第三十六話、あの日のチーズはもう二度と
雑居ビルの中、観葉植物の狭間に隠されていたダンジョン。
現実とは違う場所。
そこに待ち構えていたのは、アンデッドヤクザ達を操る魔術師。
ペスを名乗るモフモフの犬なのだが。
んーむ。
魔導を操る犬かぁ……。
こっちはごくりと慎重に息を呑んでいるのだが。
隣でタバコをプファ~っとさせている公務員が、ちょっとの強面を顰めて。
一言。
「……は? ざけんなよ、犬じゃねえか!」
池崎氏。
なかなか歯切れの悪いツッコミである。
反面、あたし達兄妹の吐息にはシリアスな香りが混じり始める。
「ええ、気を付けて。犬よ」
「ちっ……まずいな――犬か」
あたしは鑑定の魔眼を発動させた。
犬種はビーグル。
茶色と黒の混じったスヌーペー的な犬を想像して貰えばいいだろう。
「いや、お前ら。なーにマジな顔になってやがるんだよ。今までで一番のシリアス顔じゃねえか」
「当然でしょ。池崎さん、もしゲームとかで最強の種族って言われたら何を思い出すかしら?」
意図が分からないのか、池崎さんは眉間に濃いシワを刻んだまま。
「そりゃあ、ドラゴンとか?」
「んじゃ、そのドラゴンの魔術師が目の前にいるって思ってもらえばいいわ。犬って、ネコと同じぐらい強いのよ」
犬が弱かった時代は十五年前に終わっている。
魔術世界を知っているモノなら常識なのだが――多くの人間はそれを知らない。
異能や魔術の発現に気づいていないように、犬や猫が種族としての進化を遂げていると気づいていないのだろう。
以前、あたしはネコや犬の強さをちょびっと語ったことがあると思う。
十五年前の異変。
あたしのお父さんたちがこの世界に力を与えた影響である。
それをうまく説明するには……。
あたしは池崎さんとヤナギさんに向かい。
「このあたし達ですら簡単には削り切れない無限再生の魔物、ヤクザアンデッド達。彼らを使役しているのは――誰だと思う?」
言いたいことはこれで伝わったかな。
「かぁぁぁぁ! マジかよ、またファッキンファンタジー案件ってか!」
「異能を持った犬、ということですか……?」
ヤナギさんの言葉に、あたしは頷きをもって返していた。
「どうやら人間にもあんまり友好的じゃないようですし。戦いは避けられそうにないわね」
あたしは敵を睨む瞳で、ビーグルを正面に捉える。
「こっちは本気を出していないとはいえ、この犬一匹があたし達とまともに戦えている。その時点で明らかに規格外の敵よ。ここで死んで操られてるヤクザ達を皆殺しにしたのも、たぶん、この子。あのアプリを開発したかどうかは……ちょっと分からないけど。少なくとも関係はしているんじゃないかしら」
こちらの言葉を聞き。
モフモフモフ!
獣毛を輝かせ、テカる鼻先を揺らしペスと名乗った犬が言う。
『異界の邪神の血を受け継ぐ恐ろしき娘よ、ネコが混じっているのになぜそちらにつく。なぜ、人間に協力している。我にはわからぬ。そこの者達は、悪人。最も重い罪である振り込め詐欺を行った、罪人! そやつらを渡せ』
ガルルゥゥゥゥ!
唸り声も、鼻の周りに作られたシワもすっごい。
犬の瞳は、ぞっとするほどの恐ろしい赤色に染まっている。
瞳を赤く染める者は、心の力を暴走させている者。
心の力とは魔力の強さに直結する。
つまり――。
ガチで強敵と言っていい存在なのだ。
ま、身も蓋もない事を言っちゃえば、あたし達兄妹の敵じゃないけど。
しかしだ。
こちらには魔導ナメクジよりも弱い人間の重りつき、油断はしない方がいいだろう。
「ペスちゃんだっけ!? なんでヤクザ達を狩って回ってるのか知らないけど、あんたちょっとやり過ぎよ!」
『やりすぎだと?』
「少なくとも、殺した後にまで魂を縛ってアンデッドとして使役し続けるのは、死者の法にも背く行為。あんたも魔術師なら魂の冒涜が許されないってことぐらいは知ってるんでしょう!」
とりあえずは説得を開始。
『笑止! それでも我はどうしても許すことはできぬ! 故にこそ、我は耳を傾けた! マフィア死すべし、慈悲はなし! あのメールを受け取り、根絶を決意したのだ!』
「あのメール? じゃあ、あんたも誰かの指示に従っているってことじゃない。あんた! 利用されてるわよ!」
ペスは、あたしが確保している死ぬはずだったヤクザ達を睨み。
肉球でビシっと指差し。
『そこのグズどもは私欲に惑わされ利用されていただけ。だが我は違う。我は指示を出すそやつも利用しておるだけ、利害が一致しているから協力しているだけに過ぎん!』
んーむ。
こいつの裏に、あのアプリの開発者がいそうなのだが。
正直、犬と闘いたくはないのよねえ……。
強さの意味でも、可愛い存在を傷つけたくないという意味でもだ。
「取引しない?」
『取引だと』
「どうしてあんたがこのヤクザどもを殺したがっているのか、その理由を聞かせて頂戴よ。納得のできる理由だったら、まあ、そっちに乗ってもいいわよ?」
池崎さんの瞳が、ジト目になる。
「おい、嬢ちゃん。半分マジで言ってるだろ」
「そりゃあまあね。仕方ないじゃない――あたしには魔猫王、あなたたちがCと呼んでいるネコの王様で、神様の魔族の血が流れているんですもの。人間でもあるけど、同時に獣に連なる者でもあるのよ。どっちにつくかなんて、その時の気分でも変わるわ」
ここ、実はペスに向けての演技。
池崎さんもあたしが裏切るとは思っていないのだが――。
そういうリアリティを出すための演出を、即興で演じてくれているのである。
『ふむ、まあよかろう。話を聞かせてやる。そっちの娘はともかく、そちらの炎の大精霊は本当に場合によっては、我についてくれるであろうからな』
……あ。
たしかに、炎兄は人間に義理立てする気なんてないだろうし。
話によっちゃ、本当にあっちにつくぞ、これ……。
動揺するあたしに構わず。
犬の咢がモノローグのような口調で語りだす。
『これは、我の使命。我の――仇討ちなのだ』
なんか、話がすっ飛んだのだが。
ともあれ、あたしは耳を傾ける。
『我が主は良き主だった。保健所なる場所に囚われていた我を救い出し。衣食住、そして愛をくれた良き人間だった。なれど我が主はある日、卑劣なる悪漢の奸計に騙され、その財、全てを失った! その奸計の名は――振り込め詐欺!』
「ふ、振り込め詐欺!?」
ペスはうぬっと犬の瞳を細め。
『よもや娘よ、無知ゆえに振り込め詐欺を知らぬと……?』
「いや、知ってるわよ。驚いたのはそういう意味じゃなくて……まあいいわ、話を進めて頂戴」
おそらく、遠方に住む家族になりすまして金を振り込ませる。
あの振り込め詐欺だろう。
再びモノローグ調の声音で、ワンコが話を再開する。
『優しき我が主が、家族のためにと何度も送金していたのは顔も名も知らぬ、悪漢であったのだ。余生を過ごす財を失った主は、それでも我にオヤツをくれた。なれど――以前のオヤツには、我ら用のちくわの間に我ら用のチーズが入っていたのに、チーズがキュウリになっていた……っ』
……。
チーズが、キュウリに――ねえ。
たしかにワンコにとっては大事件なのかもしれない。
あたしの影の中で三魔猫も話を聞いているのだが。
それは許せぬと、ゴゴゴゴ!
人間を批判する声をあげているし。
『それでも我は良かった。まだ主と共に居られるのなら――しかし主も老いには勝てなかった。おそらく、あの日の詐欺で心が弱り……その弱った心が、体に影響を与えたのであろうな。次第に弱り果てた我が主は、自らの世話すらもままならなくなっていた』
魔術や異能云々の話ではなく。
現実でも起こりうる話である。
『幸せがいつのまにか崩壊しておったのだ――。我が主は、そのまま長男の家に引き取られることとなった……我はそこで主と引き離され、新たな飼い主を得た。我はそれが我が主の意思ならと、従った。いい家庭であった。人間すべてを恨まずにいられたのは、その優しさもあったからだろう。それなりに幸せもあったのだ――。なれど――主は違った。息子のところでは、あまり良き扱いは受けていなかったようでな』
空気が変わる。
やっと本題に入ってきた、といったところか。
しかし、あたしはあえて口をはさんでいた。
「それはその息子さんにも事情があったんでしょうけど、振り込め詐欺……そこまで関係なくない?」
『息子が我が主に冷たかった理由の一つが分かるか?』
正直なところ、あたしにはよくわからなかった。
代わりとばかりに、タバコを吸って。
池崎さんが言う。
「まあ、たしかに――そういう詐欺にあった時、一番責めるのは家族らしいからな。なにしろ、遺産として自分の財産になるかもしれねえ金を、全部持っていかれちまうわけだ。それに、親を引き取るには金もかかる。世の中、全部の家が裕福だってわけじゃねえ。全額を息子が負担しているとなると、あの時、詐欺にあっていなかったら。そう、思わず愚痴を漏らしちまう家族だって中にはいるだろうよ」
なるほど……。
あの時に母さんが。
そう口にはしなくとも、態度に出ることだってある。
それが人間なのだろう。
『然り。主が引き取られた家の周囲を縄張りとしていたカラスから、主の晩年を聞かされた時は――我は己の無力さを実感させられた。老いた主の終わりの日々は、後悔と謝罪の言葉でいっぱいだったらしい。主は最後に我に会いたいと願ったそうだが……その願いを叶えてやる度量が、我が主の息子にはなかったようだ』
ということは。
既に、この犬が主と慕っていた人は……。
『愛する御方の死を看取ることができなかった。望まれていたのに、会うことが叶わなかった。それは我の心を波立てた。潮騒のように静かな憎悪が生まれたのは、その時であったのだろうな』
主人を愛した犬。
ペスは語る。
『我は思うのだ。全てのきっかけは主が優しき人間であったこと。優しいゆえに我を救ってくれた。なれど、優しいゆえに主は詐欺にあい、その幸せを指の隙間からこぼれ落としてしまった。歯車を壊したのは、全てを狂わせたのは誰であろうな? 我は思うのだ――その優しき人間を踏みにじるような存在など、はたしてこの世に必要なのかどうか――とな。そんな時だった。我の目の前にこのタブレットが現れたのは』
言って、ペスは魔術文字で覆われた機械を取り出し。
並々ならぬ魔力を纏い。
ぎしりと牙をギラつかせる。
『我は力を得た――たとえそれが我の憎悪を利用している何者かの企みだとしても、我が肉球にそれを拒む選択肢はなかった。我は思う。弱きものを狙う悪漢など、消し去るが正義。故にこそ、我は全ての悪を引き裂く爪となろう、そう誓ったのだ』
利用しようとしている者を知りながら。
その力を受け取った、ということか。
「なるほど、正当な復讐だってわけね」
大きな事件が起きる裏には必ず大きな理由がある。
……。
とは限らない。
これもそうだったのだろう。
今回の事件の大筋は復讐。
振り込め詐欺の集団、アウトローたちに主の幸せを殺された一匹の犬が異能に目覚め。
その仇を取っていただけに過ぎないのだ。
もっとも、このペスとやらを異能に目覚めさせ。
極道達を言葉巧みに扇動し、悪魔竜化事件を拡散させていた誰か。
あのアプリの開発者がいるのだろうが。
結局のところは極道達が狙われていた理由は、自業自得だったのだ。
振り込め詐欺のせいで不幸になった家族がいた。
その家族を愛する犬がいた。
その犬が、愛する家族の心を殺した者達、その罪の全てが許せなかった。
それだけの話なのだ。
一つのきっかけが派生して、世界戦争が起こってしまったように。
金銭欲しさに心優しい老人を騙したことをきっかけに、多くの極道が死んだのだ。
こぼれてしまった幸せは、戻らない。
あの日のチーズはもう二度と戻らない。
これは主人を愛する犬の物語だったのだろう。
愛犬による復讐劇。
もし詩人がこの世界を眺めていたら、彼を主人公とした物語として綴られるのかもしれない。
語り終えた犬が言う。
『異界より舞い降りた魔姫よ。汝の情報はタブレットにも刻まれておったぞ。かつて人を憎悪した邪猫神を父とし、魔王の血筋を継ぐ母より生まれた邪悪なる混血児。人間でありながら、少女の器でありながら――いま、この日本において最も危険で邪悪な存在。すなわち、危険度SSSとな』
「よく調べてあるわね――あなたの裏にいるのって、何者?」
今のあたしの言葉は、逆にペスの発言の肯定とも受け取れる。
だからだろう。
ヤナギさんの顔が、わずかに引き締まる。
……ニワトリだけど。
池崎さんは、まあ何となく知っていたのか、変わった表情はしていない。
『誰が我を利用しているのか、もはやそこに興味などない。我はこの心のままに生きるのみ』
「まあ、犬としたらそれが正しい生き方かもしれないわね」
制御する主との幸せは――。
身勝手な犯罪に壊され消えてしまったのだから。
『娘よ、この世で最も邪悪なる素質のある魔姫よ。汝は必ずいずれ人間に追いやられる、人間に使われる。人間に失望する日が来るだろう――それが人という生き物だ。それでもなお、人間に味方をするか? 我を阻むか、我が復讐を否定するか? 答えよ――応えよ。人と我らの狭間に生きる姫よ!』
あたしの唇が言葉を漏らす。
「あなたがやっていることを否定する気はないわ。行動も尊重する。けれど、あたしの答えは決まっているの」
告げたあたしの周囲に、魔力が這い始める。
黄昏が太陽を消し去るように。
濃い魔力の渦が、世界の法則を塗り替えるように。
ざわざわっと広がっていく。
「ペス――あなたを止めるわ」
聖剣を翳し。
虹色の光で雪色の肌を輝かせ。
あたしは決意を込めて、敵を睨む。
『何故』
「あなたも極道連中に起こった悪魔竜化に加担していたんでしょう?」
『いかにも、やつらが仲間内で殺し合うさまは愉快でたまらんのだ!』
狂気に取りつかれた顔を見て。
それでもあたしは静かに言う。
「そう――でも、よく考えてごらんなさい。見ていたのなら知っている筈――悪魔竜化で暴走した人間に巻き込まれて怪我をした人もいるわ、もちろん、マフィアでもヤクザでも不良でもない人がね。この池崎さんだって、あたしが助けなければ死んでいたわ。分かる? あなたはあなたが大好きだったご主人様と同じ、誰かのご主人様だったかもしれない善良な人を、殺しているのかもしれないのよ」
これは論点のすり替え。
卑怯な精神攻撃である自覚はあるが、事実でもある。
「だから、あなたを止めるわ。第二のあなたがでないように――それがあたしの救済よ」
犬は賢い生き物だ。
魔術や異能に目覚めたのならなおさらだ。
だからこそ、理解している。
けれど、理解しているからこそ――もう。
きっと……。
『それでも、我は――もはや我自身を止められぬ! あの日の温もりを、主の幸せを奪った者を、我は決して許しはせぬ!』
そう、こうなるのだろう。
世の中は醜く残酷だ。
結局のところ、どちらが強いか。
それですべてが決まってしまうのだから。
だからあたしは右手に聖剣を、左手に魔導書を浮かべ。
ざざざざ、ざぁぁああああああぁぁぁぁ!
闇の魔力を纏い。
魔の姫としての全力を解放し。
言った。
「あたしはアカリ、日向アカリ。ただの女子高生よ。でも、今だけはいいわ――この世で最も邪悪な存在として、あなたの相手になってあげる」
人の形でありながら、人ならざるモノ。
本気となったあたしに世界が怯えて揺れている。
主人を愛した犬との最終決戦。
戦いが始まった。