009.ノルドワイズ防衛戦ー1 *
ドクドクと、心の臓が音を立てる。
グリュンベルグ――。
“俺は、その名を知っている。”
開きそうになる記憶の扉を、強烈な意思が強引に閉ざす。
強い、強い否定。それは感情とも思考とも言えないもので、間違いなくヨルの心の奥底から沸き立つものなのに、どうして自分で否定するのか、今のヨルは理解することができない。
「ふ……う」
動揺したのはほんの一瞬のことで、息を一つする間に、ヨルの心臓は何事もなかったように静かに脈を打ち始め、かき乱された感情も何かに飲み込まれるように夕暮れの薄暗がりに溶けていく。
「ヨル、どうかした?」
背後からかけられるドリスの声。
「いや、覚えのある名だと思っただけだ」
かえりみた彼女は変わらぬいたずら顔で、先ほどまでの恋人の話を蒸し返したそうに見える。どこの世界でも、女性は恋愛話が好きらしい。ドリスのワクワクとした表情に、ヨルは今度こそ「ふう」と軽くため息を吐くと今日の宿に向かって足を進めた。
その時だ。
「さっさと『騒がしい鶏亭』とやらに……」
行くぞ、と言うより先に、カンカンカンカンとけたたましく鐘の音が響いた。
「なんだ?」
「これ、警鐘じゃない? まだ日が落ち切ってないのに、魔獣が襲ってきたの!?」
警鐘の鳴った方角の魔力を探ると、街の北側の森から高速で接近するものがある。狂乱熊よりはるかに強い魔力。何よりその速度がすさまじい。
カッ、と北東の空に稲光が走る。
「雷光鹿か」
「ちょっ。北の森の固有種でしょ!? 結界はどうしたのよ!」
「結界?」
「ノルドワイズの北の森は、グリュンベルグの魔獣が棲んでるんだよ。段違いに強いの! でも、ずっと昔からノルドワイズを境に結界があって出てこられないはずなんだ。今でも結界への『箱』の供給は最優先で行われてるはずなのに……!!」
「見てくる。宿で待っていろ」
それだけ言い残すと、ヨルは稲光のした方へと疾走する。ドリスに合わせて走っていた時とは比べ物にならない疾走はまるで黒い風のようだ。
「え? 待って……って、はやっ」
言葉を継ぐより先に見えなくなったヨルに、ドリスは雷光にちかちかと光る夕焼けの空を仰ぎ見た。
(雷光鹿――、好戦的な魔獣じゃないはずなんだが)
便利なもんだな、と思いつつ、ヨルはこの肉体が覚えている情報を思い出す。好戦的でないとはいえ魔獣ではあるから、腹が減れば人や獣を襲って捕食する。しかし、結界を破ってまで人里に現れる魔獣ではなかったはずだ。それに、稲妻を乱発している現状は、どうも錯乱状態に見える。
(草食獣の名残で魔力に敏感だったな)
結界の魔力がほころびでもして、驚いたのかもしれない。
東側の城壁を上ると、すでに戦闘は始まっていた。雷光鹿とはまだ距離がある。やはり錯乱しているようで、雷光とともに移動する影は麦畑や南の森をジグザグに移動し、そのたびにあちこちに稲妻が落ちる。激しい雷光にたきつけられて、南の森から余計な魔獣たちまで飛び出して来ている。まるで、アリの巣をつついたようなありさまだ。
イノシシ、キツネ、狼に熊。どれも魔獣だからか、通常の個体の倍以上あり、形もどこか歪だ。口が裂けすぎているものや、目が複数あるもの、角のある個体もいて、なによりすべての魔獣には正気というものが微塵も感じられない。極限の空腹状態で餌を見せつけられた獣のように、人間たちめがけて飛び掛かる。
畑の端にぽっと赤い花が咲いた。
まだ日があるからと、作業をしていた農夫だろうか。何頭もの魔獣の牙や爪は人であったものをたちまちただの肉片に変え、わっと魔獣が群がった後には、小麦に散った血潮を残してそこに人がいた痕跡さえ消え失せてしまう。
遠く、ヨルたちが来た道の方には、ノルドワイズめがけて必死で走る旅人の姿。背負った荷をかなぐり捨てて転げるように駆ける旅人は、城壁からの援護射撃もむなしく、魔獣の爪に引き倒され、哀れな肉片と化していく。
血のように赤い眼光をほとばしらせ、よだれを垂らしながら魔獣の群れが牙をむく様子は、映画であれば盛り上がるシーンに違いない。いつもより早い夕暮れ時の襲撃に、逃げ遅れた人々が何人も犠牲になっている。そんな有様を前にしても、城壁側からは恐れる様子も興奮する様子も伝わってこず、淡々と戦闘を行っている。
魔獣の襲撃も、人の死も、これがノルドワイズの日常なのだろう。
ノルドワイズめがけて押し寄せる魔獣を淡々と始末し、城壁を死守する。そうすることで、この街の人間は魔獣うごめくこの地で生きていけるのだ。
もっとも、この安定した掃討を可能にしているのは、間違いなく城壁に設えられた連弩だ。何台もの連弩から一定の速度で、トトトトトと射出される矢が魔獣たちを城壁に寄せ付けないのだ。
(魔導連弩か。弦が魔力になっているのか)
一見すると上部に矢の供給部がある固定式の大型の連弩だが、弓に魔術が付与されており、自動で引き戻されたあと魔力で弦を張っている。人間は狙うだけでオートで連射可能な装置だが、なかなか魔力消費が激しそうだ。少なくとも操っている人間の魔力量ではとても操縦できないだろう。
(『箱』ってやつか……)
「くそっ、当たれ、当たれっ!」
雷光鹿を仕留めたいのだろう。兵士は稲光を追うように魔導連弩を操るが、目でも追えていない獲物に当たるはずがない。それにそんな無茶な使い方をすれば。
トトト……トト……ト……。
「しまった、『箱』が! 魔力切れだ」
「予備の『箱』はないのか!? 魔石でもいい。早く持ってこい」
「無駄打ちはするな! ギルドに増援を要請しろ!」
いつもより早い魔獣の襲来に、物資の補充が間に合っていない様子だ。
「魔術士は炎で牽制を! 相手は素早いぞ、面でねらえ!」
隊長らしき人物の指示で、装いの違う兵士たちが杖を構える。
「火球!」
「火球!」
あの杖には火球の詠唱が刻まれているのだろう。掛け声とともに、ドッジボールくらいの火の球が生じて、魔獣の方へ飛んでいく。魔獣でも炎を避ける野生の本能は残っているのだろう。速度も、おそらく威力も今一つだが、牽制としては悪くない。
魔獣の勢いが衰えたことに気を良くしたのか、魔術士の一人が遠方にいる雷光鹿に向かって火球を放つ。
「馬鹿野郎っ、そんなことしたら」
誰かが止めようとしたときにはすでに遅く、雷光鹿にかすりもせずに着弾した火球は麦畑に着弾し、収穫前の乾燥した麦にばっと燃え広がった。
ビィイイイイイイ!!
甲高い雷光鹿の叫び声。
眼前に広がる炎に、混乱のままに暴れていた雷光鹿はノルドワイズを敵と定めた。
「う……あああ!」
「打て! 打て打てぇ!」
光の軌跡を残し、ノルドワイズに向けて疾走する雷光鹿。
近づくにつれ、その威容が明らかとなる。
美しい鹿だ。青白い雷光をまとう毛皮はしなやかな体躯を華麗に飾り、頭部には立派な角が生えている。真っ赤に血走った眼と、草食獣とは思えないとがった牙さえ、この堂々たる体躯の前には獣を彩る宝石に思える。
ノルドワイズを目指して一直線に迫る雷光鹿。
兵士たちは定まりやすくなった的に向けて、ある者は弓を、ある者は投げ槍を、ある者は魔術を放つが、雷光鹿の周りに放たれる雷光に阻まれ、あるいは軌道をそらされ打ち消されてダメージを与えることができない。
城壁を射程距離に捉えた雷光鹿の角が、青白く光り輝く。
特大の雷を落とすつもりなのだ。
「させん……!!」
人ではとても引けそうもない、太い弓をギリリと引く兵士の背に力がこもる。
槍を変える者、杖に魔力を込める者もまたしかり。
緊迫した状況の中、ヨルは……。
(……すごく、普通のファンタジーっぽい火球だったな。なんか、戦闘も王道で)
ものすごく、全年齢対象のファンタジーぽい展開に、今までの自分は何だったのだろうと少し遠い目をしていた。魔術が当たった魔獣が内側からはじけて爆発したりもしていない。
スプラッター展開はヨルの固有スキルか何かなのか。なんとなく釈然としないものを感じるが、さすがに今は黄昏れている場合ではない。
(このままじゃ、倒せないな)
雷光鹿は魔力に敏感だ。己を傷つけうる強度ならかわすだけ。ここの兵士たちの攻撃はどれも遅すぎて雷光鹿を止められないだろう。
(火の投擲か。事象を具現化しただけの初歩的な魔術だが、火はいらないな)
魔術士たちの魔力は薄すぎるのだ。魔力の量が圧倒的に足りていない。
「よく狙えよ、チャンスは一度だ!」
「おぉ!」
兵士たちが雷光鹿に狙いを澄ますのに合わせ、ヨルも指先へと意識を集中する。雷光をまとい、高速で走る鹿だが光ほどは早くない。
爆裂させる必要はない。ただ、早ければいい。光より、音より劣る速度なら、打ち漏らすことはない。
「今だ!」
隊長が叫んだ瞬間、兵士たちは雷光鹿めがけて弓を、槍を、魔術を一斉に放つ。けれどそれらが放たれた瞬間、雷光鹿はそれらに乗せられた魔力の流れを読み取り、その射程から逃れるべく後ろ脚に力を籠めた。
その刹那。
「弾丸」
ヨルの魔力が雷光鹿の後ろ足を貫き、地をけるはずのその足は、膝から下が千切れとんだ。これでもう、この鹿に攻撃を躱すことはできまい。
ドドドドド。
次いで着弾する兵士たちの攻撃。
「やった!」
大物を仕留めた興奮に、兵士たちから歓声が上がる。絶え間ない攻撃をその身に受けた雷光鹿はひとたまりもなく、大地に倒れ伏している。
「気を抜くな! まだ南の森の魔獣どもが残っているぞ!」
「はっ!」
雷光鹿を倒したことで士気はさらに向上したようだ。ちょうど物資や増援も到着し、城壁の上は熱気を増していく。
「おい、あんた。増援か?」
「あぁ、様子を見に来たんだが」
ヨルの存在にようやく気付いた兵士の一人が声をかけてくる。さきほどのヨルの攻撃は、気づかれていないようだ。特に依頼を受けてきたわけではないから返事に困っていると、兵士は木札を投げてよこす。
「見ない顔だし飛び入りだろ? 雷光鹿は俺らがやっつけちまったが、まぁ稼いでけよ。次の鐘まで戦ったら、あそこに札をもってきゃ手当が出るぜ」
(ちょうどいい。この世界の標準を知るいい機会だ)
雷光鹿は倒れたが的は南の森いくらでも湧いてくる。
ヨルは城壁の開いている場所につくと、この世界標準のファンタジーを体感するべく、南の森へと意識を向けた。