023.彼女の思惑
彼女は上々の気分で街を歩いていた。
(これでまた一つ、今の世界の真実を、ヨルムに伝えられたはず)
そう思えば、降り出した雨も祝福に降り注ぐ馥郁たる美酒のように感じられる。
魔王ヨルム=テルドア・シューデルバイツという人物が、一体どんな者なのか、誰より彼女は知っている。どれだけ肉体や環境に影響されても、魂の本質というものは変質するものではないのだ。
だからこそ、彼女はこの世界のあり様をつぶさに彼に見せつけた。
彼は、滅びに面し、助けを求める人々を、見捨てられる人ではない。
(だから、この惨状を知ればきっと……)
そのために、彼女は魔ダニを用い、悲劇を引き起こしたのだ。
一つはノルドワイズ南の宿泊所で出会った御子たちの乗る馬車に。
あれは思ったよりも孵化が遅くて、魔獣化した御子はヨルムの目に触れる前に一人を残して殺されてしまった。けれど、残る一人は『魔獣箱』の真実を伝える役目を果たしてくれたし、ヨルムに拾われたことで正しく救い出すことができた。
「ヨルに見つけてもらえてよかったねぇ」
そう話しかけた言葉の意味を、あの子は理解してはいないようだけれど。
そしてもう一つは紹介状に忍ばせて。
魔ダニを使うのも二回目だから、予想通りの効果が得られた。
粗末な結界の魔導具は魔ダニたちが破ってくれた。魔物のエビはこの街の罪の証を喰い尽くし、大湿原を埋め尽くすほどに増殖し、罰を与えにやってくる。
グロースプラガーの襲撃は、生者の祈りも死者の尊厳も踏みにじってきたこの街の人間たちの自業自得だ。けれど、優しい彼はきっと見捨ててはおけない。この惨劇を納めることでこの街の罪を知ることになるだろう。
(だって、貴方なしではとても生きてはいけない。
この800年もの間、人間がしていることも、それより昔、ずっと魔人がしてきたことも、本質的に違いはないもの。魔人文明の遺物に縋り、遺物が壊れるに従って力を失っていく人間を思えば、魔王に支配されていた時代の方が美しく、秩序と何より未来があった)
汚い街になってしまったと、彼女はメリフロンドを見て思う。壮大な岩石や美しい貝殻をフジツボが覆っていくように、人間の劣悪な建築物をへばりつかせたこの街はかつての面影を残していない。
人間という存在の程度を示すような醜悪さだ。
同じ父母から生まれて育った幼い子供を、偶然魔に堕ちただけだというのに箱に詰め生贄にして生き延びてきたこの世界。
魔に落ちないことが尊いものか。人間だって他の動物と変わらない、死ねばただの肉じゃないか。それをこの街は証明している。
エンブラッド大湿原だけでは足りず、鉱山からも遺体もかき集め、一体何をしていることか。こんなに醜くあがきもがいて、それでも少しずつ滅びに向かっていくしかない。
(人間は、世界の覇者には早すぎた。
いいえ、違う。この世界が求めているのは、きっと人間などではないの。
この世界が求めているの、必要なのよ。
王が、王が、王が。この世の理を跪かせるたった一人が――)
雨に濡れるがまま軽やかな足取りで進む彼女はどこか狂気じみていて、平時であれば道行く人々は足を止めたに違いない。
けれど今は、次々と上陸してくるグロースプラガーの集団に、メリフロンド下層に暮らす人々は逃げ惑い、一人下層を歩く彼女を気に掛ける者はない。皆、我先に中層へ続く通路に押し寄せて、細い階段は今にも崩落しそうだ。
遠くから聞こえてくるのは、子供の泣き声だろうか。こんな時、真っ先に犠牲になるのは、力のない子供や年寄りだ。そんなところも、遥か昔から変わっていない。
(……助けなきゃ)
聞き覚えのあるあの声は、昨日訪れた孤児院の子供だろう。
(案内してくれたあの娘がグロースプラガーに喰われて死ねば、ヨルムは無残な亡骸を抱きしめてひどく悲しむことでしょう。可哀そう、あぁ、なんて可愛そうなの。ヨルムにそんな思いはして欲しくない。でも、心が傷つけば傷つくほどに、あの人はこの世界を見捨てられなくなる……)
見知った一人を救いたい、この世界のすべてを救って欲しい、この世界にいて欲しい、誰より側にいて欲しい。本当は他の誰でもなくて、彼女自身を助けて欲しい。
(ヨルム、ヨルム、ヨルム、ヨルム……)
彼女の思考は千々に乱れる。正常を装っていても、中身はとっくに壊れているのだ。
ひときわ大きな悲鳴と共に、曲がり角から男とそれを追うグロースプラガーが現れた。
陸に上がり、全身をあらわにしたその姿は、まるで黒曜石でできた甲殻が闇に輝くように見えた。荒々しい表面にはさまざまな凹凸があり、光がそこで妖しく反射している。その甲殻は強固で、並大抵の刃物や矢なら跳ね返すほどの防御力を備えている。
しかし、最も恐ろしいのはグロースプラガーの触手だ。柔軟で長く、その一本一本が生き物のようにしなやかに動く。雨に濡れ鈍い光を放つ黒い触手の先端には毒の棘が備わっており、触れた生物を麻痺させて、徐々に肉を腐らせる。
グロースプラガーの元であるグローシュリンプは、腐敗しかけたモスキャスケードや魚などの死肉を漁る湖沼の掃除屋でもあるが、魔獣化したグロースプラガーは捕らえた獲物を生きたまま腐らせて、その腐肉を漁るのだ。
雨の中、大人の走るほどの速度で、男を追いかけるグロースプラガー。
追われる男はぼんやりと立つ彼女に気が付くと、魔獣を擦り付ける先ができたと思ったのだろう、彼女の側をすり抜けて、そのまま遠くへ走り去っていった。
(あぁ……そうだ、そうだった。それよりボクが喰われた方が、ヨルムは悲しんでくれるはず)
襲い掛かるグロースプラガーを見て、壊れた彼女はここにいる理由を思い出した。
そのために、彼と再び旅をした。もっと一緒に居たかったけれど、断腸の思いで別行動をしたのだった。
そう思いだした彼女――、ドリスはグロースプラガーを前に、静かに目蓋を閉じる。しかし、無抵抗な餌にグロースプラガーの触手が襲い掛かるより先に。
「吹きすさべ、風の魔剣カルタナ!」
聞き覚えのある声と共に暴風が吹き荒れて、グロースプラガーが吹き飛ばされた。
「大丈夫か!? ……!! ドリス、ドリスじゃない! どうしてこんなところに」
「……アリシア? あなたこそ、どうしてここに?」
余計なことを。そんな気持ちを隠すついでに、ドリスはほんの少し正気に戻り、アリシアにいつも見せている友人の仮面をかぶりなおした。
「助けてくれてありがとう。ボクはいつもの旅だよ。それがお役目みたいなものだし。それよりアリシアだよ。鎧を付けてないってことはお忍び? あ、もしかして、ボクが教えた魔導具店に来てたの? あれ、急ぐんじゃなかった? ……もしかして、まだ完成していないとか?」
「え、えぇ。謹慎期間が長引いて。ですが、目的のものは手に入りました。ドリスのお陰です」
ぽん、と鞄を軽くたたいて笑うアリシア。完成した義眼がそこにあると知ったドリスはスッと目を細める。まだ、こんなところにいたのかと、無能な部下を叱責するような眼差しだ。
「だったら、一刻も早くそれを帝都に届けるのがアリシアの責務じゃない?」
「初めは私もそう思いました。しかし、この騒ぎです。力なき民を助けるのも聖騎士の務め」
グロースプラガーの襲撃を前に、一刻も早くメリフロンドを離れるべきだとアリシアは考えた。多くの苦労と犠牲を払い、ようやく義眼を手に入れたのだ。これを一刻もはやく教皇エウレチカ様の下に届け、聖都の病巣を取り除いていただくことこそ、聖ヘキサ教国を、ひいてはそこに住まう人々を助けることに繋がるのだと、そう信じていたからだ。
その考えは今も変わりはないけれど、グロースプラガーから逃げ惑い、助けを求める声を聴いた時、アリシアは誤って握ってしまった少女の手を思い出したのだ。
アリシアからすれば子供のほんの小さな手。あの少女はあんなに小さな手で、働いて日々の糧を稼いでいた。
「私は、ただ漠然とこの国の民を救いたいと考えていました。この国の民とはなにか、一体誰のことなのか、そんなことを考えもしなかった。しかし、この街に来て気付いたのです。今、助けを求めている人々、その一人一人こそが、救うべき民だと。それに気付いた時には、すでに走り出していました。私は、教皇様の騎士として恥じぬ行いをしたいのです」
曇りのない、けれど一点しか見つめていないような眼差しのアリシア。
そんなアリシアを、ドリスは咎めるような口調で否定した。
「いいえ、違うよ。アリシア、君は教皇付きの聖騎士で、とても強い力がある。
力ある者は、それに見合った働きをしなければいけない。他の誰かにはできない仕事ができるのに、代わりの効く仕事をしていちゃダメなんだ。
ここはどこ? メリフロンドだ。聖ヘキサ教国の一部でしかない。今ここで救いを求める人たちは、救うべき民の一部でしかない。
ここにはアリシアの他にも戦える人はいる、この街を救える人は君以外にもいるんだよ。けれどその魔導具を帝都に届けるられるのは君しかいない。
今だけ、ここだけ助けても、悲劇は亡くなったりしない。この国の過ちを正せるのはアリシアしかいない。そう思ったからこそ、君はノルドワイズへ発ったんでしょう?」
アリシアの手を取り瞳をのぞき込むように話すドリス。その言葉と視線に魔力がこもっていることを、アリシアは気付いただろうか。
「そう……ですね」
「そうだよ、そうなんだ。これは君にしかできない、教皇さまの騎士アリシア・ストリシアがなすべき使命だ。分かってくれたよね。さあ、長居は無用だ。エウレチカ様が待っている、急いで鉄道獣車の駅に向かって!」
アリシアの手を取りドリスがにっこりとほほ笑む。
――ソノ、ギガンヲハヤクトドケテ。
そう、戻ってきてくれたのよ。ずっとずっと会いたかった。
あぁ、早く来て欲しい。会いに来て欲しい。
コンナ、カリソメノ、カラダジャナクテ――。
あぁ、頭がくらくらする。意識が今にも飛びそうだ。
アリシアを説得するためとはいえ、この肉体に込めた魔力を使い過ぎたとドリスは思う。
今回は長く離れすぎてしまった。嬉しくて、楽しくて、幸せで、離れがたくて。だからついつい長居をし過ぎたのだ。
意識が遠のきそうになる。戻ってしまいそうになる。
今はだめだ、まだ駄目なのだ。グロースプラガーの群れがすぐそこまで来ている。今、この身体を離れては、ヨルに別れを告げることなく、アリシアと聖都に戻ってしまうだろう。
――ドリスには、最後の仕事をしてもらわなければ――。
そのためにはアリシアが邪魔なのだ。ドリスが教皇付きの聖騎士アリシアとドリスが友人であると知られるのも良くない。ましてドリスという人物が教皇の巫女であるなどと、けっして知られるわけにはいかない。
ただの留学生として偶然知り合い仲良くなって、世界を託して去っていく。
それがドリスに与えられた役割なのだ。
「さぁ、アリシア。駅に行こう」
ドリスは激しい眩暈に耐えながら、アリシアの背に手を添えて駅へと向かう。背を押されたアリシアは、「えぇ……」と大人しく従ってくれる。だいぶ魔力は消費してしまったけれど、そのかいあってアリシアはちゃんと理解してくれたようだ。
ここから駅は遠くない。アリシアを送った頃にはヨルもメリフロンドに到着していることだろう。それくらいの時間なら、まだもつだろうと考えながら進んだ曲がり角の向こうには。
ギチギチギチ、ギチチチチ!
「やあああぁっ、助けてぇ!」
今まさに、グロースプラガーに襲われそうになっている子供たち――、幼い子らを庇うナビアの姿があった。
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