031.解放
「魔人め、よくも、よくも我が妻を、我が子らを!」
ヨルの心臓を貫いたヴォルフガングが吠えていた。
剣を繰り出した時にだろうか、フードが外れあらわになったヴォルフガングは鬼神のごとき形相で、瞬きもせずヨルを睨みつける双眸は怒りと狂気に燃えている。
その瞳に映っているのは、ヨルではない。
ヴォルフガングに何らかの暗示が掛けられているのは、隷属の首輪に触れた時になんとなく伝わってきた。おそらく彼は、妻子を奪った憎むべき魔人と相対しているのだ。
(アリシアめ、義眼の礼がこれだとは……)
教皇の目を魔王の遺物で治すというのは、やはりタブーだったのだろう。
口封じだと考えれば辻褄はあう。根の蛇に襲われる直前、ヴォルフガングがヨルに告げようとしたのも、気を付けろと忠告するためだったのだ。現にアリシアの様子がおかしくなったのは、ヨルが「これで教皇の目が治せる」と告げたあとだった。
だとしても、あれほど重ねた感謝の言葉が、すべて嘘偽りだったとは思いたくない。この世界に来てからのすべてが、まるで悪い夢のようだ。
けれど、胸を焼く灼熱感だけが、これが現実だと告げている。
「滅びろ、魔人め。よくも、よくも俺の家族を、……喰らってくれたな!!!」
悪夢のただなかにいるヴォルフガングの血を吐く叫び。
(あぁ、そうだ――。わかっていたんだ。魔人――、魔化した人が何を喰うのか)
答え合わせは始まっている。
(魔化した獣は人を喰うんだ。わからないはず、ないじゃないか――)
この体がエルフなどではないことくらい、最初から気が付いていた。
宿泊所で出されたスープ、『賑やかな鶏亭』のマス料理、とりどりの朝食に探索中の携帯食。
どれもほとんど食べていない。人の採る食事では、必要な栄養を補えないからだ。
味がわからない訳じゃない、腹が減らない訳でもない。魔力を消費するにつれ、この体は少しずつ餓えていた。
(果実のように瑞々しい匂いがして、おいしそうだと思ったじゃないか、ともに旅したアリシアのことを――)
なんて、おぞましい思考だろうか。
わかっていた、本当は知っていたのだ。この体が、自分が何者なのか。
この世界の始まりの場所、惨劇の森にどうして『赤』がなかったか。
累々と横たわる人間だったものの肉片から、どうして血液が消えていたのか。
(この体だ。この体……いや、俺が。俺が喰ったんだ。
何が「無垢な者」だ、何が「染まる前」だ。この体は真っ黒じゃないか。
この体は、俺は、魔人だ――)
でも、それでも。ヨルの記憶の最後の『箱』は未だ閉ざされている。
「ぐぐぐぐぅ……」
ヴォルフガングが獣のような唸り声をあげる。
(ははっ、心臓を貫かれても死なないどころか、痛みさえこの程度か……)
痛みというのは危険を伝える信号なのに、灼熱感さえ紛れてしまった。心臓を貫く金属の冷たさを感じるばかりで、もはや大した痛みは感じない。
心臓を壊されたって、この体には死が遠い。
アリシアがヴォルフガングに暗示をかけ、ヨルに何かさせるつもりなのは気付いていた。夜、宿を抜け出したヨルの後を追跡し、こんな場所まで来たのだ。この結末を予想していなかったわけではない。
それでも、ヨルがヴォルフガングを止めなかったのは、“魔人殺し”である彼のこの行動を予測してのことだった。
「通風孔へ落とせ」
静かにヨルがヴォルフに命じる。
心臓が癒える前に肉体がバラバラになったなら、今ならきっとまだ死ねる。
そうでなければ……。餓えて乾いたこの肉体は、ヴォルフガングを、目の前のごちそうを喰らってしまうに違いないのだ。
その思考は因のものなのか、それともヨルのものなのか、もはや判然としない。
「うおおおぉ!」
「ぐはっ」
ヨルの命令に従うように、己の復讐を果たすがごとく、ヴォルフガングはヨルの胸を貫いた剣をそのままグリっと180度ひねり、肩口に向けて切り上げた。恐るべき気合と腕力で、鋼のようなヨルのあばらを断ち切り、返す刃はヨルの首を狙う。
思いの他のダメージだ。刃が心臓をひねりつぶし、金属が骨を断ちつつ体内を動く。経験したことのない不快感と痛みに因の思考はぐらぐらと揺れ、久方ぶりの感覚にヨルの肉体は微かな高揚を覚えた。
「褒美を、とらす」
ヨルの右手がヴォルフガングの首輪に伸びる。
「オオオオォ!」
その手を攻撃だと判断したのか、それとも初めから相打ちせよと命じられていたのか、ヨルもろともに大蛇が開けた通風孔へ続く穴へと落とすためヴォルフガングが懐へと飛び込んでくる。
「悪いが、男と心中する趣味はない」
けれど二人が断崖へと着くよりはやく、ヨルの右手がヴォルフガングの隷属の首輪を掴んだ。
「ヨルムが命じる。この者をすべての軛より解放する! ヴォルフガング、国へ帰れ。汝の為すべきことをせよ!」
ヨルが隷属の首輪に触れた瞬間、大容量の魔力が脆弱な魔力回路に流れ、隷属の首輪に刻まれたすべての支配権を上書きする。
そして今、ヴォルフガングの意思さえ奪うほど強烈に掛けられた隷属の命令は解除され、彼の意思と共に新しい、そして最後の命令が下された。
パキリ。
次の瞬間、許容量を超えた魔力にヴォルフガングの隷属の首輪は壊れ、ヴォルフガングの瞳に正気が戻る。
「ヨ……ル……」
“国へ帰り、為すべきことをせよ――”
自由を取り戻したヴォルフガングが最初に手にしたものは、強制力のないただの言葉で、どこにでもいるようなありふれた人間が抱くような、善意からくる願いであった。
ヨルが思うに、ヴォルフガングはヨルが魔人だと気づいていた節がある。
出会ってすぐの探るような眼差しは、魔人の特徴を持つヨルの容姿を見てのことだろうし、廃坑の魔導昇降機で鉱線虫の巣を除いた時には、ヨルの規格外の魔力と魔術にその疑念は深まったに違いない。廃坑からの帰り道、終始無言でヨルを観察していたことも、そうであれば納得がいく。
けれど、ヴォルフガングはヨルに対して敵意や殺意を向けたりはしなかった。
ヨルがたとえ魔人であっても、彼の家族を喰らい殺した魔人と別人だと、短い付き合いの中で理解してくれたのだと思う。そして呪縛から解き放たれた今、血まみれの剣を握るヴォルフガングは、己が滅ぼそうとした憎き魔人が、ヨルであると正しく認識した。
正気に戻ったヴォルフガングは、左胸から肩口までを切り裂かれたヨルの姿に何を思っただろう。
彼の良心は己の過ちにひび割れたろうか。
けれど先にガラリと音を立てて崩れ落ちたのは、二人の男の重量に耐え切れなくなった通風孔に繋がる大穴、奈落の口の方だった。足元が崩れる音とともに、ヴォルフガングはヨルの最後の声を聞いた。
「行け。お前は自由だ」
――うまく笑えただろうか。
最後の言葉とともにヨルが考えたのはそんなことで、チートらしい肉体を得たのに、油断ばかりで大してうまく立ち回れなかった異世界で、最後位はカッコつけたいというつまらない見栄だった。
ヴォルフが娘に会えればいいと思う。そうすれば、因がこの世界に来たことにも、意味があったと思える。ドリスにミーニャ、アリシアは……まぁアレだが、皆なかなか気のいいやつだった。この世界では人と人とは本当に一期一会だ。一日二日共に過ごしただけのヨルのことなどすぐに忘れて、変わらぬ日々を過ごすだろう。心配などしていない。ただ、楽しかったと思えるのだ。
ひどく穏やかな表情で、とん、とヴォルフガングを押し戻すヨル。
押し戻されたヴォルフガングの表情は、驚愕とも絶望ともとれる表情に染まり、その瞳には真っ暗な地底へと堕ちていくヨルの姿が映っていた。
「ヨルーーーーーー!!!!!!!!!!」
ヴォルフガングの叫びが通風孔に木霊する。
貫かれた心臓からは、血と共にとめどなく魔力が流れ出るようだ。
饐えたような臭いがした魔獣の血液。その上位に立つ魔人であればさぞかし臭かろうと思っていたのに、ヨルの体から流れ出す血潮はひどく無機質な鉄の臭いで、もう、腐るものすら残っていないのかと、どこかおかしく感じられた。
重力に引かれるままに、落下していくヨルの体。
魔力は尽き、もう、指一本動かない。
遠くでヴォルフガングの声が聞こえる。
ヨル、と名前を呼んでいる。
けれどヨルの意識は落下と共に吹き付ける風に千切れていくように、保つことが難しい。
……ヨル、ヨル、ヨル、ヨル。
どんなに名前を呼ばれても、体は動かず視界はすでに真っ暗だ。
風圧に拘束される肉体。棺の中というものはこういう状況なのだろうか。
……ヨル、ヨル、ヨル、ヨル。
あぁ、でも、名前を呼ばれるたびに冷え切った体に少しずつ熱が戻っていくような気がする。
この感覚には覚えがある。暗く狭い空間で、けれどひどく穏やかな心持のまま誰かの声を聴いていた。
……ヨル、ヨル、ヨル、ヨル。
どうせ名を呼ばれるなら、おっさんじゃなくて若い女が良かったな、なんてくだらないことを考える。
そうだ。名前を呼ばれるのならば、彼女に呼ばれていたいと思う。
……ヨル、ヨル、ヨル、ヨル。
もう一度、彼女に名前を呼ばれたかった。
もうずっと、彼女に名前を呼ばれ続けた。
そんな矛盾した感情を自覚した時。
……ヨル、ヨル、よる、因!!!
『箱』が、開いたように感じた。
「因!! よかった……気が、付いた……」
「サラ……ナ……え? 咲那……!?」
ヨルは。
いや、田口因は、恋人の咲那が見守る中、病院のベッドの上で目を覚ました。
お読みいただきありがとうございます。
感想、評価、ブックマークを燃料に続きを書いていますので、応援よろしくお願いします。




