029.魔王の手
広大な湖そのものともいえるほどに成長したルーティエは、意思を持った災害そのものだった。
ヨルが全身から血を噴き出し、意識を手放す様がよほどショックだったのだろう。
ルーティエはすっかり正気を失っていて、上空からヨルがいくら名前を呼んでも、その声が届くことはなかった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
ごうごうと逆巻く流れが悲痛な叫びをあげる。
まるで小さな子供だ。
長い寿命と、知識を与えはしたけれど、もっと大切なものを与えてやれなかった。
この幼いスライムは何百年という長い時間を、たった一人で役目を守り、主がとうに放棄した城を守り続けた。
ルーティエには、きっと、それしかなかったのだ。
そんな孤独なルーティエに差し伸べられたヨルの手は、どれほど温かかったことだろう。
魔晶石を与えた主というのは特別だ。けれどそれ以上に、一匹の仲間も、師や友人になってくれる相手も得られなかったルーティエには大切に思えたことだろう。
ルーティエは、ヨルの言葉を何一つ聞き逃すまいと耳を傾け、名を呼ぶだけで喜んでいた。分体の魔力が枯れることさえいとわずに側にいたいと望んでくれた。その思いは如何ほどのものだったろう。
ルーティエの気持ちを思いやってやれなかったことをヨルは悔やんだ。
魔王であった時も、人に生まれ変わった今も、変わらず自分は未熟なままだ。
「ルーティエ」
ルーティエを止めなければならない。泣く必要はないのだと伝えて、俺はここにいるのだと、抱きしめてやりたい。
転身の書で血液を操ったヨルは、ルーティエの元へと魔鳥のごとく飛翔した。
これは、魔獣の血液を纏う血鮮布の術よりはるかに高等な術式だ。多少であれば転身の書などなくても操れるけれど、全身を覆い、かつ飛翔に耐えうる翼を維持するには、外部の術式、転身の書があった方がいい。
いくら不死の魔王と言えど、全身の血の半分にも等しい量を操るのは負担が大きい。身体的な負荷だけではない。同時に使える魔術は限られ、その戦力は大幅に低下する。
それでもこの術を選んだのには、意味がある。
魔王に流れる血液は、最も強靭な肉体の構成要素でもあるのだ。
怒りと悲しみに我を忘れたルーティエの体は、今や強力な溶解液と化していて、呑み込んだ何もかもを溶かし去っている。いくら不死身の魔王でも、対策もなく飛び込めばルーティエを正気に戻すより先に肉体が崩壊してしまう。
ヨルの肉体が崩壊しても、おそらくそのうち再生するのだろうが、その時にはルーティエの心はきっと壊れてどこにもないだろう。それでは遅いのだ。
「ルーティエ、今、そっちに行くからな。……もってくれよ」
濁流のそばまで飛翔したヨルは、ためらうそぶりも見せず、そのただなかへと急速度で突入していった。
じゅう、じゅう、じゅう。
纏う血液が酸に溶け、わずかに開いた隙間からルーティエの溶解液は侵入し、肉を侵食していく。
けれど解けると同時に肉は再生し、破れた血の衣が再び表面を覆い隠す。
津波のように逆巻き渦巻くルーティエの肉体は、その核を残してすべてが水のように粘度の低い強力な酸だった。
濁流は激しく、流れを掻き分け進もうとするヨルを阻む。
「ルーティエ……!!」
流れの中心、その奥深くにルーティエの核はあった。
あまりに巨大な体とは不釣り合いなほどに小さい核は、直径1メートルほどの球状をしていた。ヨルの侵入さえ阻む奥深くに隠された様子は、孤独だったルーティエの閉ざされた心のように思えた。
「ルーティエ……」
そっと、ルーティエの核に触れる。
撫でてやると、「ふわぁ」と声を上げてプルプル震えて喜んでいた小さなスライム。
ルーティエの核の周りは、特に酸が強いのだろう。直に触れるヨルの手は焼け焦げたように黒変しながら溶けていく。再生よりも早い溶解速度に、肉は欠け、奥に白い骨が見え始める。
解けているのはおそらく手だけではないだろう。濁流に血の膜が剥がされるたび、ヨルの肉体は溶けて傷つく。
肉体の痛みはさしてない。
この程度で死ねる体ではないのだ。
ただ、悲嘆にくれるルーティエの核に触れる手だけが、どうしようもなく痛かった。
ルーティエがヨルを大切だと語った言葉を、魔晶石によって作られた感情だなどと、割り切ってはいけなかったのだ。ルーティエにとっては、本物の、大切な感情だったのに。
「ルーティエ、もう泣くな。ルーティエ!」
ルーティエに伝えなければいけないことがある。たくさん伝えて、教えて、育ててやらなければ。一人で歩いていけるように。
「ヨル……さ、ま?」
「ははっ、ルーティエ、やっと気が付いたか。俺は大丈夫だから、もう、泣くなよ」
意識を取り戻したルーティエの核は、幼い心を示すように、でっかいビー玉のようにヨルには映った。
「よよよ、よるさま、よるさま、ごめんなさ、ごめんなさいいぃ」
「気が付いたか? 俺が急に倒れたから、びっくりしたんだよな。あれくらいじゃ死なないし、ちょっと確認したかったから攻撃を受けたんだが、先に言っておくべきだったな。ごめんな」
「あ、謝らないでください。ルーティエが悪いんです。ヨル様を信じられずに暴走して、こんな……。ヨル様を傷付けるなんて、とんでもないことを……」
「かまわないよ。ルーティエの心の方がずっと痛かったろう」
「こころ?」
「あぁ、心だ。ルーティエ、800年もの長い間、城を守ってくれてありがとう。たった一人で寂しかったろうに生き残っていてくれてありがとう。今まで一人にしてしまった分、これからたくさん話をしよう。いろんなところに行って、いろんなものを見よう。俺とだけじゃない。いろんな人と出会って、様々な経験をして、ルーティエの心を温かいものでいっぱいにしよう」
いつか、魔王というしがらみを超え、ルーティエが巣立っていけるように。今は言葉にしないけれど、今のルーティエは親を求める幼子のようなものだ。子は成長し、いつか親元を巣立たねばならない。魔王などに縛られず、自分の意志で生きていってほしいとヨルは願っている。
「ルーティエは、ヨル様といられれば、体の中がいっぱいで、ふわふわして、ぽかぽかして、幸せです。なのに、ヨル様、ルーティエのせいで、体がっ、体がっ……」
今はまだ、母親の心音に安らぎを覚える赤子のようなものなのだろう。育てと言って育つものでもない。ルーティエは賢いスライムだから、一緒にいられる間にきっと成長してくれるだろうとヨルは信じている。
……うん、信じている。すぐに成長してくれるだろうと思ってはいるけれど、現在進行形でヨルの状態に動揺して、ちょいちょい酸度を上げてくるのはやめて欲しい。
「うん。平気だから。だから、ちょっと落ち着こうか。あと、酸、やめて? そろそろ溶ける」
「ははははいいいぃぃぃ」
正気に戻ったルーティエの動揺がひどい。
あまりに慌てて瞬間的に酸の強度があがった時は、危うく全身溶けるところだった。ここで死ぬわけにはいかないから、気合で乗り越えたけど。気合いで再生速度が上がるとか、割とでたらめな魔王ボディーに初めて感謝したかもしれない。
何とかルーティエをなだめることには成功したが、ルーティエの本体の質量はとんでもない上、分体と違ってほとんど水分でできているから、静止していることができない。ルーティエの核めがけて飛び込んだ時から思っていたが、99%以上水分なのではなかろうか。
「ルーティエ、ちょっとその辺凍らせるからな、痛かったら言うんだぞ?
凍れ、凍れ、詠唱めんどい、崩れ六華」
記憶がだいぶ戻ったおかげか、詠唱を適当に省略してもいけるものだ。
体積が体積だから、蛾の女王を落とした時より強い魔力で凍らせたのに、進行方向側のルーティエの体表を凍らせただけで、核にはまったく届かない上に、ルーティエ自体はケロリとしている。
水の熱容量、しゅごい。というか、この物量、ヤバくないか。ほぼ水ということは、核を攻撃して倒しても、津波が止まるわけではないのだ。しかも怒ると酸になる。最終兵器すぎないか。
「そこでぐるんって回るんだ。こっちだ、こっち。そうそう、うまいぞー」
『まわれましたー、ヨルさまー』
「うん、うん。そのままもと来た道を通って帰るんだぞー。なるべく溶解液を回収して中和していく感じでなー」
でないと、この辺りの土地、今後数百年にわたって不毛の大地になってしまう。
『はーい』
返事はかわいいのだけれど、サイズも被害の状況もまったくかわいくないルーティエは、ヨルの手元に新しい分体を一つ残して、何とかルティア湖の方へと帰ってくれた。
(つ……疲れた……)
この世界に来てから一番疲れたかもしれない。魔力も使い過ぎたし、正直帰りたい。できれば日本に。まぁ、本来の目的を達成してはいないし、今のルーティエを放って帰る選択肢もないのだけれど。
(どのみち、日本に帰るのはしばらく無理なんだろうけど、あ゛ー。ライラヴァルとも決着ついてないんだよなー。なぁなぁで仲直りとか休戦とかできないかなー)
血液もだいぶ溶かされてしまったから、飛んで帰ることもできない。手元にあるのはもっちりもちもち新品のルーティエの分体だけだ。ちなみに、本体を動かすのはかなり大変なようで、本体稼働中は分体に意識はないようだ。
このもちもちした分体ルーティエを枕に、今日はここで寝てしまおうか。
水気たっぷりのルーティエが暴れまわったせいで、どこもかしこもぬかるんで泥まみれなのだけれど、体も疲れて泥のようだから泥繋がりでアリじゃないかと乱心するくらいには疲れている。
(セキトー、セキトやー。あぁ、呼んだら来てくんないかな、俺のキャンパーちゃん)
割と本気でそんなことを考えていたヨルの方へ、浄罪の塔から一台の馬車が近づいてきた。
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