020.銀の棘
「ぐぅっ、はあっ、はあっ……」
浄罪の塔の最上階で苦痛の声を漏らしていたのは、魔滅卿ライラヴァルだった。
ヨルは全身から噴き出した血に染まり、立ち尽くしたままピクリともしない。
「おひいさま!」「おひいさま!」
「来るな! 部屋に入っていろ!」
尋常でないその様子に駆け寄ろうとした双子をライラヴァルは鋭く制し、魔力のこもった言葉で双子を奥の部屋へと閉じ込める。
――今、来られては耐えられない。
それを、彼は誰より理解している。
あまりの苦痛に耐えかねるように、ライラヴァルはガリっ、ガリっと爪を噛む。
痙攣するかのようなその噛みように、わずかばかり伸びていた爪は見る間にはがれ、割れた爪が指先の肉をちぎって赤い血が溢れ出す。
がりっがりっ、がじっ。
「ぐうぅっ」
そのまま指先を中ほどまでくわえ込むようにかじりつく。
肉を喰らうような咬合力に人差し指と中指は中ほどからの皮膚は裂け、骨がミシミシと音を立てる。
「あぁっ、はぁっ」
じゅ、じゅうっ。
ライラヴァルは溢れ出す自らの血をすする。
不味い血だ。腐り果てているようだ。けれど、まだ、人の血潮の味がする。
彼の血に混じる人の残滓は、僅かだがライラヴァルの心を落ち着かせた。
狂気から冷めた体を蝕んでいくのは、内側から削り喰らわれるような鋭い痛み。
痛い。痛い。痛い。
裂けた指の痛みなど気にならないほどに、全身が、痛い。
魔力を使い過ぎたからだ。
『魔滅の聖典』――。
聖ヘキサ教国に神器として伝わる6つの聖遺物。
魔獣の討伐、隣国とのいさかい。マグス全土に広がるヘキサ教の総本山は、信仰のみで大国足りうるわけではない。この国を大国たらしめているのは、絶大な威力を発揮する6つの神器に他ならない。
消費する魔力は膨大で、『魔滅の聖典』を単身で発動しうる者は歴代魔滅卿の中にほぼいなかった。本来は『箱』の補助によってようやく発動しうる魔導具だ。
魔人に変わりつつあることで、ライラヴァルの魔力ははるかに増しているけれど、その魔力のほとんどをごっそりと消費し、餓えた身体が贄をよこせと苛むのだ。
ライラヴァルは懐から小瓶を取り出し、その中身をあおる。こんな時のために持ち歩いている双子の血液だ。
「はっ、はっ、はあっ、ふぅ……」
ようやく落ち着いたライラヴァルは、血まみれでなおも崩れず立ち尽くすヨルを見る。
初めて対峙した時から、ヨルと名乗った男が自分より格上の魔人であると分かった。理由は分からない、本能と言うほかない。それは自分より長く魔人として存在しているということで、それでもなお正気を保っているヨルに、苦痛を理解し合えるかもしれないと、もしかしたら、この苦しみから救ってもらえるかもしれないと希望を抱いてしまった。
魔人化の苦しみから逃れ、正気を保つ方法は、たった一つだけ存在する。
それがあったからこそ、かつて魔人は人間をはるかに凌駕する文明を築けたのだ。
正気を失っていくのは恐ろしい。狂気に容易に蝕まれていく空虚な自分が恨めしい。知性は研ぎ澄まされていくのに、理性はどんどん瓦解していく。理性の欠片も失った先に、自分はどれほどの災厄をもたらすのだろうか――。
もう僅かしか残っていない理性を、正気を保てるならば、枢機卿と言う立場などかなぐり捨てたってかまわないと、ライラヴァルは本気で考えていた。だから「大切な人がいるか」と問うたのだけれど、つまらないはぐらかしをされてしまうとは。
しかもヨルは、「『魔滅の聖典』を返せ」と言ったのだ。つまり聖遺物を狙う異母兄弟の誰かに雇われた刺客なのだろう。ライラヴァルをスカウトしに来たわけではない。
(そもそもそんな都合のいい存在がいるはずないのよ。今をいつだと思っているの、聖暦839年よ? それに、あたしが今までどうやって生きてきたか。刺客だって歓迎しなくちゃ。もっとも、殺してくれるなら、だけど)
兄弟や義母の多くは枢機卿の座に就いた時に粛清したけれど、生き延びた者はまだいるし、いくら魔滅卿といえど親族を謂れなく殺すことはできない。そんな彼らは未だに刺客を送り込んでくるのだ。人の殺し屋は言うに及ばず、他国で雇われた魔人も珍しくないが、ヨルほどの手練れは初めてだった。
出し惜しみして勝てる相手ではない。だから、最初から全力で『魔滅の聖典』で葬った。
――葬れてしまった。
先ほど骨が砕けるほどに噛みしめた指先はすでに回復し、剥がれた爪も生えている。魔人化に伴う回復能力の向上は、ライラヴァルに死ぬことさえ許してはくれない。
「ヨ……ル……さ……ま……」
部屋にヨルの配下の子供――ルーティエの囁くような嘆きが響く。
ヨルたちの存在に気が付いたのは、これが原因だ。地下に捕らえた魔獣の一体を喰らい同化した時の異様な魔力変動で、ライラヴァルは侵入者に気が付いたのだ。
人間の子供のはずがない。けれどヨルを心配し、叫ぶ声はあまりに悲痛で、自分が死んだ時、これほど悲しんでくれる者がいるだろうかと、うらやましい気持ちにさえなる。
魔獣の牙や角、装飾の施された武器が飾られた壁面に、新たな装飾のように銀の針に打ち付けられたルーティエとヴォルフガング。
『魔滅の聖典』の攻撃を受け、ヨルの魔力が消えた瞬間、まず動いたのはヴォルフガングで、彼は壁面の装飾剣を2本手に取るや、細身の剣を槍のごとく投擲し、同時にもう1本を手に肉食獣のような瞬発力で飛び掛かってきた。投擲された剣を避けられたのは、魔滅卿として何度も魔獣と戦った経験ゆえの反射で、ほぼ同時に突っ込んできたヴォルフガングの剣戟を“守りの多重盾”で防げたのは魔人化による魔力増加と魔術の構築速度をはじめとする身体機能の向上ゆえだろう。それでも3枚同時に展開した“守りの多重盾”は2枚を抜かれ、あと1枚というところだった。
もしこのタイミングでルーティエが攻撃を仕掛けてきたなら、やられていたのはライラヴァルの方だった。けれど、ヨルが倒された事実を理解しきれないルーティエが攻撃よりもヨルに駆け寄ることを選んだおかげで勝敗は決したのだ。ライラヴァルは魔人化により強化された脚力でヴォルフガングを壁がひび割れるほどに蹴りつけ、同時に魔力を練り上げる。
「魔力の銀液 棘の針 穿ち蝕め 銀の棘」
宙に生じた数十本もの銀の棘は、針と呼ぶにはあまりに長く、壁に叩きつけられたヴォルフガングとヨルの元へ駆け寄ろうとするルーティエを、まるで標本にされた昆虫のように壁面に縫い付けた。
ヴォルフガングは蹴られた衝撃で意識を失ったようだが、ルーティエは、手首、足首、手足の付け根、そして腹の中心を銀の針で穿たれてなお、手足を引きちぎらん勢いで暴れてヨルの名を呼んでいた。
「ヨル様! ヨル様! 起きてください、ヨル様ぁ! ヨ……ル……さ……」
気も狂わんばかりに叫ぶルーティエ。その魔力に最初こそ警戒したライラヴァルだったが、この魔獣にも『銀の棘』は有効だったようだ。
この銀の棘は物理的に対象を拘束するだけではない。対象の魔力循環を乱し、生物ならばほぼすべての種が自然に行っている身体強化を打ち消す効果を持つ。強力な相手にはそもそも刺すことが難しく、ヴォルフガングの場合は壁面に叩きつけた瞬間に、ルーティエの場合はヨルに気を取られていたからこそ穿つことができたと言える。
初動の攻撃力こそ針のごとく脆弱だが、一度刺さってしまえば対象を蝕み相手の魔力を利用して拘束するため、隙さえつければ格上の魔獣であっても拘束可能だ。
樹木に変貌しつつあったミリィの肉体を無理やり再構築したばかりのルーティエは、肉体の機能の大半を魔力で補っていたのだろう、今は銀の棘によって声を出すのも難しいほどに衰弱している。
「ふぅ、これなら何とかなりそうね」
ライラヴァルは壁に新たに加わった二体の戦利品を眺める。
この魔獣なら、強力な『箱』になってくれるだろう。『魔人殺し』はしばらく地下で休養だ。今回の件でライラヴァルに敵意を抱いてくれたなら、もしもの時に役立ってくれるかもしれない。
「その前に、逃げ出したおバカさんたちを連れ戻さなくちゃ。本当に、面倒ばかり起こる日ねぇ」
ライラヴァルはオプタシオによる反乱を鎮圧すべく階下へと向かう。
声は努めて朗らかに、口角は上げて楽し気に。けれどその瞳は、赤い月と青い半月が照らす沼地のような紫で、一片の光もなく淀んでいた。
立ったまま彫像のように動かないヨルと壁に磔にされたヴォルフガングとルーティエ。
「ヨ……ル…………さ……」
3人の残された部屋には、ヨルの名を呼ぶルーティエの囁くような悲鳴が響いた。
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