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区画長シルビアの不満不平

 この世界の空が閉ざされてから、どうやら一世紀が経過したらしい。


 かつて存在したらしいことわざの通り、目にしたくないものに蓋をしてしまった人類は、その蓋の下で暗闇に凍える私たちの事など思い出しもしない。


 女性は体を冷やしてはならないなんて書いてあったのは、一体どの本だったか。今そんな事が書かれた本が出版されれば、たちまち苦情が殺到だろう。

 この世界で、そんな事は不可能だろうからだ。


「随分と冷えますな、大将」


「馬鹿を言え、ここはいつだって寒い」


 日の光の届かない地の裏側は、いつだって指先から凍りつきそうなくらいの冷気で満たされている。

 そんな世界では、女の身であろうとも、体を冷やさぬようになんて言ってられない。


「いや、いや、大将が、という意味ですな。今日はいつになく、機嫌が悪いようですので」


「……なかなか言うようになったな」


「恐縮ですな」


 古今東西のあらゆる物語に登場する老齢の執事というものを全て合わせ、その平均化したとするならば、きっとこんな人物になるのだろう。

 そんな白髪と白い髭を蓄えた紳士が、私に深くお辞儀をする。口調こそ時折反抗的なものの、基本的には忠実な使用人の鑑である。ただし、別に彼は私の使用人などではない。


 名前はシルバス・タット。女である私を大将などと呼ぶのは、彼なりのジョークだ。正直のところ全く面白くないが、そんな苦情も言い慣れてしまった。なにせ、もう十年以上の付き合いになる相棒だ。


「気分が落ち込みもする。表層の人間は暖かな大地を享受して、私たちの知らない明るい世界を生きているのだ。そんな世界の一つの節目。歯ぎしりしたいほど憎いともさ」


「しかし我らは生きている。熱エネルギーの利用法を確立したどこかの誰かには感謝しなくてはなりませんな」


 かつて提唱されていたらしい地球空洞説は全くのデタラメだが、それを基として外殻球というものが形成された。人口の増加に伴って手狭になった大地を捨てて、それを包み込むような表層を作り出したのだ。その結果生まれたのがこの旧大地。およそ人間の住むような環境にない、太陽の届かない暗闇の世界だ。


「知りもしない奴への感謝なんてやってられるか」


 この世界の歴史は謎に包まれている。誰もが生きる事に必死であったために、後世に語り継ぐための労力をかけられなかったのだ。

 あるのは表層大地ができる前から残る古い歴史書のみ。この100年間の歴史のほとんどは口伝によって伝えられたものであるため、その信憑性については全く保障がない。


 現在、この旧大地では熱エネルギーを利用する事によって最低限の生活基盤を形成しているが、効率的な熱エネルギーの利用法を確立した人物の名前すらも曖昧な情報しか存在しない。


 そんなわけで、私たちは暗闇の中で生活している。

 熱エネルギーの利用の際に発生する光によってわずかな視界を確保しているが、それも充分とは言えない。あまり明るくしすぎるとエネルギー効率が落ちて熱を得られなくなってしまうので仕方のない事ではあるのだが、この生活を続けるのは慣れを考慮してもそれなりのストレスになる。


「祖父が“地下送り”にされたせいで、私はこんなところに生まれる事になった。恨むぞ。一生太陽を見る事もないままに死んで行くんだ」


「あ、忘れるところでした」


 シルバスが手をポンと鳴らす。片方を握り、もう片方の手のひらに軽く叩いた。手袋をしているのに随分と軽快な音が鳴るものだ。


「ちょうど“送られてきた方”がいらっしゃいましたな。地下送りと言われて思い出しました」


「まったく……それを早く言え」


 私は執務で凝り固まった関節を少し伸ばしながら立ち上がる。パキパキと節々が小気味のいい音を立てるのは、それだけ長く座り込んでいた証拠だ。


「面倒だが、他の奴には任せられないからな」


「然り、然り、これは貴女にしかできますまい」


 これから行われる仕事は、何があっても代役を立てるわけにはいかないのだ。この旧大地第十四区画長シルビア・オードクスの代わりを任せられる者など、ただの一人も存在しない。

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