018.栄華と終焉の記録
長い、長い栄華の記憶は、極彩色の繁栄に反して、モノクロームで空虚な情報として魔王の身体に残されていた。
魔王の絶対性は、不動の大岩が変わらずそこにあるように揺らぎのないものだったけれど、湿った地面からゆっくりと苔むしていくように、繁栄を極めた魔人社会はゆっくりと、ゆっくりと人特有の生臭い腐敗に蝕まれてゆくようだった。
牛が言葉を話したとして、麦が情けを請うたとしても、人はそれらを食らわぬだろうか。
まして、他に腹を満たせる何ものも存在しないとするならば。
人と人は殺し合う。人は人を虐げる。
人より生じ、人より長けた魔人という種族にとって、人は家畜であると同時に下卑た快楽の道具にすぎない。
魔王に救い出されるまでの狂気の時間がそうさせるのか、それとも日々の血肉が狂わせるのか。魔人たちは皆一様に狂人で、人の血肉と悲鳴を好んだ。
そうと知っても、肉蟲が生み出される前の時代だ。喰わねば生きていけない配下に対して、魔王は食人を禁じはしなかった。
人の血肉は魔人たちにとって唯一にして至上のご馳走だ。魔人文明が開化するにつれ、それを如何に食すかは最大の娯楽となっていった。
どれ程の凶行がおこなわれ、どれほどの人が惨殺されたか。
“活け造り――”
生きたまま肉を削がれるのはスタンダードで、新鮮な血肉と叫びを楽しむために、魔人には不要な回復魔法が発展したのは皮肉でしかない。回復魔法はあくまで殺さないためで、再生されたB級品の血肉を上位の魔人は食さない。食卓から下げられた人間の末路は、下位の魔人のおもちゃになるか、ペットの魔獣の餌であり、所詮は一食きりの生命だった。
“バロット” という料理をご存じだろうか?
孵化直前のアヒルの卵を加熱したゆで卵。ある程度くちばしや翼が形成された卵を食するその料理を人に応用したならば?
生きたままで腸を抜き、代わりに香草の類を詰めて炙るのは、苦しむ時間が短いぶん、優しい調理法だったろう。
肉に味を付けるため、死なない程度に熱した調味湯に漬けておく。喉の渇きに食材は調味湯を飲み、さらなる渇きに苛まされる。血肉の味に変化はつくが、地味だと人気はでなかった。
これらの記録は古い魔人の書に詳しいが、家畜として管理された人類は絶滅さえも許されなかった。
こんな時代においてさえ、月は魔素を降り注ぎ、世界は豊かで人は飢えることがなく、家畜に相応しい繁殖をつづけたのだから。
人の嘆きを糧として魔王の国は隆盛を誇り、魔人たちの文明は文化も技術も芸術も、同時に人の地獄も極まった。魔人の文化の成熟と共に、残虐性に重きを置いた退廃的な食人とは別の、一種の高級嗜好が生じたことは不思議ではないだろう。
魔人に喰われるためだけに、食らい糞をし長らえる不健康な肉でなく、勤勉で賢く心清らかな若い血肉。
その血肉は甘く芳醇で、麻薬のように魔人たちを蕩けさせた。
より美しい人の肉、より賢い人の肉、幸福に満ちた人の肉、絶望に打ちひしがれた人の肉、痛みに狂った肉、快楽に蕩けきった肉。
魔人たちが美食を極めるために、人に知識と『神の教え』が与えられた。
ヘキサ教の起こり。それは、最高と評される、肉を作り出すためのものだった。
健康で美しく、頭脳明晰。慈愛と信仰に満ち、いかなる試練も乗り越える、高潔なうら若き乙女。
最高級の食材が最高位の魔王に献上されるのは、至極当然だったろう。
後に聖女と称された、サラエナという名の少女は、魔王に捧げる生贄としてシューデルバイツに献上された最高級の食材だった。
長いモノクロームの記憶に埋もれてなお、彼女の記憶は色あせず、記憶の奥底にしまわれていた。
それは、青い月だけが満ちていた、初冬の夜のことだった。
空気が違う。まるで青い月の化身のようだ――。
サラエナに会った時、シューデルバイツはそんな風に思った。
白い衣に包まれた彼女は、一欠けらの恐れも見せずに、ただ真っ直ぐにシューデルバイツを見つめていた。交錯する視線の先に、シューデルバイツは一つの個である己を見た。たおやかで、けれど折れないあり様に生と死の先にある、世界の神秘を見た気がしたのだ。
ずっと動いていなかった心臓が動き出したようだった。シューデルバイツにとってサラエナは、常にまとわりついていたむせ返るような血の臭いを吹き飛ばす一陣の風で、永劫の暗闇に差し込んだ一筋の光だった。冷たく石のように凝り固まって動くことのなかった彼の心に血が通い、彼女の一挙一動で踊り出すようだったのだ。
「ヨルム」
人であった頃の名をサラエナに与えたのはどうしてだろう。
「サラエナ」
彼女の前では、ただの無力な男となり果てるのは、一体どうしてなのだろう。
魔王ヨルム・シューデルバイツがサラエナと過ごした数10年は、無限に続く彼の人生の中では、ほんの短い束の間で、けれど最良の時だった。だからこそ、サラエナが天寿を全うした後の終わりない時間は、これまでの苦痛に満ちた人生よりも、はるかに耐え難いに違いないと、少しずつ老いていくサラエナを前に、不滅にして無敵の魔王は、絶望という感情を再び思い出していた。
「ありとあらゆる生命は、死した後、別の生物へと生まれ変わるのだといいます。この命が潰えても、後の世できっとおそばに参ります。
それはあなたがふと目を止めた風にそよぐ一輪の花かもしれないし、あなたに朝の訪れを告げる小鳥かもしれません。
どんな姿になったとしても、きっとあなたと再会し、そしてあなたを愛します。
あなたは気づかないかもしれないけれど、あなたがこれから生きる無限の時間に必ずそばにいて、あなたと共に生き続けるから。きっとあなたは寂しくないわ。だから、そんな顔はしないで」
「君が生まれ変わって、新たな生を得るのなら、共に輪廻を巡りたい」
サラエナをはじめとした一部の人間たちの間で、輪廻という概念がいつ生まれたのか。
シューデルバイツが与えた『神の教え』にそんなものは存在しない。苦難に満ちた生を終えた者は救済の国に行くことができる、ただそれだけだったはずだ。
生まれ変わりを繰り返すことで魂を磨くという概念の下では、悠久を生きる魔人たちの魂は幼く未熟なものとなる。神にも等しい権勢を誇る魔王にとって、許容しがたい概念だったが、サラエナが信じるそれを、シューデルバイツは否定しなかった。
果ての見えない己の生に、まだ先があるなど考えたくもなかったが、じきに散り行くサラエナに再び巡り合える可能性は、孤独に乾いた彼にとって救いに感じられたのかもしれない。
輪廻という概念を心底信じたわけではないが、人という種族をよくよく観察してみると、似たような環境で生まれ育ち、同じ教育を施した者でも、獣のような浅慮な者もいればサラエナのような高潔な者もいるではないか。
肉体が魂の器に過ぎず、輪廻を廻り有限の生、生命の喜びと悲しみを幾度も繰り返していくことで、魂が磨き上げられ成長するというのなら、似通った血肉の塊にこれほどの差があることも、頷けるものだった。
輪廻を廻り至高へと至った魂は、真に救いのある世界へと旅立てるのだという。
ならば、死なず心も動かずに、無限の時を漫然と過ごす魔王という存在は、一体何ものなのだろう。生まれ変わったサラエナと再び出会うことが叶っても、いつかサラエナの魂は真に救いのある世界へと旅立つだろう。悠久の時間の果てに完全な別れが訪れる。
繰り返される別れの果てに、永遠の孤独が訪れる。魔王という存在はまるで許されざる罪びとのようだ。
「サラエナ、君と同じ時間を生き、救いの国に旅立つ時は、君と共に旅立ちたいのだ」
輪廻という現象が、真実である確証はない。けれど、シューデルバイツにとって真意のほどに意味はない。サラエナのいない永劫を生きる意味は最早なかった。
ヘキサ歴元年。
人の手による歴史書には、人の歴史の始まりをこう綴っている。
――ヘキサ神より七つの聖遺物を授かりし、聖女サラエナ。原初の魔王シューデルバイツを討伐し、グリュンベルグの地を解放する。――
これが、神聖ヘキサ教国の始まりであり、聖遺物により数多の魔王・魔人は滅ぼされ、マグスの覇権は人の手に渡った。
聖歴839年、原初の魔王が再誕を果たしたその時代――。
聖女がいかにして魔王を滅ぼしたのか。聖遺物のルーツもヘキサ教の教えも、人の治世に都合の良いように編纂され、真実は、いかなる歴史書にも記されていない。
■□■
(チッ、やっぱり魔石は手に入らないか……)
ヨルたちが編術師団の研究所跡地を探索していた頃、ヨルたちと同時に魔石工場を見学し、熱心に質問していた商人――、レンドルはエンブラッド大湿原を見渡せるカフェで軽く頭を抱えていた。
レンドルは父親から受け継いだ輸送獣で村々を巡り商いをしてきた。行商の途中で父親は倒れてしまったが、輸送獣と共に受け継いだ魔獣の少ない行商ルートや、どの村に何を持っていけば金になるのかといったノウハウのお陰で、今までなんとかやってこられた。
しかし、長く行商を続けるからこそ分かることもある。
どの村も、『箱』や魔石が足りていないのだ。ほんの少しずつではあるが、『箱』や魔石の値段は上がり、流通量が減らされている。このところは特に顕著だ。どの村も訪れるたびに魔石はないかと声がかかる。
『箱』は教会の厳格な管理下にある。聖ヘキサ教国において、『箱』は税と社会保障の両側面を持つ。『箱』の対価として集落ごとに定められた上納金を支払い、『箱』がもたらす魔力によって魔獣に脅かされない生存権を確保するのだ。
『箱』はヘキサ神が下される恩恵だから、価格交渉できるものではないし、上納金を増やしたからと言って増えるということもない。上納金は変わらないのに、以前より出力の低い『箱』が与えられたとしても、文句をいえる筋合いのものではないのだ。
どの村も与えられる『箱』だけでは魔力が足りず魔石を求めているけれど、魔獣を倒せるハンターたちはそのほとんどをギルドで売却してしまうから、魔石の流通も教会が独占しているようなものだ。ハンターにとってギルドのランクを上げることはメリットが大きく、ギルドのランクは魔石の販売総額で決まるのだ。ハンターに直接取引を持ち掛けたとして、手持ちが無い場合かギルドの金額にたっぷり色を付けなければ売ってはくれないし、安定供給には程遠い。
(値が張っても安定して手に入ればひと財産稼げる。親父みたいに旅先で野垂れ死なずにすむのに)
レンドルの輸送獣は老齢だ。動きも緩慢になってきているし、運べる荷も減ってきた。おそらく遠くないうちに寿命を迎えるか魔獣に襲われ命を落としてしまうだろう。そうなる前にレンドルは、一発当てて引退するか、せめて新しい輸送獣を手に入れたかった。
旅の噂で魔石を安定生産しているという工場があると聞いたから、メリフロンドまで足を延ばしたというのに、結局ここも教会の管理下なのか。
(まぁ、そうそううまい儲け話が転がってるはずないんだよな。頼み込んで買えるなら、もっと魔石が出回っているはず)
もしもそんな美味しい話が向こうからやってくるのなら、それは……。
「こんにちは。さっき魔石工場にいた商人さんでしょ。魔石を仕入れたいなら、いい場所を知ってるよ」
「あぁ? なんですかね、あなたは」
仕事柄、人の顔を覚えるのは得意だ。レンドルは声をかけてきた人物の顔に見覚えがあった。先ほどの工場見学会にいた女だ。
「跡をつけてきたのですか? なんで私などに声を?」
この女、魔石を欲しがるカモを探して、見学会に参加していたのだろうか。
明らかに怪しい様子に商人は警戒心を見せるが、そんな様子を女は面倒くさそうな仕草で笑って一方的に話し始めた。
「何でもいいじゃん。ボク、欲しいものがあるんだよ。これはそのための先行投資ってわけ。別に信じなくても構わない。君だけに声をかけてるわけじゃないから。でもね、魔石は早い者勝ちだよ。興味があるならこの場所に行ってみるといい。これは紹介状。開封したら意味がないから、そのまま向こうで渡してね」
それだけ一方的に伝えると、女は地図の書かれた紙切れと一通の封書をテーブルに置いて店を後にした。
(さて、どうしたものだろう……)
明らかに怪しい誘いではある。しかし、リスクを取らなければチャンスが得られないのもまた事実だ。特に今のこの国では『箱』も魔石も教会と言う強大な既得権益が独占していて、市場に流通する量は明らかに不足しているのだ。本当に魔石が手に入るなら、アドバンテージは計り知れない。
(ん……? この場所は。……おいおい、マジかよ)
地図に書かれた場所を確認したレンドルは、置かれた地図と封筒を手に取った。
厚手の丈夫な封筒は、わずかな隙間もなくぴっちりと封がされている。その封筒の中身がかすかに振動したような気がして、商人は若干の気持ち悪さを感じながらも、封筒をカバンのポケットへとしまい込んだ。
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