006.狂乱熊 *
翌日、おそらく子供たちが馬車の中で眠っているだろう早朝に、ヘキサ教の御子たちを乗せた馬車は出立していった。
この宿泊所が分岐点だったのだろう。1台は北へ、1台は南へ。
昨日仲睦まじくおしゃべりしていたミリィとメルパは、別れを交わす間もなく互いの進む道へ送り出されていったのだ。
子供たちを見送った後、昨日の惨劇跡を確認しに行った兵士たちが戻るのを待って、ヨルとドリスはノルドワイズへ出立した。どういう原理か土にしか見えないのにアスファルトのように固められた道を会話しながら北へ北へと二人で走る。
ドリスの言動から推測するに、ヨルの種族だと仮定しているエルフというのは、排他的で自国から外に出ないらしい。だから、ヨルがこの世界の常識に疎いことも当然だと様々なことを教えてくれて非常に助かる。
「ドリスはノルドワイズに何をしに行くんだ?」
「んー、それ聞いちゃう?」
雑談の合間にこっそりいろいろ試したことから、この世界はリアル寄りの魔法世界だと分かった。
レベルやスキルといった概念はなく、ステータスウィンドウといったものもない。それは転生者であるヨルも同じで、転生者だけが使える何かは残念ながらないようだ。
この世界の人間は、身体能力がやたらと高い。それは魔力で身体能力を強化しているからで、身体強化は誰もが息をするように自然に行っている。
大気には魔素というものが含まれていて、生物は空気と同時に魔素を呼吸する。体内に取り込まれた魔素は魔力に変換されて、食物から得るエネルギーと合わせて使用される。
(クエン酸サイクルだっけ? ATPとかエネルギーがどうとかで筋肉を動かすってアレ。それプラス魔力サイクルみたいのがあるっぽいな)
魔力の生成効率は個体差があるから大なり小なりではあるが、全員がパッシブで身体強化がかかっている状態だ。だからドリスのような少女でも、何時間もしゃべりながら走り続けることができているし、車サイズの魔獣に対して剣や槍なんてアナログな武器を片手に挑んだりできる。
しかし炎や水を出したりという、いわゆる魔術を使うとなると、多くの魔力が必要になるから魔力をためておく魔力核が必要になる。魔力核というのは誰でも持っているものではない。むしろ持つ者は少ないから、魔術士というのは上級職なのだとか。
「ボクはねー、異端児なんだって言ったら、ヨル、引いちゃう?」
「程度にもよるな」
ドリスはすっかり打ち解けた様子で、砕けた口調で雑談を交わす。
「ヨルは熱心なヘキサ教徒だったりする?」
「いや」
ヘキサ教なんて知らないが、ヨルは無信仰な多神論者だ。神も仏もいるんじゃないかと何となく思っている。米一粒には七人の神様だし、森羅万象八百万もいる。だから、常時、監視――見守っていただいているようなもので、悪いことはできないよねと考えている。
異世界に来るとき誰かに会った記憶はないが、こうしてここにいるのだからヘキサ教の神様だっているのかもしれない。
「そっか、エルフはそうなんだね。あのね、ボク、助祭になるために留学してきたんだけど、……個人的に魔王の歴史を調べてるんだ」
「へぇ」
魔王。それがこの世界のタブーなのか。知り合って日の浅いヨルに話す程度だから、異端といっても“不良”くらいの感覚だろうが。
「思い切って話したのに興味なさそうー。いいけどさ。聖ヘキサ教国には、魔人どころか人型の魔獣もいないもんね。原初の魔王がいたところだっていうのにね」
この世界には魔王なんてものもいたのか。過去形で話すということは、すでに誰かに滅ぼされたのだろう。
そして魔人。魔族みたいな種族なのかもしれない。それより気になったのは、〝この国に人型の魔獣がいない“というところだろう。それはつまり。
「ゴブリンや、オーク、オーガは」
「この国にはいないんだ。ヘキサ神様のご威光、ビシバシだよね」
「ほう」
それは何というか違和感を覚える。ファンタジーの定番だというのもあるけれど、それ以外にも何か引っかかりを感じるというか。
「でもさ、ボクたちが使ってる魔導具とか、今走ってる何百年も壊れない道とか、そういう高度な文明を築いたのは魔人たちなんだよね」
「だから、魔王の歴史に興味を持ったのか」
「うん。表向きには遺跡の発掘ってことにしてる。魔導技術を活用することは人類が魔人文明を超えて繁栄する手段として推奨されているからね」
魔人文明を活用しなければ超えられない時点で、人類大したことないんじゃないかと思ったが、そこは賢く黙っておく。
「で、ノルドワイズ?」
「うん。原初の魔王の居城があった場所だから」
「そうか、っと、来客だ」
思わずいい情報が聞けた。もっと聞きたかったのだけれど、人間の気配を感知したのか招かざる客が来たようだ。
身体強化は筋力、持久力に限らない。視覚も聴力も、五感すべてを研ぎ澄ますことも容易だ。周りに危険な生き物がいないかと意識を集中してみると、意外なほどに小さな音までよく聞こえ、視界は広く薄暗い森の中まで見通せる。
さらに、あたりを探る意識に触れる熱源のようなもの。
炎の熱を肌で感じるように、意識、いやおそらくは魔力に触れるこれは生物の魔力だ。
魔力感知と呼べるこの能力を聴力に例えれば、雑踏のなかで自分を呼ぶ声だけは聞き分けられるようなもので、こちらに意識を向けている魔力を無意識に感知できる優れものだ。
バキバキ、ガサガサと低木の枝が折れ、草が掻き分けられる音とともに、停止したヨルとドリスの前に軽自動車ほどもある巨大な赤い熊が現れる。
「うわ、狂乱熊。ボク全然気付かなかったよ。ヨルって魔力探知もできるんだ」
魔力探知は標準装備じゃないらしい。また一つ賢くなった。本当に、ドリスさまさまだ。
「すぐに2匹目が来るな。1匹いるか?」
「えー、か弱い乙女に何させんのさ」
「か弱い乙女が一人旅か。いつもはどうしてる?」
「ドリスちゃんの雷光鹿のような脚をごらんよ。ダッシュで逃げるに決まってるでしょ」
「なるほど」
(ここはカッコイイところを見せるボーナスステージというわけだな)
バカなことを考えつつ、ヨルは煽り運転並みに急接近してくる軽自動車、もとい赤い熊に向かって手の平を向ける。
赤と言ってもレンガのような茶色がかった赤色で、地球ではありえない色合いのありえないサイズの熊が、口から唾液を垂らしながら赤く血走った眼でこちらを見据え、ヨルを肉片に変えるために腕を大きく振り上げようとしている。臨戦態勢のその姿が飛び込んでくる驚愕はパニック映画の比ではないのに、魔力探知はこの狂乱熊を他愛ない敵と認識させる。
(なんか、手軽で派手なの、あったな)
最大まで振りあがる狂乱熊の腕がヨルの顔に影を作った時、ふと思い出した言葉が口をついた。
「***」
音で言うならば、「ダム」であるとか「ダムン」といった発音だろう。
その言葉が発せられた瞬間、狂乱熊は、ビクンと体を大きく揺らしたかと思うと、ボゴボゴと左の首のあたりが倍ほどに歪に膨れ上がり、次の瞬間には、鼻からも口からも、泡立つ血液をブブッ、ブフウッと吹き出しながら振り上げた腕の反動のままに、どう、と後ろに倒れた。
そしてヨルは、今、自分が発した言葉が何なのかを瞬時に理解した。
いや、思い出したという方が正確だ。
それは一度は覚えた英単語を思い出した感覚に似ていて、同時にその単語と共に記憶していたフレーズさえも、ヨルは思い出していた。
再びヨルは右手を上げて、力のあるその言葉、呪文と呼ぶべき言葉を唱える。
森の中、1体目の惨状に臆することなく、今にも飛び掛かろうとこちらを見据える、2匹目の赤熊に向かって。
「汝、穢れし水袋。沸沸と萌え、砕いて炸け裂き狂え 血花爆砕」
その詠唱の後に響いた音は、ブツッともボッともつかない、低く不快な音だった。湿気た皮と肉の一番薄いところが裂けて破れる音なのか、本来くっ付いているはずの肉と表皮が剥離する音なのかもしれない。
その音が促した変化は、視覚的に分かりやすいものだった。
赤熊の全身が、まるで風船のように一気に膨張したのだ。
ついで皮膚を急激に押し上げたモノは、赤熊の皮を限界まで押し広げると、出口から、膨張の衝撃で引き裂かれた開口部から外に向かって溢れ出す。
鼻や口、目に耳に排泄孔だけでなく、脇や関節部分といった血管が集まっていて肉の薄い部分が裂けて気体混じりの赤い液体が勢いよく噴き出している。眼球は最初の破裂音と共に飛び出していて、今眼孔からブッブッと間欠的に飛び出している白いものは、脳みそではなかろうか。
「ちょっ、ヨル。これ……」
朱に染まる木々の前で、絶句するドリス。
(やってもた……)
手軽で派手かもしれないが、同時に最悪の呪文チョイスだ。
血花爆砕――。対象の体液を一瞬にして沸騰させる攻撃魔術だ。
最初に倒した赤熊は、詠唱が不十分で部分的な“爆裂”しか起こらなかった。けれどきっちり詠唱をし、魔術を発動させた2匹目は、体液の沸騰により体は風船のように膨らんで、裂けた皮膚や体孔から血潮を吹きだしている。その赤は線香花火のようにも彼岸花のようにも見えて、ヨルが詠じて命じた通り『血花』が咲き狂っているのだろう。
「これ……エルフの攻撃魔術? 初めてみるけど……。あんまり人前で使わない方が、いいんじゃない?」
(ソウデスネ)
ドリスの意見には、激しく同意だ。この呪文は、オーバーキル以前の問題で、使っちゃイカン類のものだ。何とかうまくごまかさなければ。
「異端児すぎるか?」
「ぷっ。そーだよ、魔王の歴史どころじゃないよ、ソレ」
好感度が高いのか、それとものんきなだけなのか。すぐに緊張を解くドリス。
浮かんだ笑顔と対照的に、周囲には、沸騰し、まき散らされた血の臭いが濃密な臭いを放つ。
(この体、やっぱおかしいよな……)
手足の長さも身長も、田口因のものとはかけ離れているのに、何の違和感もないどころか、長年使い慣れているように魔力感知も魔術も自然に使える肉体。イケメンらしいというおまけ付きだが、どこか不吉だ。
鼻孔をくすぐる狂乱熊の血は、熟れ落ち腐った果実のように、甘く、饐えた臭いがした。




