027.転身の書
魔王の魅力には逆らえないのか、それとも内心では従いたいと願っているのか、ヨルに双子を連れてこいと命じられた瞬間、ライラヴァルの支配下にある双子が目覚め、この部屋へとやってきた。
「やめて! 無理よ! 今その子たちに喰らいついたら絶対に殺してしまう!」
思わずヨルに懇願するライラヴァル。
魔滅の聖典を使ったことで、ライラヴァルの魔力は枯渇状態にある。
魔力を補充するために、餓えた体は理性など容易く破り捨てて、目の前の柔らかな血肉をよこせと叫んでいるのだ。自制などできるはずがない。ギリギリの綱渡り。天秤は、今にも欲の重さに甘い血肉に傾きそうだというのに。
「そのための子供だろ?」
「それでも! あたしの手の中で冷たくなっていくあの感覚、もう嫌なのよ! 誰が、誰が人の血肉なんて好んで喰らうものですか!」
それはきっと、たった一人で魔人に変わっていく恐怖と苦しみの中、口に出せずにいた言葉だ。
喰いたくなどないのだと、どれほど言葉で訴えたって喰わずにはいられない。喰い殺される者たちの前で、どうしてそんな言葉を吐けようか。
「なんだ。そんな子供を侍らせてたら勘違いするじゃないか。それでいいんだよ。そうやって悩み苦しんでいる様子は、誰よりも人らしく見えるよ」
「人? 人を食い殺したあたしが? これからも、どれほど殺すか分からないのに? 今だって、あの子たちを食い散らかしたくて、どうしようもないっていうのに!?」
苦しみもがくライラヴァルの姿に、かつての同胞たちの姿が蘇る。
人を喰いたくなどないのだと抗う姿は、誰よりも人間らしいとヨルは、そして魔王シューデルバイツは信じている。だからこそ、獣ではなく人、“魔人”なのだ。
「大丈夫だ、助ける」
後進を導くのは、長く生きた者の役目だ。魔王になるよりさらに昔、シューデルバイツがそのように考え、行動していたことを思い出す。
家族や恋人、大切な人々を喰い殺し、絶望の叫びを上げながら、強靭な肉体ゆえに死ぬこともできずに苦しみもがき、泣きながら人の血肉を喰らっていた魔人たち。そんな彼らに手を差し伸べているうちに、彼は魔王となったのだ。
至誠惻怛という言葉がある。
魔王と呼ばれた男は、至誠すなわちまごごろと、惻怛すなわち他人の痛みや哀しみを慮る心を持て、魔人たちを導いた立派な男だったのだと、記憶の中に垣間見えるシューデルバイツのありようにヨルは思った。
(俺はそこまでできた奴じゃないけど、真似事くらいならできる)
ヨルは自分の右手の親指を口へと運び、その腹をぶつりと噛み切った。指の腹に盛り上がり、つぅと伝う赤をぐい、とライラヴァルの唇へ押し付けた。
「なっ!?」
唇を離れた親指にはすでに欠片の傷もなく、ライラヴァルの唇になまめかしい赤が艶めいている。
「いいか、肉は喰らうな、余計に餓える。喰うのは血じゃない。血に含まれる『光体』だ。今なら分かるはずだ」
「光体……?」
それは、この世に生きとし生ける生命に与えられた祝福。月より降り注ぐ魔素を魔力に変換する因子の名だ。
臓器として在るわけでなく、取り出して目視できるものではない。植物にも動物にもあまねく生命に存在するゆえに、概念に過ぎないものだとライラヴァルは考えていた。
光体を多く有するということは、魔力の変換効率が高いということ。十分な魔力核があれば強力な攻撃魔術が使える高位の魔導士となり、魔力核を持たない、あるいは小さくとも身体能力は平均をはるかに凌駕する。すなわち魔獣を倒しうる力を持つこととなる。
それは神の祝福と同義で、光体という言葉自体が神の祝福と同種の意味で扱われてきた。だから、教団の関係者はあいさつ代わりの祈りの言葉に「光あれ、リグラ・ヘキサ」と唱えるのだ。
その光体が実在するのか。魔人の飢えを癒すのは、その光体だというのか。
病気を病魔のせいだと考える昔の人にウィルスの話をするようなものだ。知覚できないものを理解することは難しい。けれど今のライラヴァルにとってはその通りではない。
「……わかる、わかるわ」
ヨルの血に濡れた唇が熱い。
魔人に変貌し始めて以来、血液など幾度も口にしてきた。
性別や年齢、食品嗜好や健康状態で味に違いはあるけれど、人間の血など飲み物と変わらない。そして、魔人である自分の血や魔獣から得た血液は、腐ったような臭いと味がした。
けれど唇に塗られた魔王の力は清水のように清らかで一切の不浄を感じない。それどころか、その血に触れた舌が伝えるのは、これは喰らうものはなく、ライラヴァルという存在を支配する根源だということだった。魔王の支配は痺れるほどに甘いのだろう。わずかに触れただけだというのに、ライラヴァルの体の芯を切ないまでに焦がれさせる。
その唇を濡らす魔王の血の導きは、ライラヴァルに双子に宿る光体を認識させた。
「いらっしゃい」
ライラヴァルの瞳がヨルのように赤光を放つ。その光に誘われるように、双子はライラヴァルの元へ歩み寄る。
「はい、おひいさま」
「お召し上がりください、おひいさま」
隷属の首輪によるものとは思えない滑らかな動きで、双子はリボンタイをほどいて首元をくつろげる。首筋を守るように覆う首輪にヨルが触れると、双子を縛る隷属の首輪は砕けて落ちた。
けれど双子は逃げるそぶりも見せず、その白く細い首筋をライラヴァルへと差し出した。
「はぁ……」と赤子が最初の息を吸うように、ライラヴァルが口を開けると、真珠のような歯列に乱杭歯が伸びる。
ついで双子の片割れの細い首元へと、ずぷり、とライラヴァルの乱食い歯が沈み込む。ぷつりと血が珠のように盛り上がり、一筋落ちて白いブラウスを汚す。
この双子は、ライラヴァルのもとに来るはるか昔に痛覚を失っている。
枢機卿の一人、友愛卿フラタニティーは裏で様々な用途に加工した人間を売買している。別に珍しいことではない。表ざたにしないだけで、かつて人類を支配した魔人たちの文明こそが富と名声、栄光だと履き違えた愚か者は多くいて、失踪しても探されもしない子供たちはさらにたくさん溢れているのだ。
この双子のような高級品か、それともどこからでも調達できる粗悪品かの違いだけで、必要な食糧ならば容認されるというものでもない。喰われる恐怖から遠ざけるため双子の痛覚を遮断したのも、なるべく殺さないように、高価なポーションや癒しの魔術で回復させてきたのも、罪悪感から逃れたいだけの自己満足でしかない。
「そこまでだ」
ヨルがライラヴァルの肩に触れると、「はぁっ」と深呼吸をするようにライラヴァルが口を離し、もう一人の首筋に再び牙を沈み込ませた。
(なんて、満たされる……)
これは束の間の充足であると、本能的に理解している。人がどれほど食事で満たされても、時間が経てばまた餓える。それと変わりはない。
けれど、魔人として目覚めてから、これほどの満足感を味わったことがあっただろうか。
尽きた魔力が恐るべき速さで満ちてくるのが感じられる。
再びヨルに止められて、我を取り戻したライラヴァルは双子の様子を確認する。
あれほどの飢えを満たしたというのに、双子は意識を失っているものの命に支障は感じられない。空腹を満たすために必要な、光体だけを摂取したからだ。
「……お礼を申し上げます」
これからも魔人化の飢えと痛みに苛まれ、この双子を喰うだろう。けれど殺してしまう可能性はずっと減ったのではないか。ライラヴァルは、真っ暗だった暗がりに希望の明かりがともるのを感じた。
「礼は終わってから俺が言うさ。『魔滅の聖典』をこちらへ」
血で血を洗い手に入れた聖遺物だというのに、ヨルの言葉に何の抵抗も感じずライラヴァルは『魔滅の聖典』を差し出した。まるでそうすることが自然で、当然であるように。
最早、何の疑念も感じない。これは、この魔王の聖典だ。
『魔滅の聖典』――、真なる役割の名を『転身の書』。
その上に魔王の手がかざされる。
ぶわあっ。
風ではなく、光でもなく、ヨルの手の平から聖遺物へと流れ込む魔力は、激しい暴風のようでも、眩しい閃光のようにも感じられた。
「開け、転身の書。
変転叶いし乙女の果てよ。逃げ惑い、錯乱し、狂いし月の血に至れ。
与えるは、夜を統べる王の叡智。高らかに謡え、秘したる旋律」
『魔滅の聖典』を開きもせずに、ヨルはこの聖遺物の持ち主だけが知るはずの、『真節』の前半を詠唱した。込められたヨルの魔力と正しき術式に、『魔滅の聖典』は人が与えた仮初の役割を捨て、花が開くようにページを開く。
(そうなの……、本来はこうやって使うものなのね……)
ライラヴァルは正しくこの聖遺物の継承者で、それ故に、この書が造られた目的、この書を創った者が残し、伝えたかった秘術を完成すべく、詠唱を引き継いだ。
「根幹を成すもの、喰らい尽くすもの、終わりなきもの。
変貌し、増殖し、逆巻く理なき群れよ。王の意により空より転じて色を成せ」
術式の起動に比べて、展開は難易度も消費魔力も少ないというのに、あまりに強力な魔力で励起された術式は嵐のように激しく荒れ狂い、あれほど満たされていた魔力は根こそぎ喰らい尽くされそうだ。再び体中がきしみ、全ての細胞が悲鳴を上げる。ライラヴァルに残された人間の部分を、魔人の部分が喰らっているのだ。
それでもライラヴァルは詠唱を続ける。これがこの書の真の姿。これこそが、この書に記され、残された聖遺物の力なのだ。
「霊木の冠、燻り続ける血染めの衣、再生を繰り返す肉の盾。彼の岸辺に至る旅の装束。
狂い月の支配者は命ず。肉となり、皮となり、死者の棺を喰らい飲み干せ」
今、転身の書は成った。詠唱によって導かれ、構築された術式は完成を見た。
それを証拠に、ヨルの足元には先ほどとは比較にならないほど複雑な魔法陣が幾重にも広がり、咲き誇る大輪の牡丹のようだ。
咲き誇る大輪の花の色は赤。ヨルの全身より噴き出した血の色だ。
まるで花吹雪のように全身から噴き出した血液は周囲を渦巻き、転身の書を導いた魔人の姿はけぶって見えない。
これほどの血液を失うなど、まるで自殺行為だ。なぜ、ヨルはこの術式を導いたのだろうか。
その答えの代わりに、血風の中から静かな声が、完成したはずの術式を真に完全な形へと導いた。
「我は夜を統べる王、汝が支配者。狂い月の血よ、我が意に下れ」
ザアアッ。
巨大な魔鳥の羽ばたきのような、強い風が一陣吹いた。
「これが、転身の書の本当の力……」
吹き出し、渦巻くだけだった血液は、新たな皮膚のようにヨルの体を覆い、その背に大きな翼を象っていた。
転身の書により翼と鎧を得たヨルに疲弊した様子は見られない。逆にライラヴァルは度重なる魔力枯渇に今にも意識を失いそうだ。
「手間をかけたな」
全魔力の損耗と引き換えにした魔術に対して、あまりに簡単なねぎらいの言葉。けれどその一言だけで、ライラヴァルは心から報われた気がした。
「命脈の息吹。起きろ、ヴォルフ。オプタシオがピンチだ、助けてやってくれ」
「……戻ったか。……なんだ、二人してカーニバルか?」
「はは、状況はライラから聞いてくれ。少し血を分けてくれると助かる」
「…………………………」
最後にヴォルフガングを回復させたヨルは、ものすごい渋顔をするヴォルフに後を託すと窓を開ける。
「今行く、ルーティエ」
そしてヨルは魔鳥のごとき翼を広げ、今なお押し寄せるルティア湖の津波、ルーティエに向かって空を翔けた。
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