002.魔王
絶望の叫びを聞いた。
つんざくようなその声に引き裂かれたのは己の心で、叫んでいたのもまた、消え失せたいと何もかもを捨て去って、それでも残ったほんの僅かな“己”の断片だった。
生を存在とするならば、死とは消滅なのだろう。
己を構成するすべて、肉体も記憶も精神も時間の果てに風化して、己に対する他者の認識さえも、記憶から過去の記録へと塗り替わる。
けれどその先にこそ、求める希望があったのだ。
だからすべてを捨て去った。
仲間も記憶も思いでさえも。
なのに、どうして――。
慟哭は止まない。
失った大切なものを取り戻せないまま、男は一人、失意の叫びをあげる。
あぁ、これは俺なのだ。
そう意識した時、因の意識は引き寄せられるように不滅なる肉体に宿った。
■□■
「ごほっ」
口腔を満たしていた液体を吐き出しながら、急速にクリアになる思考を意識する。
なんて不味い水だろう。少し鉄臭いのは製鉄所近くの海水だからだろうか。
(いや、違う。これは……)
濡れた口元をぬぐった手の甲には見覚えのある手袋。確かにあった濡れた感触は布地に呑まれたように消え失せて、さらりとした上質な布地の肌触りを伝えるばかりだ。
目を覚ました場所は先ほどまでいた夜の埠頭より真っ暗で、頭上に星もなければ工場の明かりも見えない。ただ、ぽたぽたとしまりの悪い蛇口のような音が近くから響いてくる。
「白き月の瞳」
この呪文が発動できた時点で、いや、この呪文を口にした時点で、ここがどこなのかヨルには察しがついていた。一度口にしただけのこんな呪文を、田口因はとっくに忘れてしまっていたのに。
暗黒を見通す呪文が、ヨルにここがどこかを教えてくれる。
(マジかー。まさか、戻ってくるとは……)
ヨルが目を覚ました場所は、異世界マグスで死んだ場所、廃坑の通風孔の底だった。
たしか、ヴォルフガングに心臓を刺され、ここへと落下したはずだ。あれほどの高さから落ちたのだから、この肉体は原型をとどめないほど破壊されたはずなのに。
ぽたぽた、ぽたぽた。
不快な水音が廃坑にこだまする。タンク室の方角からだ。
胡坐をかいて座る床面は、ヨルを中心にひび割れて落下の衝撃のすさまじさを伝えていた。錆色に汚れた床。ひび割れの隙間は染み込んだ赤黒い液体で濡れている。
これが、タンクの中身。
――肉蟲の、血液だ。
タンクの中に保存されていた肉蟲の血液をここへ流し込んだのだろう、タンク室に続く壁面の穴には、以前来た時にはなかったホースのようなものが幾本も垂れている。滴るだけの水音からタンクの中身はほとんど空だと思われた。
飲み干したのだ。何が? 何者が?
決まっている、この魔人の体がだ。肉片と化した状態から蘇るために。
この肉体が魔人であると理解した今ならわかる。最初にこの世界に来た時も、マンティコアの戦いで死んだ人間の血潮を糧として、ヨルはマグスで目覚めたのだ。
(ここは牧場で、食糧庫だったんだな)
最初に来た時は、意識しないようにしていたけれど、ここは人を喰わずに済むように作り上げた食料生産施設なのだ。食事という習慣が必要な若い魔人や魔獣には肉蟲の肉を、それすら失ってしまった魔人には血液を供給するための。
この場所を作り上げるために、どれだけの人間を犠牲にしてきたことだろう。そしてこの場所ができてから、どれだけの人間の命が助かったろう。
記憶の残渣が脳裏をかすめる。
だからこそ、肉蟲の女王蛾がアリシアたち人間を餌と定めて襲ってきた時、あれほどの苛立ちを覚えたのだと今のヨルには理解できた。幾千万の人間を助けるために幾万の人間を犠牲にして創られた肉蟲の女王蛾が、人間を餌にすることが腹立たしかったのだ。それほどの犠牲を覚悟して、女王蛾の誕生を願ったのは、きっとこの体の持ち主だったのだろうから。
ここの様子を見る限り、肉蟲を必要とする魔人はすでにいないのだろう。ドリスやアリシアが話した通り、魔人文明は過去の遺物で魔人は滅亡の淵にあるのかもしれない。ここの設備も長らく人手の入った様子はないし、肉蟲の血肉は劣化して口に残る味はひどいものだ。こんなものを栄華を極めた魔人が好んだはずはない。管理の行き届いていない証拠だ。この場所はかつてのプログラムに従って、肉蟲を繁殖させ、血肉を収穫しているに過ぎない。
しかし、生き残った者はいた。タンクを解放し、滅びの淵にいたヨルの肉体に肉蟲の血液を供給した何者かが。
“生き返らせるなど、余計なことを――”
生き返らせた事実に対してヨルの心中に湧き上がったのは絶望と怒りで、助けてくれた者の気配がするタンク室に向ける眼差しに殺気がこもる。
(いやいや、俺、何怒っちゃってんの? 助けてくれたんだろ? それに俺、もう一度来たいって考えてたじゃん)
いけない。肉体の持つ記憶に振り回されては。この肉体の持つ情報は過ぎ去った過去のもので、現在と未来は自分のものだ。主導権は渡せない。
「隠れていないで出てくるといい」
ヨルに声をかけられてタンク室に感じられる魔力がビクッと震え、しばし逡巡する様子の後、魔力の塊がこちらへと移動してくる。
「シュ……しゅ、主命により、御前に罷り越しました」
タンク室への穴の前、ひび割れた床の一部が盛り上がり、震えながら声を上げた。
「スライムか」
魔人の可能性は低いとは思っていたが、まさか人ですらないとは。
肉蟲の血液を吸収したのだろう、赤黒い色をした軟体の生物は、体をへこませ疑似的な発声器官を作って言葉を発した。
それにしても“罷り越す”だなんて、難しい言葉を使うスライムだ。
下等生物の代名詞のようなスライムは、本来言葉など解さない。にもかかわらず、これほど流ちょうに人語をしゃべるとなると、かなり特殊な個体だろう。
大きめのクッション位の体を縮こめ、ぷるぷる震える様子は愛らしくさえあるのだが、おそらくこいつはかなり強い。漏れる魔力の感じから狂乱熊や雷光鹿の比ではないことがわかる。それにこの魔力の感じ、どこかで覚えがあるのだが。
「お前、俺を森から見ていたか?」
ヨルがドリスとノルドワイズに来た時に感じた視線、アリシアと遺跡を目指して北の森を進む時に感じた魔力、そのどちらにもこのスライムは類似している。
ヨルに問われたスライムは、恐らく強大な存在だろうに床と平行になるほどぺしゃんこにひれ伏して、ぴるぴると震え始めた。ひれ伏しすぎて水溜まりみたいになっている。
「は、はい。我が君のお戻りを感知いたしましてより、控えておりました。あの時は複数の人間を伴なっておいででしたので、何か目的がおありかと魔獣を遠ざけるにとどめましたが、そののち再び戻られた際に、……あの、我が君の魔力が儚くなられて……。それで、いてもたってもいられず罷り越しました次第でございます」
やはり、血液タンクを開けてヨルを復活させたのはこのスライムで間違いないようだ。ヨルの死を感知して駆けつけてくれたのだろう。だとしたら、殺した相手はどうしたろうか。
「ヴォルフガング、……ともにいた人間はどうした?」
「人の街の方へ帰っていきました。我が君の魔力の残滓を感じましたので、何か目的がおありなのかとそのまま行かせましたが……。よろしかったでしょうか」
「あぁ、それでいい」
どうやら、ヴォルフガングは無事に森を抜けたらしい。ヨルを我が君と呼ぶスライムだ、「よくも害したな」と激高してヴォルフを殺さなくて本当によかった。
アリシアたちといた時に魔獣を遠ざけてくれたことと言い、知的で温和な奴なのかもしれない。
“ボク、わるいスライムじゃないよ”とか言わないだろうか。……言わないだろうな。なぜならこいつは……。
「お前、“蠢く湖”か」
今は水溜まりみたいだけれど、アリシアにはそう呼ばれていたはずだ。
「はい。我々は、人間にはそのように呼ばれているようです」
「我々?」
「我々は単一の意識をもったまま別れて活動しておりますので」
「ふむ。本体はどこに?」
「あの……。湖で……お城を、お守りしております……」
……城。城ときたか。
ヨルのことを我が君と呼び、城を守っている強力な魔獣。
ずっと気付かないようにしてきたが、真実がこんな地の底までも追いかけてくる。ここまで来て、この異世界転移がただの偶然などとは思わない。知るべき事実と、なすべき勤めがこの世界にあるから、この世界に呼び寄せられたと考えるのが無難だ。
あの火災現場で聞こえた「タスケテ」という声は、聴き間違いではなかったのだ。
そして今はヨルの方にも、この肉体は必要だ。過ごす時間か肉体への親和性か、それとも記憶を取り戻すことか。方法は未だ不明だけれど、日本に魔力を持ち帰られれば咲那を難病から救えるかもしれない。だからヨルは、このいかにも怪しげな仮初の肉体と向かい合おうと決意した。
「……俺は、何者だ?」
ヨルの問いをどのように受け止めたのだろう。
水溜まりのようにぺしゃんこになって震えながらも、スライムははっきりとした声でこう答えた。
「真に祖たる吸血の王、赤き月の愛し子にしてあまねく魔人たちの父。唯一にして無二なる不滅の君。
魔王シューデルバイツ・フォン・グリュンベルグ陛下。
悠久の眠りよりのご帰還、心よりお祝い申し上げます。不肖ルーティエ、ルティアの湖に抱かれし我が君の居城をずっとお守りし、お戻りをお待ちしておりました」
(……思ったより大物だったっな。……いや、そんな気はしてたけど)
識ってしまえば、なんてことはない。
この肉体がそういうものだと、記憶がそれを教えてくれる。
――死に見放されし古の魔王が一柱。
この体は、俺は、そういう者であったのだ。
人であった頃の名をヨルム。魔人に転じたのち人の名を捨てテルドアと名乗った。魔王となり得た名はシューデルバイツ。このグリュンベルグの地を統べる魔王として、この名はヨルム=テルドア・シューデルバイツ・フォン・グリュンベルグとなった。
しかし人であった頃の名を呼ぶものは僅かしかなく、魔王を名で呼ぶなど不敬であるとされていたから、魔王シューデルバイツあるいは、魔王シューデルバイツ・フォン・グリュンベルグと畏怖を込めて呼ばれていた。魔王の時代、知らぬ者無き最古の魔王の一柱である。
(ハァ、吸血の魔王、か。キャラじゃねー……。それにめっちゃ長くて舌噛みそうな名前だぜ)
吸血の魔王と言ってもいわゆるヴァンパイアとは仔細が異なる。栄養を血液から摂取するというだけで、日の光もニンニクも十字架も、およそ弱点らしきものがない。杭で心臓を貫かれたとしても、滅びることなどできないのだ。
己の名も特性も、記憶としてでなく記録としてヨルは思い出している。
魔王シューデルバイツは、己が“記憶”を“記録”、ただの情報へと塗り替えていったのだ。この肉体を滅ぼすための手段の一つとして。
目覚める前、確かに聞いた絶望の叫び。
――彼は、死を望んでいた。
しかし、魔王シューデルバイツは、この世界に蘇ってしまった。
死を望んだ理由も、蘇った理由も不明だが、彼の望みをかなえる方法、“不死の魔王を殺す方法”はこの世界に存在する。それは因にとっても切り札になるかもしれない。
「ふーっ」
ヨルは深く息を吐く。
幸いにも蘇った記憶はほんの断片で、アルバムをぱらぱらとめくって眺める程度のものだった。しかも記憶とともに当時の気持ちが蘇るといったことがない。意識的に思い出しても得られるのは感情の一切伴わない情報だけだった。
(思い出が蘇らないなんて、心がなかったわけじゃ……ないよな? どんなメンタリティーだったんだ?)
謎の多い魔王だが、田口因の精神性のままでいられるのはありがたい。多少影響は受けているのだろうが、少なくともヨル自身は自分を田口因だと認識している。厄介な魔人の体質も分かってしまえば対処のしようがあるだろう。
それよりも。
(人型の魔獣がいない国、ね……)
今となっては、この聖ヘキサ教国に人型の魔獣がいないという事実は看過できない。誰にかは知らないが、因は「タスケテ」と呼ばれてきたのだ。
(方針を決める前にまずはあそこで現状確認だよな……。とその前に、この廃坑からでないと。魔導昇降機、前回壊しちゃったんだよなー)
よみがえった知識と前回この世界で得た情報から当面の方針を打ち立てると、ヨルは重い腰を上げて立ち上がった。
「ルーティエだったか、ここから出たい。道を知らないか?」
「は、はい! 確か上の階の輸送具ルームに輸送獣の合成施設が生き残っていたかと。それを使いましょう」
ぽこりと水溜まり……じゃなくてスライムが起き上がって提案する。
「それは重畳」
前回来た時、探索せずに引き返した上階に、思わぬ便利施設が残っていたらしい。ヨルに呼ばれたルーティエは、嬉しそうに体をぷるんと膨らませ、上階へ続く階段へとヨルを案内していった。
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