023.根の蛇
いつ自由の身になれるともわからぬ男に、家族の話をすることが正しいことなのか、ヨルにはわからなかった。
祖国に帰りたくないはずはない、家族に会いたくないはずはない。
けれど、そのどちらもいつ叶うとも知れぬのだ。
しかし、「娘がいる」と呟いたヴォルフガングの様子に、ヨルは“伝えたい想いがあるのだ”と、そんな風に感じた。
「ヴォルフの娘ならさぞやじゃじゃ馬だろうな」
「幸か不幸か妻に似た。美人でしとやかだが、……病弱だ」
ぽつりと答えるヴォルフガングにヨルは言葉を詰まらせる。
そんな娘を残して、負け戦に赴いたのか。
「ほかの家族は……」
その問いは、してはならないものだった。
「皆、魔人に殺された」
“サフィアの魔人殺し”――。『賑やかな鶏亭』の食堂で、ヴォルフガングはそう名乗っていたはずだ。
平民から将軍に。並みの運や努力で至れるものではない。
おそらくヴォルフガングが望んで歩んだ道ではないのだ。憎まずにはいられなかった、殺さずにはいられなかった。憤怒か悔恨か哀愁か、身を焼き尽くすような激情の命ずるままに剣を振り続け、彼はそこに行きついたのだ。
彼の手に残されたただ一つの大切な者、娘を残し、彼は戦に赴いた。
負け戦だと分かっていても、兵を率いて戦わざるを得なかった。もう二度と祖国の土は踏めないことを、娘との再会を望めぬことを分かった上で出陣したのだろう。
今、ヨルの対面で静かに酒を飲むヴォルフガングという男は。
そんな風にヨルには思えた。
「娘は病弱だが、婚約者がいてな。王都守護隊の副長を務める貴族の青年だ。はじめは、イケ好かん男だと思っていたのだがな。俺は平民の出で、この名も爵位も先代の陛下に賜った一代限りのものだが、かまわぬと、娘のことを任せてくれと、そう言ってくれた。だから、出陣前に婚約を認めた」
「そうか……」
ほかに何が言えただろう。
「もしも、もしもどこかで娘に、セレネに会ったなら、俺は死んだと伝えてほしい」
そんなことを言う、囚われの男に。
「生きて顔を見せてやれ」
なんとか返した言葉のなんと虚しく空っぽなことか。
ヨルは死にかけてこの世界に来たけれど、その理由は火災現場に自ら飛び込んだという間抜けなもので、命を懸けて戦った結果などではない。
平和な日本という国に生まれ、生命を脅かされるどころか、飢えることすら知らずに大人になった。苦労は人並み以上にしてきたし、社会人になってからは無茶な要求を呑むことだって幾度もあった。けれどそれさえも、ヴォルフガングの境遇を思えば、自らの判断で承諾したものではないか。
そんなヨルの言葉など、何の重みも価値もない。
そう分かってはいたけれど、ヨルは伝えずにはいられなかった。
「あきらめるな」
真っ直ぐにヴォルフガングの目を見て伝える。
きっと己の浅い言葉など、不純物にしかならなくて、重ねるほどに意味を失う。
だから、伝えたい想いだけを口にした。
この男を勇気づけたい。この男に負けないでほしい。それだけだ。
抗うことは苦痛を長引かせるだけかもしれない、これは甘い自分のエゴかもしれない。
けれど、ヴォルフガングという男の強さを、彼が報われる姿をヨルは見てみたかったのだ。
「この年で格好をつけるのは、いささか骨が折れるんだがな」
ヨルの瞳に何かを感じ取ったのか、ヴォルフガングはやれやれとばかりに左の眉をあげて答えてくれた。
「男はかっこつけてなんぼだろ?」
「違いない」
にやり。
ヴォルフガングの口元に笑みが浮かんだのはほんの一瞬だけで、ちらりと離れた場所で眠るアリシアに視線を向けた。
「サーベラントの魔晶石は義眼になると聞く。……知っているか? 現教皇は盲目らしい」
ヨルにだけ聞こえる小声で言い終わるより早く、かすかな振動が伝わってきた。
(地震? ……違う!)
しまったと思った時には、震源は魔術の届く射程まで迫ろうとしていた。
(これは……でかい)
巨大だが細長く、磔蝙蝠や装甲鼠など比較にもならないほどの強大な反応。
この廃坑の遥か深部に巣食っていたそれは、深部に無数に存在していた鉱線虫らしき数多の微弱な反応に紛れて、ヨルの感知を逃れていたのだ。
(ツブツブの気色悪さに足元の感知を切ったのがあだになったか!)
何たる不覚。さしたる障害もなく北の森を抜けて遺跡にたどり着いたから、気を抜き過ぎていた。
(この世界で目覚めた時の様子を忘れたのか! あの、死屍累々の惨状を!!)
廃坑の異常にヴォルフガングも気づいた様子で、剣を抜くと素早くアリシアたちを揺り起こす。こちらはお嬢様と駄猫だけれど、さすがはこちらの世界の住人だ、さっと背中を寄せ合って襲撃に対応できる態勢をとっている。
(まさか垂直に登ってくるとは……、どこにそんな竪穴が!?)
まるで間欠泉が吹き上がるように、急速に上昇してくる魔獣の反応。
この廃坑は魔獣が荷車を引いて移動できるように、折り返しのスロープで地下へ地下へと伸びているのだ。エレベーターのように垂直につながる穴などいったい……。
「通風孔か!?」
地下設備には必ずあるはずの、その存在にヨルが気付くのと、アリシアたちがいる壁が破壊されるのはほぼ同時だった。
体が地面から離れるほどに強烈な地響きと轟音。ガラガラと崩れ落ちてくる大量の瓦礫。
「守りの大盾!」
ヨルがとっさに張った魔力障壁が、アリシアたちめがけて落下する瓦礫をことごとく防いだおかげで、アリシアたちに怪我はなく、それ故に壁を破って現れたものの正体をはっきりと視認することができた。
「うにゃあっ! ……あにゃ? ……はにゃー!!! ドラゴンにゃー」
「いや、恐ろしく巨大だが、あれは蛇だ」
「まさか……根の蛇!? あんなサイズは聞いたことが……」
ミーニャがドラゴンと誤解したのも無理はない。
崩れた壁面から現れた大蛇の顎はあまりにも巨大で、アリシアたちなど一口に飲み干せてしまいそうだ。
真っ白な体と対照的な血濡れたような口には尖った牙が幾重にも生えている。大樹の洞や洞窟などに生息するこの蛇は毒こそ無いが、出会った動物の端から噛みつき強靭な顎とくさびのような牙で骨をたたき折り砕いて、丸呑みにする貪欲な魔獣だ。出会ったものは人も魔獣も容赦なく地の底に引きずり込まれると言われるこの蛇は、“根の使い”と呼ばれ恐れられている。
大型の個体が多く報告されているけれど、胴径がゆうに3メートルを超えるような巨大な根の蛇など、アリシアは聞いたことがなかった。長さとなると、想像もつかない。
「シャアァッ」
ヨルやヴォルフガングが攻撃するよりも早く、大蛇の顎がとらえたのは、アリシアが設置した魔獣除けの魔導具だった。
(そうか、通風孔に反響した振動を拾って攻撃しに来たのか……)
蛇は振動で音を拾うと聞く。
この魔導具が出す魔獣除けの音は、ヨルの耳に不快に聞こえるほどこの廃坑に響いていた。おそらく、通風孔に反響しながら大蛇のところまで届いたのだろう。
大蛇は目が悪いのか攻撃は像の上部をかすっただけだったけれど、台座の上で祈りをささげる乙女の像はバラバラに砕けて『箱』である台座だけが瓦礫とともに廃坑の奥へと転がっていった。
魔導具の異音が止んだくらいで大蛇の攻撃が止まるはずはなく、そのまま首をねじるようにアリシアとミーニャめがけて大蛇の顎が迫りくる。
「火球!」
大蛇の牙がアリシアたちに届くより早く、ヨルの火球が同時に幾つも大蛇の開かれた口内へと打ち込まれ、巨大な蛇を内側から焼く。
それがただの火球であったなら、大蛇の口内で掻き消され、根の蛇は直ちに次の攻撃を繰り出しただろう。けれどヨルの放った火球は、魔力の凝集体。“魔力を熱に変換する”。それだけの反応を定められた大量の魔力は、大蛇の口内に酸素があろうとなかろうと、ただ凶悪な熱量で根の蛇の体内を口腔から腹、腹から尾へと、焼き尽くしながら進んでいった。
「ジャアアアアアァッ」
のけぞり叫ぶ大蛇の口からもうもうと煙が立ち上る。
ゴゴゴ、ガガガガ、と根の蛇が床へ壁面へと体を打ち付けながらのたうち、ヨルたちの足元が激しく揺れる。ヨルたちの前にさらされた頭部は体のほんの一部で、通風孔の中に潜った本体が熱に焼かれて痙攣しているのだ。
身の内を焼かれる苦しみからなのか、それともそんなものはすでになく、単に焼かれた肉が引きつっているのか、大蛇の限界を超えた暴れようにヨルたちのいる坑道は見る間にひび割れ、激しい揺れにアリシアとミーニャは立つこともできない。
「止めだ!」
そんな状況を打破すべく、ヴォルフガングが大地を蹴る。
抜き放たれた一刀は、不規則に暴れる大蛇の頭部を見事にとらえ、その眉間に深々と突き刺さった。
「ジャッ、ジャッ、ッ、ッ……」
ヴォルフガングの一撃に完全に絶命した大蛇はビクビクと痙攣をつづけながらも、ズズンと坑道の床へとその鎌首を横たえた。
「ヴォルフ、助かった」
ヴォルフガングに礼を言うヨル。
ヨルの火球は一撃で大蛇に致命傷を負わせたけれど、絶命させるに至らずに、いたずらに苦しめ暴れさせてしまった。ヴォルフガングが大蛇に止めを刺してくれたおかげで、事態は早急に片付いた。
「いや、俺は寝かしつけただけだ。これだけの大蛇を一撃で内側から焼き尽くすとは……」
ヴォルフガングは根の蛇の頭上に立ったまま、眉間に刺した剣を抜く。
「ただの火球で、このサイズの根の蛇を倒すなんて、ヨル、貴方は……」
恐る恐ると言った様子で大蛇の死骸へと歩み寄るアリシア。ミーニャもびっくりしたようすで「うなー」と間抜けな声をあげている。
その時。
「キャアァッ」
「うなっ」
通風孔に下がった長い尾の重さに引きずられ、大蛇が通風孔へとずり落ちる。それに巻き込まれるように、亀裂が走り脆くなっていた周囲の壁、あろうことか床まで崩れて、大蛇もろとも底の見えない通風孔へと呑み込まれていく。
大蛇の頭上に乗っていたヴォルフガングも、大蛇のそばに近寄っていたアリシアたちも、そしてヨルとて例外ではない。足場を失ってしまっては、もはや重力に導かれるまま、奈落の底へと落ちていくだけだ。
「アリシア、ミーニャ! 手を!」
アリシアたちを掴もうと手を伸ばすけれど、底の見えない真っ暗な縦穴を落下する恐怖に気を失ったのかアリシアからは何の反応もなく、アリシアの服に爪を立てて引っ付いているミーニャのほうはパニックになったのか「ニャアァァァァァ」と引きつるように鳴いている。
大蛇と共にいるヴォルフガングはさらに下方を落下中だ。
(まずい……。このままでは)
大蛇の死体が先頭を切って空気を切り裂くように落下するから、その陰にいるヨルたちは風の抵抗で速度が緩和されることもない。重力に引かれるままに、落下速度はどんどん増して意識さえ飛びそうだ。
「ミーニャ、俺に手をのばせぇ!」
ヨルの必死の叫びが届いたのか、それともアリシアを掴んだまま硬直したミーニャの『落下する猫のポーズ』が空気を掴んで若干速度が緩んだためか、ヨルが必死に伸ばしたその手は何とかミーニャのしっぽをつかまえた。




