001.車
2章です。挿絵は主にLeonardo.Ai、時々Midjourneyが混じります。
「咲那ちゃん、大したことなかったんでしょ? よかったじゃないスか」
「あ? あー、うん。そだな」
「タバコ吸っていいっスか」
「あ? あー、うん。……って、タバコ!? 駄目に決まってんじゃん。新車だぞ!」
心ここにあらずのヨルを見て、助手席に座る竜司が「聞いてんじゃん」と漏らす。
リュージは高校の後輩だ。今では先輩後輩というより気の合う友人といった間柄で、社会人になってからもこうして遊びに出かけたりする。入院中は見舞いにだって来てくれた。
因と咲那の見舞いだ。
異世界マグスから帰還したあの日、因にアイスを買いに行った咲那は、病院の前で交通事故に遭った。見た目こそ派手に出血したものの、幸いにも医者が驚くほどに大した怪我ではなかった。
――真っ先に駆け付けた因が、治療をしたからだ。
あの時、車のブレーキ音が鳴り終わるより早く、因は病室のベッドを飛び出し、裸足のまま咲那の元へと駆け付けていた。あの時の速さは世界記録など簡単に超えていたのではなかろうか。明らかに、因の身体能力を超えていた。
抱き上げた咲那はまだ暖かかったけれど、体からは見る間に生命力が失われていくように感じられた。だからとっさに因は唱えていたのだ。かつて異世界マグスでヴォルフガングに使った癒しの魔術、『命脈の息吹』を。すると、不自然な角度で曲がって垂れ下がっていた腕は、あるべき方向に戻り、頭部からは流れ続けた血が止まった。肉がえぐれるようだった脚の傷も肉が戻って皮がふさがりかけたのだ。
(完全に治らなかったのは、魔力が途中で切れたせいか……?)
あの時は、治りきらない傷に焦ったけれど、あれだけの出血でどこにも傷がないとなればあまりに不自然だ。その一点においてだけは、治癒魔術が途中で効果を失ったのは、幸運だったと考えるべきだろう。それでも出血量に対してあまりにも傷が浅いので、最初に担当してくれた若い医師はしきりに不思議がっていたが。
「咲那ちゃん、まだ検査入院なんスか?」
「うん……」
因はリュージの問いに返事を濁す。
ちゃんと精密検査もしたし、交通事故の怪我も後遺症も問題はない。
けれど咲那は未だ退院できない。あの事故がきっかけで、持病が再発してしまったのだ。
――クライネ・レビン症候群。
「眠れる森の美女症候群」とも呼ばれる過眠症の1つで、何も症状が出ない期間と、長時間眠ってしまう「過眠期」を繰り返す病だ。初めて症状が出たのは16歳の頃。部活の最中に、熱中症で倒れたことがきっかけだった。しかし、症状は数日で収まり、その後自然に回復したと因は聞かされていた。
(再発、なんだよな? 今度も数日で……もう少しすれば治まるよな……)
事故の後、一時は意識を取り戻した咲那だったが、勤務中に再び倒れ、それ以来入院を続けている。
(治療法は確立されてないって先生が……)
あの時。治癒魔術を発動した時に、途中で魔力が切れずに最後まで癒せていたならば、咲那のクライネ・レビン症候群さえ完治したのではなかろうか。
(咲那のところに駆けつけた時、間違いなく身体強化がかかってた。それに、治癒魔術。どうしてこの体で……)
あの後、眠る咲那に何度も治癒魔術を使ってみたが、一度も成功しなかった。
この世界には魔力なんて存在しない。だから魔術など使えなくて当然なのだが、一度でも使えたということは、目覚めたあの瞬間だけは魔力があったということだろう。異世界マグスでの記憶はしっかりと残っている。もしかしたら意識あるいは魂なんかに魔力が染みついていたのかもしれない。
(だとすれば、もう一度あの世界に行くことができれば……)
「もしもーし。ボンヤリしちゃってもー。オレ帰っていっスか?」
「すまん、リュージ」
リュージの声にようやく思考を停止する因。
今日は因の方からリュージを誘ってドライブに来たのだ。これ以上はいくら親しい後輩と言えど失礼に当たるだろう。咲那のことは心配だけれど、今の因にはほかにも心配事があり、それを相談するためにわざわざリュージを誘ったのだ。
「俺さ、箱、好きなんだよね」
「なんスか、突然。火事の煙、吸い過ぎたんスか?」
ハンドルを握る田口因の突然の告白に、なかなかに辛辣な返しをするリュージ。
そりゃそうだ。仕事帰りに「乗ってけよ」みたいなノリでドライブに誘われ、夜の港に連れてかれたのだ。それも、いい歳した男二人で。
「つか、男二人で夜の港でドライブとか、ヤバすぎっしょ」
「一周回って港湾管理関係の人に見えるから大丈夫だろ」
「港湾関係者ならもっと別の車乗るっしょ。バンとか、業務用っポイの」
「なんだよー、軽じゃだめなんかよ」
「そこじゃねーっつの」
バカなんですか? とリュージが視線で語りかける。
皆まで言うな。因が視線で返事する。
男二人のさもしいドライブにリュージが参加してくれたのは、他でもない、この新車のおかげである。
ちゃらんぽらんなリュージだって老後が不安な若者だから、「外車じゃないとダメ」だとか「ハイオクじゃなくてレギュラーで走る車は車じゃない」とか、「最低でも3ナンバー」だなんてバブリーな感覚は持っていない。
リュージがバックミラー越しに覗く後部座席には、普通の乗用車にはない棚やら冷蔵庫やらがついている。外から見ると、よくある軽自動車だがこの車、キャンピングカー仕様の軽キャンパーというやつなのだ。
「だからさ、俺、箱が好きなんだよ」
「……だいたい予想付くけど」
アパートの火事で、因は住み家と家財道具一式を失った。
とはいえ空き箱が好きで気にいった箱を何に使うでもなくため込んでいるという少しおかしな趣味をのぞけば、ヨルはこだわりが薄く、服も家電も無難で最低限あればいいというタイプだ。だから、入居時に強制的に入らされた火災保険のおかげで、失ったものより保険金の方がはるかに多かった。いわゆる焼け太りというやつだ。
「新しいアパート、駅から遠くて不便だろ? 金も入ったし通勤用に車を買いに行ったんだよ」
「どうせ買うならワンボックスとか考えたんでしょ。箱っぽいとか言って」
「おう。あたり。そしたらさー、隣でキャンピングカーの展示会やっててさ。そんなん、見るに決まってるじゃん?」
「アタリか。まぁ、キャンパーとかあったら見ちゃうんは同意するっスけどね」
“ワンボックスカー”なんて、名前からしてやばいじゃないか。箱好きとして、選ばざるを得ない車のボディースタイルだ。そのうえキャンピングカーときた。限られた室内を最大限に活用し、居住空間を詰め込んだ走る箱。あちこちに付いた小さい収納棚など、固定されて箱のようで、どこに何を入れようか考えるだけで心が躍る。キャンプの趣味がなくたって、ワクワクしないはずがない。
「考えてもみろよ、詰め込まれた工夫の数々と、どこにでも走って行ける解放感。自由を求める旅人の心を掴んで離さないのは仕方ないと思わないか?」
「いや、センパイ、旅人じゃないっしょ。むしろがっつり定住派っつーか」
「いやいやいや、俺らはみんな輪廻をめぐる旅人なんだぜ、リュージ」
「火事から生き延びたのに、また死にかける気か」
停止した車の中、話の論点だけが旅立つように離れていくが、とにかく因はうっかり立ち寄ったキャンピングカーの展示場で、“普段使いもできますよ”的なコンセプトの軽キャンパーに魅入られて、テンションが爆上がり、ついうっかり購入してしまったのだ。丁度在庫があるとかで、納車がめちゃめちゃ早かったのが運の尽きというやつだろう。
「このオプションパーツ、いくらしたんスか?」
「…………ボソッ」
「高っけ。そんだけ予算あったら他にいくらでもカッケー車買えるっしょ」
「うっせ、この車だってかっこいいだろが。ロマンはプライスレスなんだよ。越しの金は持つなってじっちゃんも言ってたし!」
「センパイの爺さん、江戸っ子か。この前、関西出身って言ってたっしょ!? つーかさ、この車見せるために俺呼び出したわけじゃないっしょ?」
どこまでも脱線し続ける因にリュージが引導を渡す。
「………………咲那になんて言おう?」
「知らんがな」
因が車を買おうと思い立ったのは、新しい住居が駅から遠いというのももちろんあるが、難病が再発した咲那を送り迎えしたいという思惑もあった。
「軽ならまだ許される……」
かっこいい車で送り迎えのビジョンは崩れてしまったが、咲那は軽自動車を恥ずかしがるような人ではない。実用的でいいじゃない、と言うだろう。これが、普通の軽自動車ならば。
「……値段は口が裂けても言えねー。当分は荷物でも積んで隠すか……」
「荷物って?」
「…………箱?」
アホなんですか? リュージの心の声が聞こえるようだ。
そうかもしれない。因のテレパシーは通じたろうか。
リュージは、はぁと珍しくため息をついて呆れたように口を開く。解決策を考えてくれようとしているのだろう。
「で、なんで夜の海なんスか?」
「いやさ、なんか夜の海ってよくない? この車でも悪くないなーって思えねぇ?」
どうやら因はデートコースの下見を兼ねてリュージをドライブに誘ったらしい。
「昭和か。よく見てくださいよ。夜の海なんて、大していいもんじゃないっしょ。しかもここ、工業区画にある岸壁だし。咲那ちゃん、工場フェチでしたっけ」
「ちがうな」
この辺りは埋め立てられた工業地域が海に向かって幾つも並ぶ狭い湾だから、まるで川の対岸のように海を挟んで工場の明かりが見える。波の音は静かで海というより河川のようだし、今は暗くて見えないだけで工場地帯の海なんてゴミだらけだ。対岸にある製鉄所の明かりだって写真で見るほどいい物ではない。開けた窓から入る風は、微かな潮の香りと工場地帯特有の汚れた空気の臭いがする。
こんな場所だ。コンクリートの岸壁にちらりほらりと止められた自家用車だって、夜景を見に来たのではなく、人気のない場所を求めてきたのだろう。言うまでもなくアダルティーな理由でだ。少なくとも咲那の好む場所ではない。
「咲那ちゃんとは人目を忍ぶって関係じゃないっしょ。アパート焼けたんだし、同棲はじめりゃよかったのに。なんで一緒に暮らさないんスか?」
「だって、咲那、空き箱とか捨てるもん。いらないでしょ? とか言って」
「スゲー、下らねー理由。お、あそこ、チューしてる」
リュージが差す方を見ると、3ナンバーの高級車の中で男女らしき人影が不自然に引っ付いていた。この岸壁は因の想像と違って残念な場所だったのに、高級車の二人だけは昭和のトレンディドラマみたいだ。
車か。やっぱり高級車だからか。
「ソーデスネー」
乾いた声をあげる因たちのそばを、一台の車が通り過ぎた。ヘッドライトに照らされて高級車の男女の姿を照らし出す。
「……おい、リュージ、見たか!?」
「バッチリ。あれって……」
こんな人気のない場所でイチャついていたのは、因が入院していた私立病院の医院長先生だった。そして、医院長先生のお相手は、すらりとした体形の女性。
医院長先生の奥さんではないと思う。
医院長先生は30代のスリムのイケメンで、金と名誉を兼ね備えた物静かな紳士だから、女性看護師たちにかなり人気だ。咲那の勤務先という気安さもあるのか、因と見舞いに来ていたリュージは、おしゃべりな看護師から医院長先生情報をたっぷりと聞かされていた。
“医院長先生は見合い結婚に違いない、何しろ奥さんの体形は不健康なほどデラックスだ。だから、夫婦仲は悪くて、子供だっていないのだ”と。
おそらくその看護師の心中では、“だから私にもチャンスがある”と続くのだろう。車内の女性はあの看護師ではなかったから、彼女にチャンスはなかったのだが。
「うわうわうわ……」
「その続き、最後の一文字を言うな、リュージ」
うきわ……じゃなくてうわ〇とか、プリンじゃなくてふり〇だとか。咲那は「え? 医院長先生は奥さんにぞっこんだよ?」と言っていたのに、わからないものだ。
「明日も仕事っス! 帰りましょう!」
「そうだな、帰ろう、すぐ帰ろう」
見てはいけないものを見てしまった因は大慌てでエンジンを掛ける。医院長先生には入院中良くしてもらったし、何より咲那の上司でもある。魔法で癒した怪我の状態を騒ぎにならないように取り計らってくれた人でもあるのだ。
今夜は何も見なかった。その方がいいに違いない。
毎夜夜道を走りまくってる走り屋よろしく、急発進して急ハンドルを切る因。
学生時代に免許を取って、長らくペーパードライバーだった彼に、そんなドラテクがあるはずもない。
ガガガチャリ。
シフトレバーが変なところに入ってしまった。
「うわわわわー!?」
「なんでバックしてんだ! センパイ!」
「車が勝手に!?」
「なわけあるかぁー!!」
どっぱーん。
あぁ、なんということだろう。
納車されたばかりの因の軽キャンパーは、こんな見事な展開はそうそうないというほどの軌道を描いて、夜の海へとダイブした。
「ガガガガボー!!!(俺の新車がー!)」
「ガボガボガボ(センパイ、お先っす)」
幸いリュージが開けていた窓から水が入って水圧差がなくなり、扉はすぐに開けることができた。岸壁に着いた時点でシートベルトを外していたリュージは扉を開けてさっさと脱出する。
「ガボガボガボ!(まて、シートベルトが!)」
しかし因のシートベルトは慌てているせいなのか、うまく外すことができない。
「ガボガボガボ……、ガボガボガボ……」
慌てて水を飲んでしまった因の意識と赤い新車は、まるで何か見えない手で引かれるように暗い夜の海の底へと急速に呑み込まれていった。
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