025.白い月の満ち欠け-②
「き、貴様、生きて……!?」
「その子を返してくれ」
立ち上がったヨルを見て剣を構える聖騎士にヨルが静かに命じると、聖騎士は感情の抜け落ちた表情に変わって動かなくなったルーティエを差し出した。
つい先ほどまでは敵と味方。それもライラヴァルが殺しかけた相手だ。ルーティエをこんな目に合わせたのもライラヴァルだと分かっているだろう。
だというのに、目を覚ましたヨルはひどく落ち着いた様子でルーティエを受け取ると、ヴォルフガングが生きていることを確認し、展望窓の方へと歩いていく。
ヨルが見つめる先、あそこはかつて魔王城があったと言われるルティア湖だ。あの湖に魔王の城があった時代、魔人たちは魔王の加護により正気を保ち、魔王のために高度な文明を築き上げた。
長命で魔力に優れ、知力も身体能力も秀でた魔人たちによる、今の人類を凌駕する魔人の時代。それはどのようなものだったのだろう。
どうしてすべてを棄てて去り、どうして戻ってきたのだろうか。
今はただ、“ヨル”と名乗るこの男は、月でも眺めるような静かな様子で北西を眺める。
折角魔王が愛でているのに、無礼な白い月は欠けてしまって姿を見せない。
裏切りの白い月がいないせいか、それともこの男のお陰か、不思議なほどに今は心が穏やかだ。ずっとこうであればいいと願うけれど、気まぐれな白い月はやがて満ち、この身を、母の支配下にあった幼少の頃のように振り回すのだろう。
こんなにも緊迫した状況だというのに、ライラヴァルは白い月の満ちる様を思い浮かべて、在りし日の記憶を思い出していた。
■□■
――白い月が満ちていく。
「愚か者のふりをなさい。奴らの目を欺いて今は魔力を磨くのです」
「はい、母上」
『魔滅の聖典』への適合者を産むために5人目の妻としてウォルメン家に無理やり嫁がされてきた母は、力を妬んだ他の妻たちに毒を盛られて子を成せない体になった。
母が得られた子は嫁いですぐに孕んだ一人――ライラヴァルだけだ。
毒で死なずに済んだのは果たして幸いだったのか。一人でも子が得られて幸いだったか。むしろ命を落としていたならば、ライラヴァルと共に産み落とされた悲劇の芽が育つことはなかっただろう。
十を超える子を成し続ける他の妻たちと、たった一つの手ゴマで、それでも戦うことを諦めなかった母。母が施す教育は苛烈を極めた。
ライラヴァルの安全を確保するため、母は自分と揃いの女児の格好をさせ、べたべたとつねに寄り添った。食事はすべて母が自ら毒見をし、眠るときさえ片時も離すことはない。女児が人形遊びをする様子に、周囲は気の触れた女とその人形として母子を見做した。
人の目の届かぬところで、母は幼子のすべてを支配し、『魔滅の聖典』に適合するためだけの魔導教育を施した。遊ぶ時間も友人も一切を与えぬその様は、常軌を逸したものだった。
周囲が見做していた通り、母の気はとっくにふれていたのかもしれない。
最年少で枢機卿の座に、つまりはこの家の長の座に就いた日に母はライラヴァルに告げたのだ。
「お前はこの母と、兄様の子。ウォルメンの穢れた血など一滴たりとも流れておらぬ。聖遺物は、『魔滅の聖典』は再び我らがリブロの手に戻ったのだ」
――白い月が満ちていく。
聖ヘキサ教国の教皇を支える6人の枢機卿。
彼らはそれぞれ周辺諸国一国に比肩する広大な領地を有し、王のごとき権力を持つ。
けれどその富も力も、血筋によるものではなく、世襲されるものではない。
枢機卿の地位を証明するのは、聖遺物を使いこなせるかのみであり、それ故に枢機卿の地位にある者はその権力を維持するために、子孫から聖遺物の適合者を輩出することに躍起になった。
建国以来、『魔滅の聖典』を保有してきた母の生家、リブロ家は、曽祖父の代で適合者を輩出できず、すべてをウォルメン家に奪われた。
リブロ家は、『魔滅の聖典』に見放されたのだとウォルメン家はリブロ家を嘲笑い、執拗なまでにリブロ家を追い立てた。
リブロ家が適合者を輩出できなかったのはウォルメン家の計略だったと母は言う。当時、適合率の高い子供が次々と死んだことも、『魔滅の聖典』を奪われて後の没落も、その後続いた数々の事故も。
その真偽を確認するすべはない。
ただ、没落したリブロの血を引く女性たちをウォルメン家が妻や妾として幾人も迎えたこと、その血を誰より色濃く引き継ぐ息子、ライラヴァルが『魔滅の聖典』に選ばれたという事実がすべてを物語っているように思われた。
――白い月が満ちていく。
聖遺物『魔滅の聖典』とともに手に入ったのは、全てにも近しいものだった。
領土や金、地位など付随に過ぎないと思えるほどに、聖典がもたらす絶大な破壊の力はライラヴァルに全てをもたらした。
狂った母と傀儡の子供。彼らがすべてを手にすることを承服できない者たちが、最後のあがきに投じた毒は、母がすべて飲み干してくれた。
母の死に涙はない。
この母に復讐という名の目的以外何もないことを知っていたから。
そしてこの母もまた。
『魔滅の聖典』を取り戻すという目的を遂げたこの母に、地獄のような世界を生きる意味はなかった。
毒の杯を代わりに受ける行為は、苦界からの解放であり、最後に母としての愛情を息子に示すことでもあった。
……そうであってほしいと、ライラヴァルは今も願っている。
母を弑した者たちに対する粛清という名の血の花は、手向けとするには十分なほど赤く赤く咲き誇った。
その赤は、夜空にかかる赤い月よりなお赤かった。
――白い月が満ちていく。
なんて穢れた肉体だろう。
いまわの際に母が告げた出生の秘密が、ライラヴァルの心を侵し蝕む。
この身は、実の兄と妹が、ただ復讐だけを心に誓い交わって生まれた肉塊だった。
リブロの血と肉に宿った魂は、亡家の怨念の塊だろう。
人と呼ぶにはあまりに歪な復讐のための傀儡の人形。
それと知らずに育った子供は、どこにも存在しない母の愛を乞い求め、支配を受け入れ体ばかりが大人になった。
母に似た美しい顔、人形にふさわしいしなやかな肢体に、穢れた血筋の優れた魔力。
ライラヴァルは母の望んだとおり『魔滅の聖典』に選ばれ、歴代でも最強の使い手として名をはせた。
魔滅卿の名にふさわしく、彼の行く道には魔獣の血花が咲き誇り、去る道は魔石がきらめく星空のように散らばっている。
しかし彼の心のうちはいつも空虚で、持ち得る力に見合う志も信念もなく、ただすべてが疎ましかった。
嫌いなのだ。こんな己が。
汚らわしい血筋に宿ったくだらない人格。それを隠そうと外側ばかりを飾り立てる空虚な存在。
この世に神がいるならば、こんな存在をきっと許しはしないだろう。
そう感じていたからだろう。ライラヴァルはその身が魔に堕ちたことも、当然のことと受け入れた。
一体いつからだろうか、憎しみの感情が、ずっと胸中を占めていた。
復讐の道具として自分を生み、育てた母を憎んだ。
金と地位に群がって、こびてへつらう女を、立場と力をはき違え、他者を踏みつけにする男を憎んだ。
さんざん痛めつけられて、痛覚をなくした子供の奴隷。そんなものさえ金で買えるこの国を憎んだ。
魔人を悪と蔑んで、けれどその遺物がなければ生きていけない弱い人間たちを憎んだ。
魔人に喰われてきたのだと被害者面をするくせに、同じ人を食い物にしている。食料として喰らうか、金に換えるか。そこにどれほどの違いがあろう。
愚かで、醜く、疎ましい。
唾棄すべき存在だと、人という存在を憎く感じているというのに。
人の心を失いたくないと縋りつく、自分を何より憎んだ。
こんな自分であるけれど、もしも叶うのならば、人の心を持ったまま死にたいと、ライラヴァルは願う。
白い月は満ちては欠ける。
満ちていくのは月だけでなく、時は満ち、ライラヴァルの命運は、裏切りの白い月と共に欠けて消えてしまったのだろう。
この空間を支配する底知れない魔力を感じる。
伝承は真実だった。いかなる魔人をも亡き者としてきた『魔滅の聖典』の攻撃すらものともせずに、不死の魔王がついに甦ったのだ。
待ち焦がれた死が、今、ようやく訪れたのだと、ライラヴァルは直感した。
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