030.誘惑
「謹んでお返し申し上げます」
先ほどまでいた浄罪の塔の最上階、先ほどまでは、ライラヴァルとグラスを傾けたテーブル席にヨルと意識の戻らないルーティエ、ヴォルフガングが座り、この部屋の主であるはずのライラヴァルは5メートルほど離れた場所で片膝をついて深く頭を垂れ、『魔滅の聖典』を差し出していた。
(……なんぞ?)
ルーティエ災害をなんとか回避した後、疲労困憊のヨルのところに来た馬車には、ライラヴァルが自ら乗り込んでいた。ヨルが弱った今こそチャンスと襲う気かと思いきや、やたらと丁寧な対応で迎えに来たというのだ。
この浄罪の塔にはミリィ型ルーティエボディもヴォルフガングもいる。放って帰るわけにもいかないから、むくつけき男たちの地下パラダイスへの片道切符を売りつけられようが、最上階で再びレッツ★パーリィのパー券を売りつけられようが買わない訳にもいかないと渋々乗り込んだのだけれど、渡されたのが聖典だとは。
“参りました、完全降伏です”みたいな展開になっているが、ライラヴァルとの戦いではヨルが一方的にやられただけで、ライラヴァルに鉄拳制裁した覚えはない。ルーティエをなだめるために半ば無理やり協力してもらったから借りはあるが、どうして聖典を返してもらう流れになっているのか。
どういう心境の変化だろう。気が変わるのが早すぎる。女心と秋の空とかいうやつか? ヨルはライラヴァルのことを、なんとなくファッションオネェだと思っていたが、きっちり心は女性なのだろうか。
(ずーっと頭下げてんな。こういう時ってなんていうんだっけ……? 直れ? それ体育の“気を付け”の時だ。えーっと、えーっと……)
「面を上げよ」
「はっ」
(うわ、俺、エラソー)
とっさにでた魔王語録に、誰よりヨルが混乱する。
しかも、ライラヴァルがいつもの高めのオネェ声ではなく、低めの男の声で返事をしたものだから、ヨルの混乱は深まるばかりだ。一体、なんで男の声なんだ。
(シリアスなシーンだけ男に戻るオネェっているよな……)
このオネェ的にはヨルとの戦闘も、ルーティエの暴走も、コミカルパートだったのだろうか。
こんなに改まっちゃって、これから一体どんなシリアス展開が始まるというのか。こればかりはヨルの魔王頭脳をもってしても、ちっともさっぱり予想がつかない。流石はオネェ、底が見えない。
「まぁ、座れ」
よっこいしょとルーティエを自分の膝の上に移して、空いた席をライラヴァルに勧める。
ヨルがこの部屋に戻った時にはルーティエはこの席に座らされていたのだけれど、四肢の付け根や手足に穴が開いていたから、ヨルが攻撃された後、間髪入れずに磔にされたことは予想がついた。
ルーティエの本体は、まだグリュンベルグ城に向かって移動中のようで、ルーティエの意識は戻っていないが、新しい分体を膝の上に乗せてやると、しゅるりと体に潜り込んで手足の傷を修復したから今はきれいな状態で眠っているように見える。
ヴォルフガングの方はというと、無の表情でずっと黙りこくっている。
ヨルがルーティエをなだめている間に、ヴォルフガングとライラヴァルは、浄罪の塔の跳ね橋を降ろし、オプタシオら塔の外に取り残されている囚人たちを回収してくれたらしい。あの跳ね橋を下すには相当の魔力が必要で、ガス欠になっていたライラヴァルには動かせなかっただろうから、ヴォルフガングがライラヴァルに血を分けてくれたのだろう。なるほど、無の表情にもなるわけだ。
ゴンドラの発着場に駆けつけたヴォルフガングは、入り込んでいた魔獣を鬼神のごとく倒していったというが、多分八つ当たりなのではないか。
「……失礼、いたします」
ヨルに席を勧められ、躊躇していたライラヴァルだったが、黙ったままこちらを見据えるヨルの様子に、おずおずと席に着いた。
「転身の書か……」
テーブルの上に置かれた『魔滅の聖典』に視線を移したヨルがつぶやく。
『魔滅の聖典』とは人間たちが付けた名で、本来の名前は転身の書という。魔人の血液を自在に操る術式が組み込まれた書だ。他にも人類が自立できるよう初歩的な魔術理論なども書かれていたはずだ。今の世界を見る限り、この書が役に立ったのだろう。
「聖遺物を受け継いだ今のお前たちにとって、『箱』は魔力を得る手段に過ぎないのだろうが、そんなことのためにこれらを残したわけでも、ましてや創り出したわけでもない」
「はい……」
だからこの浄罪の塔へ来るまでは、『魔滅の聖典』を回収し、御子――、魔獣となる子供で『箱』を作るのをやめさせるつもりでいた。
「オプタシオたちの反乱は失敗したそうだな。囚人の多くは現状を是としたか」
「はい……」
聖ヘキサ教国で生まれ育ったオプタシオたちは『箱』の真実を知り、反乱を起こした。けれどその反乱は、『箱』が無ければ生まれ故郷を守れないという現実を前に敗れたという。オプタシオとわずかな同士は最後まで剣を握って、ほんの少しでも良い未来の訪れを信じて戦っていたという。
人間はより良い未来を想像し、そこに向かって手を伸ばし、発展していけるのだというオプタシオの言葉は、凡人である因も共感するところだし、応援したいところでもある。だからこそ、彼らの反乱はヨルと何ら関わりが無いにもかかわらず、ヴォルフガングとライラヴァルに救援を頼んだのだ。
しかし、オプタシオたちがしたように真実をつまびらかにしたとして、問題が解決しないことは囚人の多くが離反したことからも明らかだ。
(どうすべぇ……。めっちゃトロッコ問題じゃねーか)
トロッコ問題とは、トロッコが進む先に5人の作業員がおり、止めることができない状況で起こる倫理的なジレンマをさす。トロッコの運転士は別の線路に切り替えることができるが、その線路には1人の作業員がいる。運転士は5人を救うために1人を犠牲にするべきかという選択を迫られるわけだ。
ちなみにヨルとしては、そもそもトロッコが止まらないのが悪いと考えるタイプだ。そんなことを考えている暇があったら、そういった事態にならないように技術を発展させるべきだ。
この世界に当てはめるなら、『箱』に頼らなくとも生きていけるように人類が発展すればいい。そうすれば『箱』を巡る問題は一定の解決を見るだろう。あくまで人間側の問題は、だが。
それよりも厄介なのは、遥か古来より続く、魔人化問題ではないか……。
ヨルの沈黙をどうとらえたのか。
先ほどから「はい」と返事を繰り返すだけだったライラヴァルが重い沈黙を破った。
「私は……作りました。魔獣だけではありません。魔獣に堕ちた子供だけでもありません。この身は魔人であるというのに、それを隠して……『箱』を造りました」
目を伏せて、静かに噛みしめるように語る様子に、魔王の記憶が蘇る、
――私は、食べました。私の……血を分けた子供を……。
――僕は、食べました。お父さんを、お母さんを……。
かつて、魔王シューデルバイツの配下に下った魔人たちも、静かに己の所業を口にした。
魔人たちは人から生じた存在だが、人とは異なる存在だ。だから、人を食料とする魔人にとって、それは罪になりえない。
魔化が始まった瞬間から、魔人はすでに人ではなく、魔人たちの法律にも、道徳にも、あるいは教義や社会通念にも反するものではないのだ。どれほど人であった頃の思い出に縛られ、罪の意識にさいなまれたとしても、その行いは罪でなく、だから罰されることもない。
それ故に、決して許される日はこない。
ただ、決して消えない傷として、心に抱え続けるのだ。
きっとそれは、ライラヴァルたちも同じなのだろう。ライラヴァルは『箱』という人柱によって成り立つ世界を肯定できず、けれど出来上がってしまったこの国の仕組みを変えることもできずにいた。
「私が人のままであったなら、『箱』となるのも運命だったと思考を放棄し役目に殉じたことでしょう。私はそういう人間でした。だから罰が下されたのでしょうか。私は魔に堕ちた。『箱』を作り、使う側ではなく、『箱』となる側になってしまった。にもかかわらず、私は、『箱』を造ったのです。
人を、人間の血肉を喰らいながら、同じく血肉に飢える子供たちを『箱』にした……」
ライラヴァルは、『箱』にまつわるジレンマと、魔人化に伴い正気を蝕まれる辛苦の両方を抱えていた。
こんな状態で、どんな道があっただろうか。
道も希望も失って、一歩も進めずにいたのだろう。体を蝕む痛み以上に心の痛みに堪えかねて、膝を抱えてただじっとうずくまっているのだ。
罪を告白するライラヴァルの姿が、遥かな昔、ヨルが出会った魔人たちを思い出させた。
そんな彼らを捨て置けなくて、思わず声を掛けたのだ。
「共に来るか?」
ヨルの口から洩れた声に、ライラヴァルが顔を上げた。
戸惑いと、救いを求めるその視線。
「このまま痛みに正気を手放して、狂気に堕ちてしまった方がいっそ楽かもしれない。我が元に下れば、その身を苛む飢えと痛みからは解放されるが、代わりに魔王になる資格を失う。人よりは長い、けれど限られた寿命を俺に捧げる僕となる。だがまぁ、俺といるのはそう長い間じゃない。その間に、新しい道を見つければいい」
ヨルは魔王になどなるつもりはない。
思いのほか仕事は増えたが、魔王シューデルバイツの心残りを片付けるために呼ばれたのだと考えている。だからそれが終わればどんな手段を使っても日本に帰り、咲那を助けるつもりでいる。
だから、ライラヴァルがヨルに拘束されるのは、ヨルがこの世界にいる間だけの、魔人の人生からすれば短い間だけだ。その間も、ヨルは魔王として君臨するつもりなどないのだから、新しい生き方を模索してくれればいい。言ってしまえばアルバイトみたいなものだ。バイト代は出ないけど。
そのように考えてヨルは提案したのだけれど。
「……慈悲深く、残酷なる王よ。貴方様のその誘惑に、どうして抗うことができましょうか。ですが、魔王無き世に惑う魔人たちのためにも、どうか、どうか、一時でも長く君臨下さいませ」
――魔王職に終身雇用とか嫌だからね?
泣きそうな顔をしてこちらを見つめるライラヴァルに、ルーティエ2号が爆誕した気がしてヨルは頭が痛くなった。
■□■
ルティア湖の大氾濫。
海と見紛う湖が、河の流れすら無視して浄罪の塔めがけて氾濫する災害。
天変地異にも等しいその異常事態は、聖ヘキサ教国全土に衝撃を与えた。
一体何が起こったのか。水は高きより低きへ、河の流れに沿って流れるものだというのに。
事態を解明すべくノルドワイズ一帯を治める魔滅卿の指揮のもと調査隊が結成され、遠隔からの魔導具による調査、近隣で最も高い建造物である浄罪の塔の最上階からの視察、魔力探査に北部の森の魔獣分布の変動など、様々な調査が行われ、最終的に魔滅卿自らが赴いた現地調査により、判明した事実は、ノルドワイズ周辺だけにとどまらず、聖ヘキサ教国を震撼させた。
――魔王シューデルバイツの居城、グリュンベルグ城がルティア湖に出現せり。
魔滅卿の報告には、「ルティア湖の水深が一時的に激減したことにより、グリュンベルグ城が浮上しただけで、内部に魔力反応は確認されなかった」とあるが、魔人支配の恐怖から未だ抜け出しきれない聖ヘキサ教国の人々の間で、とある噂が口の端に登るようになっていた。
――魔王シューデルバイツの復活。
聖ヘキサ教国の人々の関心は否が応でも近隣の街、ノルドワイズへと集まる。
ピンチはチャンスとばかりに血気盛んなハンターたちもこの街へと集まってくる。
魔物が最も活発化する『狂乱の月』よりさらに賑わいを見せるノルドワイズの宿屋の酒場で、一匹のワー・ニャンコが夜空を見上げる。
「ヨル、早く戻ってこにゃいかにゃー」
夜空には、わずかに欠け始めた赤い月明りを補うように、白と青の二つの月が、ともに満ちようとしていた。
挿絵ミーニャがもはやただの猫で草。
これにて2章終了です。
3章の進捗が思った様に進んでおらず、大変申し訳ないのですが、当面の間、毎週木曜、週1更新となります。
のんびり更新となりますが、引き続き応援よろしくお願いします。




