんて、冗談にしてみてもしょうがないか。
本当は胸なんてどうでもいい……とまでは言わないが、まあ最終的にあきらめもつく。
顔はイケてるんだし。
ならばなにをここまで、どんよりしているのか。
そんなの決まっている。
いやな予感しかしないのだ。
今日はあのサイコ男。
ディカプリオ神父を追う予定になっている日。
きっとこれから大きな事件が起きる。
あたしはそんな予兆を感じながら、日課のペスの散歩に出たのだった。
ペスはあたしの変化。
夢の中でなにかがあったのだと気が付いたようだが、深く追求することはなかった。
ただ一言。
『我は娘、おまえの味方だ――だから、本当に困ったのならちゃんと相談するのだぞ? 良いな?』
と、電信柱にマーキングしつつドヤ顔をしていた。
あたしはありがとうとは言わずに、ただちょっと苦笑をしてみせていた。
どんな結末になろうと、あたしは後悔だけはしたくない。
空はとても明るいが。
どこか白々しい太陽があたしとペスを淡く照らしていた。
今日という長い日は、まだ始まったばかり。
家に帰ったら支度をしよう。
これは――世界を救うごくふつうの、女子高生の物語である。