004.ルーティエ
隣は応接室のような部屋で、なかなか座りごこちの良い椅子と机が置いてあった。さきほどの培養室もそうだったが、塵一つ積もっていないのは、ここの空気が無菌室のように調整されているからか、それともお掃除ロボット的な魔導具でもあるのか。
ソファーのスプリングもクッションも劣化しておらず、腰かけたヨルの体重をしっかりと受け止めてくれている。本当にはるか昔に放棄された施設とは思えない。
「ルーティエも座れ」
「はい、我が君」
スライムが座るとどうなるのだろうかと思ったら、香箱座りをしたにゃんこくらいのもっちり具合で丸くなっていた。床に。
「床じゃなくて、ここに。テーブルの上でもいいが」
「めめめ、滅相もない」
プルプルと震えるルーティエを持ち上げる。
スライムだから粘ついているのかと思ったが手触りはさらりとしているし、もっちりとした触感で思いのほか触りごこちがいい。お値段以上な量販店のもっちりしたクッションのようだ。重さは水袋並みだから、自重でヨルの指が沈み込んでいく感触がくせになりそうだ。
しばらく触感を楽しんだ後、目の前のテーブルの上に載せてみる。出会ったときに肉蟲の血を吸って赤黒かった体は、消化を終えて森を映す湖のような青緑色に変わっていたけれど、今は少し赤らんでいるようにも見える。ぴぴぴぴ、と小刻みに震えているし、緊張しているのだろうか。
「我が君……」
「その、我が君というの、やめようか」
「もっ、申し訳ございません。私みたいなスライムごときが……」
魔王とはそんなに偉かったろうか、と思いめぐらすと、玉座に座る自分の前に大勢の魔人がひざまずく映像が思い出された。
やっぱり、なんか超すごい感じだったみたいだ。大企業の入社式っぽいが入社式で新入社員は着席だ。ひざまずいてたら「アットホーム」なんて言葉で誤魔化しもしない真っ黒けのブラック企業だ。
そんなブラック社会なら魔人ですらないスライムがぷるっちゃうのも仕方ないのかもしれないが、今のヨルはそんなキャラではないし、何より『魔王』として生きるつもりがない。ずっと城を守ってきたルーティエにとって大切なのは『魔王』であって、ヨルではないのかもしれないが、だとしたらなおのこと、『魔王』の演技でだますような真似はしたくなかった。
「そうではない。……今の俺には記憶がないんだ」
「あ!!! あんな、劣悪な血液を使ったから……!?」
「違うと思うぞ。ノルドワイズに来る前、森で目覚めた時からだ」
目も鼻も口もない、もっちりとしたスライムは、ヨルの話をじっと聞いているようだ。この肉体は魔王シューデルバイツのものだけれど、入っているのは因だから別人だと言っていい。それを知ったら、このスライムは偽物だと怒るだろうか。
「俺は、お前の知る魔王とは別人なんだ」
そこまで言うと、ヨルはルーティエの様子を観察する。さきほどまでの震えは止まりひょこりと歪んでいて、今は何かを考えているように見える。
「あの、申し上げもよろしいでしょうか?」
「あぁ」
ルーティエがおずおずと声を上げた。発言を促すと、どこか不思議そうな様子で、ルーティエはこう述べた。
「記憶がなくても魔王様は魔王様です。私の中にある魔王様の魔晶石が、御身の魔力を間違えるはずはありません。どれほどお心変わりをなさろうと、魔王様なのですから、忠誠が変わろうはずはございません」
ずいぶん特殊なスライムだと思ったら、ルーティエはかつて魔王シューデルバイツから魔晶石を賜っていたらしい。だとすれば、今までの行動も腑に落ちるものだった。
普通なら、喜ばしいはずの忠誠の言葉。その言葉を聞いたヨルの胸中には、あきらめにも似た感情が去来していた。
(あぁ、そうだった……。魔晶石を与えた者は、絶対の忠誠を抱くんだった……)
魔晶石は魔力を生成し貯蔵するだけの物ではない。与えられた生命体を、その存在ごと支配するものだ。
魔王の前にひざまずく配下たちを思い出す。
彼らは皆、渇望にも似た強い想いで魔晶石を授けて欲しいと願った者たちだ。自分と言う存在を丸ごと対価に差し出せるほどの価値が、魔晶石には存在する。
彼らは魔王に力を与えられ、その力で苦痛と残酷な運命から解放されて命を繋ぎ、魔王のために生きていた。親を慕う子のように魔王を愛し、自らの手足が脳の指示をたがえぬように魔王を決して裏切らなかった。
魔王という絶対君主を頂点とする魔人たちの王国。それが魔王の国だった。
何もかもが思い通りになる国で、永劫の時を生きる。
それは、なんて孤独なことだったろう――。
「ルーティエ」
「はい、魔王様」
「俺は今、ヨルと名乗っているんだ。だからルーティエも俺をヨルと呼んでくれ」
「え……、あの、ですが、お名前など……」
目の前のスライムがプルプルと震えて、動揺が伝わってくる。魔王と配下は対等ではない。名を呼ぶなんて不敬は決して許されない。それは配下の魔人たちがいつしか定め、徹底されていったしきたりだった。
「ルーティエ、お前は俺が目覚めるまでの間、自分で考えて生きてきただろう? 俺と連れの人間が魔獣に襲われないように遠ざけたのも、ヴォルフを街まで送り届けたのも、俺を助けてくれたのも、お前が考えてやったことだ」
「は、はい」
「これからも、そうして自分で考えて生きていくんだ。俺の考えと違っても、自分の意見を言っていい。いや、俺がそうして欲しいんだ」
「あ、あの、魔王様……」
「ヨルだ」
ルーティエはひどく混乱しているようだ。それはそうだろう。自分の意見を持てというのも、『魔王』の命令で、『魔王』に従うべしという本能と矛盾するものなのだ。
それでもヨルはこのスライムに自分の意思を持ってほしかった。どうしてだろうか。
「ヨ……ヨル……さま」
「えらいぞ、ルーティエ」
森を映す湖を切り取ったような、美しい色のスライム。その色合いは、まるでルティア湖の水面のようだ。
そう思った時、ヨルの脳裏に一つの記憶が蘇った。
あれは、いつのことだったか……。
「……そうだ。確か変異種に……」
ふっと脳裏をよぎる景色にヨルはほんの少しだけ目を細める。
大陸が割れて北部一帯が隆起したようなノルドワイズの大断層。そこを流れ落ちる大瀑布の真ん中に、巨大な湖の真ん中にグリュンベルグ城はあった。
幅広の大瀑布の、滝つぼのただ中にいかにして城を建てたのか。
激しい濁流に何人の接近も許さないその城は、大瀑布の上下に分かれた構造をしていて、滝つぼ側に本城が、大水量の瀑布を割り開いて100メートルを超える断崖に階段が設けられ、滝の上の湖には浮遊庭園が築かれていた。
激しい濁流と凶悪な水魔に守られたグリュンベルグ城は難攻不落と名高くて、スライムなどという脆弱な守護魔獣を増やす必要などなかったけれど、ただの気まぐれか、悠久の時間に飽きての戯れだったのか、新種だと献上されたスライムに魔晶石と名前を与えたことがあった気がする。
「たしか、城を抱くルティア湖から名をとったのだった……」
荘厳なるルティアの大湖。
ノルドワイズ北部の河川はすべてここへと流れ込み、そしてここから南部の土地を潤していく。グリュンベルグ地方の水甕たるルティア湖は海のように広大だ。
その大水量は100メートルを超える大瀑布の落差で落ちてゆく。水面へと叩きつけられる衝撃で千切れ舞い散る水の飛沫は絶えることがなく、辺り一面は常に深い霧に閉ざされていた。
スライムを献上したのが誰だったのか、あの城に自分のほかに誰が住んでいたのか。そんなことは濃霧の向こう側のように思い出せないけれど、小さなスライムのことだけはぼんやりと思い出せた。
(……たぶん、あの頃のシューデルバイツにはどうでもいい事だったんだろうな。図書室に本が1冊増えたとか、花瓶に花を1本足したとか、それくらいの認識だったから、印象に残ってないんだ……)
ルーティエのことをなかなか思い出せなかったのは、単純にどうでもよくて忘れていたからのようだ。
末端のことまでいちいち覚えていられないだなんて、大企業の社長か会長か。
いや、大魔王様だったようだから、それ以上かもしれないが、心無い王などリーダーとしての資質を欠きすぎるんじゃないか。
ヨルからすると、とても薄情な魔王なのだけれど、自分のことを思い出してもらえたことに気付いたルーティエは感動しきりと言った様子で、輪郭がぼやけるほどにぷるぷるぷるぷる震えだした。
なんだかマッサージ器みたいだ。その状態で肩にへばりついて欲しい。
「あの頃も確かこれくらいの大きさだったな」
「はははははい! あのっ、本体はお勤めを果たせるくらいに大きくなりました!」
「ほう、どれくらいになった?」
「はい! 湖の魔獣たちを殺さないように薄くなっていますが、今では湖全体に広がりました! 分体も森中に分散して情報を収集しています」
(なにそれ、でかくなり過ぎじゃね?)
湖全体に広がるってなんだ。ルティア湖は海かと見紛うほどに広いのに。
どういうふうに“薄く広がって”いるのかわからないけれど、ドン引きするほどの大きさだろう。
もしかして湖に入り込んだ敵をそのまま喰うトラップか。そうやって、ルーティエはグリュンベルグ城を守ってきたのだろうか。
一体どれほどの時間を。もしや、たった、一匹で?
「ルーティエ、俺が死……滅んでいた間のことを教えてくれないか」
「はい! よ……ヨル様」
消えそうなくらい小さな声でヨルの名前を呼んだルーティエは、ひどくうれしそうな様子で魔王シューデルバイツが滅んでいた八百有余年のことを話し始めた。
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