正しからず
温い。この水は、冷たくなく喉に心地よい。
凍えた体には、冷えた物よりこのくらいがちょうどいい。
この勝負、勝てる。
少なくとも、負ける事はない。
正直上手くいくかは賭けだったが、私の思惑のことごとくが成立している。
用意されたコップは、ガラス製の物だ。それは液体が透明である事をより分かりやすくするためのものであり、模様の類は一切ない。九つ全てはほとんど同一の形状をしており、肉眼で確認できる違いはない。
これは、紛れも無い事実だ。
しかし、この世に存在する限り不変の物などありはしない。腐敗、劣化、風化、酸化、そして汚れ。様々な要因で、物体は状態を保っていられなくなる。
私は、目の前のコップと注視する。
どれほど考えても見分けなどつくはずもないが、頭を使わずとも目を使えばその違いは見て取れる。
単純な目印。おそらくシルビアは気づいていないだろうそれは、確かに確認する事ができた。
——指紋である。
コップを混ぜる際、“当たり”の物にだけ素手で触れた。そのほかの物に触れる際は手袋をはめていたため、指紋がついているのは“当たり”だけだ。
目立たぬように、取れてしまわぬように、机の面ギリギリに付いている。
シルビアも手袋をはめているため、間違いなく彼女の指紋ではない。たった一つだけ、シルビアがコップを持った際に拭われてしまうのではないかという懸念があったが、どうやら杞憂だったようだ。
必勝。
私は“当たり”を知っているのだから、決して負ける事はない。そして、最後の一杯を飲むのはシルビアの方だ。負ける要素は、何一つなくなった。彼女のポストは、私のものだ。
「ねえ、一つ聞いていいかい?」
豪快に飲み干したシルビアが、唐突にそんな事を聞いた。
「聞いていいか、というのがすでに一つの質問だ」
「意地悪言うなよ」
答えてもいないが、彼女は話し始める。
それは悲しげでありながら、それでいて楽しげでもあった。
◆
「表層っていうのは、どんな世界なのかな?」
「……質問が漠然とし過ぎているな」
香葉の答えは、どうにもつっけんどんなものだった。ずいぶん冷たいとは思うけれど、旧大地の極寒に鍛えられた私には単なる涼風程度に感じられる。
「私はね、この旧大地に生まれたものだから、表層っていうものを見た事がないんだ。誰かからの話でしか聞いた事がない」
私は三世代目だから、母さんも表層を知らない人だった。太陽というものがどれほど明るいか知らないし、大地を緑が生い茂っている景色など想像もつかない。
「だからね、色々な人に聞くんだ。誰か一人の言葉じゃあ偏見が混ざっているかもしれないし、嘘をついているかもしれない。色々な人の話を聞いて、私の中に景色を作っているんだ」
ともすれば、私の想像よりもずっと美しいのかもしれない。
あるいは、私の空想よりも遥かに醜いのかもしれない。
私の中には永遠に答えなど出る事はないが、それでも聞かずにはいられない。
誰かが何かを言うたびに、私の中の景色が変化していく。誰かの何かを聞くたびに、私の知らないものが色づいていく。
時には、知らない事が増えたりもする。ある時は、むしろ落胆したりもする。
それが言いようもなく楽しい。
それがそれ以上なく嬉しい。
「……大した事もない、別に普通の場所だ。本来地球はそうある。この場所が歪なんだ」
「そう。しかし、私は普通を知らない。歪な私に、是非とも普通を教えてはくれないか?」
言ってしまえば、ゲームとは全くの無関係。しかし、これは譲れない私のこだわりだ。
まず、香葉は次のコップを飲み干した。臆する事なく、怯える事なく。
そして、口をへの字に曲げたままこう言うのだ。
「私に勝ったら教えようか」
「なるほど、面白い」
これはなかなか面白い。香葉は、私と対等のつもりなのだ。
ただ一方的に値踏みをされる事など御免であると、こちら側にも条件を出した。すなわち、これは互いに賭けた対等な勝負なのだと。
それは、好戦的な宣言。それでいて、知的でもある。プライドと理性の両方をかざして、私に差し向けているのだ。
「良いよ。良いが、撤回はなしだよ? 言い訳も、物言いも全部なしだ」
「無論、当然、当たり前だ」
これはモチベーションが上がる。
十年前に経験した大勝負に次ぐ高鳴りだ。あの時は管理者の席を取ったが、今は単なる思い出話。スケールで言えば比べるべくもないものの、私の中では重要な事なのだ。
「なら早々に終わらせよう。待つのが遠しい。早く聞きたい」
「聞ける事が前提か。その足元を掬ってしまおうか」
頼もしい。
しかし惜しいのは、それが口先だけとなってしまう事だ。




