利は双方にあり
九つのコップを前にして、私は威圧感を覚えていた。
身動き一つ取らない無機物を前に、人間である私が気圧されているのだ。
シルビアと老紳士は、こちらに背を向けて目を瞑っている。ご丁寧に両手で耳まで塞ぎ、私の挙動の一切を知るものかという姿勢で微動だにしない。
観客はもう話してはいない。会話がヒントになれば興醒めであると、シルビアが強い口調で釘を刺したのだ。あとは、こちらには聞こえないほどの大きさで、隣の相手にささめいている程度の声しか聞こえてこない。
そして、視界の端に映るのは十個目のコップ。
この勝負の中では使われない異物。
液体の効能を確かめるためだけに使われた、すでに用済みとなっただけの物。
目の前には、それと同じものが入れられたコップがある。まだ場所を入れ替えていないため、シルビアが置いたそこに同じ物が確かにある。
なるほど手袋など渡すわけだ。薬物の使用に、僅かばかりは危機感を覚えているらしい。とはいっても、それを飲み干す事は気にならないらしいが。
コップの臭いを嗅ぐ。手を滑らせては恐ろしいので、最新の注意を払った。コップをしっかりと手で押さえ、直接頭を近づけるのではなく、コップの上部を手で扇いだ。しかし別に臭いはしない。
当然といえば当然か。これで分けられてしまえるのなら、この勝負は成立すらしない。
私は手袋をはめる。
必勝の自信などあるはずもないが、それでもこの勝負は私が有利だ。
◆
そもそもこの勝負、相手が有利にできている。
わざとだ。わざとコップを奇数にして、最初にコップを選ぶ人間が不利になるようにしている。そして、最初に選ぶのは私だ。これは、相手を試す上で必要な事なのである。
「終わったよ」
不機嫌な顔の香葉がこちらを向いた。ずいぶんと嫌われたものである。当然好かれるような事はしていないわけだが、これからもっと嫌われると思うと少々心苦しさを覚える。
いくら凍える暗がりに住みなれていようと、やはり人の目以上に寒いものなどありはしない。私はいつもそう思う。
香葉がこちらを向くと同時に、シルバスが私の背後へと戻った。向き合ってニヤニヤと自分を見るシルバスに対して、香葉はどのような事を思っただろうか。きっと私がいつも思っている事と大して変わらないのだろう。もしもこの勝負に彼が勝ったら、シルバスを一発殴る権利を与えるというのはどうだろうか。
我ながら妙案。どこでも一発。オススメは顔だが、腹を撃つのも捨て難い。
「じゃあ、私から」
開始の宣言もなく、私のその言葉で勝負は始まる。
味気ないが、手っ取り早い。
無意味を省いて、早々に終わらせるべきだ。
すでにどのコップが九つ目なのかなど分かりもしないが、考え込んだからといって答えが見えるような事でもない。
とりあえず手前の一つを手に取り、ぐぐいと一気に飲み干した。
「降参したかったらいつでもいいからね」
「……言ってくれるな。むしろお前が死なないように気を付けろ」
威勢がいい。何よりそれがいい。
飲み干したコップはもう使わないので、ひとまず脇に寄せておく。それを見てすぐに片付けるあたりが、シルバスが私の相棒たる所以だ。そして、付き人と思われがちな所以でもある。
「……この勝負」
「? 何か質問が?」
コップを睨みつけたままの香葉は、私に一瞥もなく続けた。
「どんな基準で判断するんだ。私のカーストを決めるのだろう? 勝負を始める前に聞き忘れた」
「あぁ、なんだそんな事か」
当然勝った負けただけでは二通りの人間にしか分けられないわけだが、旧大地の住民格差が二階層分しかないはずもない。
その答えは単純明快。
「私の独断と偏見だ。私はそういう立場にある」
管理者とはそれができる立場だ。
確かにこんなゲームなんかで人の善し悪しなど判断できるはずはないが、そもそも短時間で相手がどんな人間かなどわかるはずもない。
ならば、私が決めてしまって何も問題はないはずだ。あとで問題があれば罰を与えればいいわけだし。
しかし、どうやら香葉はこの答えが気に入らなかったらしい。返事もせずに、コップに手をつけた。
コップを真っ逆さまにするくらいの勢いで水を喉奥に流し込んだのち、今度は叩きつけるような勢いで机に振り下ろした。体調には一切の影響はなく、ようやく私に目を向ける。
「お前が死んだ場合はどうする。ともすれば、それはあり得る可能性だ。金属を溶かしてしまうような液体など飲み干せば、当然命に関わるのだから」
「あぁ、死んだ場合か……確かに、確かに……」
威勢がいい、それが良い。
こめかみの辺りに薄く冷や汗を流しながら、瞳と態度ばかりは一人前の猛獣のようだ。
この旧大地における身分制度が気に食わないのだろう。恵まれた表層大地で文字通り暖かく育った彼らには、そんなものはかつて存在した差別の名残としか思えないのだ。
差別しなければ存続できない社会があるなど、思いもしない。許容もできない。
それは確かに褒められた崇高な認識ではあるものの、理想を体現するだけの力のないこの世界では通用しない。
「勇ましいな。もしも……そう、もしも私がこのゲームで死ぬような事があれば、私の椅子は君の物だ。今日から、君がこの区画の支配者になれ。シルバスもそれでいいな?」
「御意に。トップは頼りになる方がいいですからな」
「言ってくれるな」
シルバスの軽口はさておき、これでモチベーションも上がるだろう。
ただ私に勝っても多少マシな暮らしができる程度だ。そしてそれも、他と比べればというだけに過ぎない。こんな極寒の暗がりが支配する世界では、悠々自適な生活などどうあがいても望めないのだ。
たったそんな程度よりも、私のポストは魅力的だろう。つい十時間前まで表層大地で暮らしていた者にとっては大したものではないかもしれないが、この旧大地の中でも最上位に近い生活水準である事は間違いがない。
「やる気になってくれたかい?」
「もとより」
気分は恐怖の大王だ。
目の前に現れた人間を嘲笑い。上手く煽って余興とする。
香葉は勇者となれるか否か。
今、私は楽しくて仕方がない。




