015.結界の異変 *
雷光鹿の現れたノルドワイズの東側は、幸い魔獣の侵攻も少なくて、ヨルたちは見つかることなく北の森のほとりを進んだ。
広大な麦畑は北の森に近づくにつれただの草地に変わり、東に続く街道に変わる。使われている跡があるから、ノルドワイズの東にあるという『浄罪の塔』とやらに行く道かもしれない。昨日、宿泊所で出会った子供たちの目的地だ。
道に向かって侵食してくる木々の合間にぽつぽつと塚のようなものが並んでいる。非常に古いものではあるが、周囲の草は刈り取られ人の手が入っている。
これが人と魔獣の住み処を分ける境界、結界だ。
街道沿いの宿泊所にあったようなちゃちなものではない。あれは魔獣の嫌う音波を放つ物で、狂乱熊程度なら効果はあるが、グリュンベルグの森の魔獣を遠ざけるには至らない。
「なー……」
塚に近づくミーニャの動きが見てわかるほど緩慢になる。この塚の並んだ境界付近は、極端に魔素が薄いのだ。魔力核を持たない獣人は途端に魔力不足に陥り、身体強化のできないただのにゃん子になり果てる。いや、元からただのにゃん子だったか。
これが塚の効果。魔素を吸収することで魔素の希薄な空間を作る。塚は古い時代に作られた非常に高度な魔導具だ。強力な魔獣ほど、生存に多くの魔素を必要とするから、本能的に塚の周囲には近づかない。
「あそこか」
しかしそんな結界の途中に、一か所だけ魔素濃度の濃い塚があった。結界の魔導具を稼働させる魔力が切れかけているのだろう。
「うなっ!?」
近づくミーニャがおかしなポーズを取り始めた。
「かいかいにゃー。ふにゃふにゃするにゃー」
前足をついてグネグネと体を掻き始めるミーニャ。虫でも付いたのだろうか。
(この世界の猫も液状化するんだなー)
などとのんきなことを考えている隙に、ミーニャはヨルの脚に体を擦り付け始める。ヤメロ、虫が移るじゃないか。
「おい。……ん?」
どさくさ紛れにこの駄ネコは、と叱ろうかと思ったヨルは、ミーニャの毛皮に取りついたゴマ粒のような虫に目をやる。
「魔ダニじゃないか。なんでこんなところに」
この体の脳内辞典によると、魔ダニとはその名のごとく魔力を餌にするダニで、温かい地域に生息する害虫のはずだ。夏はともかくノルドワイズの冬を越せる種ではない。輸送隊の荷物か何か、浄罪の塔へ続く道なら、昨日宿泊所であったヘキサ教の子供たちの馬車にでもくっついてきたのだろうか。
(雷光鹿の動きがおかしかったが、こいつにやられたのかもな)
通常であれば、魔力による身体強化の一環で一種のバリア機能が働いているから、ミーニャのようなチョロにゃん子でさえ魔ダニにやられたりしない。人間だって丈夫な者なら茂みに入っても蚊に刺されないし、ノミやらダニといった害虫が衣服につくこともない。
魔ダニは魔石などにたかって増えるだけの、生き物には害の少ない虫なのだ。普段であれば雷光鹿どころかミーニャの毛皮に取りつくこともできないだろうが、ここは結界で魔素が極端に薄くなっている。魔力生成が乱れたタイミングで取りつかれたのなら、雷光鹿に取りつくこともありうるだろう。
とりあえず、駄ネコの尻尾をそっとつまんで魔力を少し流してやると、ミーニャはプルプルっと体をゆすって魔ダニを払う。
「にゃあ」
今度は引っかかれなかったが、魔ダニをヨルに擦り付けてきたことは、なかったことにするようだ。
「何事もなかったフリすんな」
「にゃ、バッタにゃー」
お得意のごまかしだ。悪いことをした時ほどカワイイ顔をするのはなんでだ。
「捕まえたにゃ」
「見せんでいい……って、あー、ミーニャ、そのまま、な」
鯉くらいありそうなでっかいバッタの魔獣を両手で掲げて見せてくるミーニャにヨルはステイを言い渡す。
うまくバッタを仕留めたミーニャはドヤ顔だ。バッタが米粒みたいなちっこい魔石に変わっても、ご機嫌ぶりは変わらずに、ほめてほめてとしっぽも髭もピンピンに立てている。ご機嫌すぎて背後の森に、にゃん子を餌に定めた牙岩猪がいることにも気づいていないようだ。
ドッドッドッド。
「ふぎゃ」
背後から近づく地響きに驚き飛び跳ね、近くの木に登るにゃん子。ヨルの「ステイ」は聞いてもらえなかったが、あらぬ方向に逃げ出さなくて助かった。
牙岩猪は先のノルドワイズ攻防戦にも混じっていたが、さすがは北の森というべきか、このイノシシもトラックサイズだ。それが3匹。木々も生き物も、人間以外はサイズ感が全部おかしい。まるで夜中の高速道路に三輪車で迷い込んだ気分だ。
牙岩猪は名前の通り岩のように巨大で硬い毛皮を持つ猪だ。成獣になると左右2本ずつ大小の牙が生える。下の小牙は土を掘り返したり、獲物の肉を引き裂くのに使い、上の大牙は曲線を描いて生えていて、顎を引いて突進した時に敵に突き刺す武器になる。北の森に棲むだけあって、特に背側の毛皮は岩を超えて鉄の質感だ。
鉄板のように硬い毛皮に包まれた重量物が牙を突き立てて突進してくる、とんだ暴走魔獣だ。
「ヨルもにょぼ、にょぼるんにゃ!」
木に登れと言っているのだろうが、慌てるミーニャは噛み噛みだ。
(血花爆砕でもいけるが、木にでもぶつかられると目立つしな。あれ、グロいし。
コイツの毛皮、見えてるとこは硬いけど、腹んとこは柔らかいんだっけ。
だったらなんか、もっとこう、地味でフツ―な感じの魔術、例えば土とか石とかで……。あ、石の槍みたいなの、あった気が……)
今度こそ普通っぽい魔術を思い出した気がする。
そう思ったヨルは突進してくる牙岩猪に視線を向けると、頭に浮かんだ呪文を唱えた。
「栄えよ、石の祖。散りし砂塵よ晶かたる理に従え。石の槍」
詠唱と共に、魔力を込めてトンと軽く地面を踏みしめるヨル。
それを合図とばかりに大地からザザザザザッと大量の槍が、突進してくる牙岩猪を迎えるように下から斜めに生じた。
「プギイィィィイイイイィィッ」
「ふにゃっ!?」
「………………」
ヨルの詠唱によって生じたのは、あたり一面の槍衾。
映画やらマンガやら絵画やらで一度は目にしたことがあるだろう、長い槍が針山のように生えている光景だ。
首を斜め、石槍と並行にかしげてみれば、森が瞬時に竹林に変わったようだともいえる。
先端が鋭利に尖った石槍に、牙岩猪の突進さえも貫入の力に変わり、3体の牙岩猪は柔らかな腹を何本もの槍で貫かれ悲鳴を上げた。
牙岩猪の4本の脚が宙を掻く。石槍の成長は牙岩猪の突進を止め、その体を持ち上げても止まらない。
やはり背側の表皮は固いのだろう。腹から刺さった石槍がみちみち、ぶちりと音を立て、背側の皮を持ち上げる。けたたましく叫ぶ牙岩猪と、石槍を伝って見る間に形成されていく血だまり。
牙岩猪をまるで尖った表皮を持つ爬虫類のような形に変貌させながら、1メートルほど持ち上げたあと、石槍の成長はようやく停止した。
(土属性は地味だと思ったのに……。これもグロいや)
まるで見世物のように牙岩猪を持ち上げた石槍は、滴る血潮が月光に照らされ、てらてらと光っていた。
(まぁ、魔石は手に入った)
それも三つ。この牙岩猪の毛皮は動物なのに苔むしている。きっと齢を重ねた個体だろうから、牙や皮も残すかもしれない。
(そういや、鞄があればミーニャが持ち運べるんだっけ)
牙岩猪の下には新鮮な血だまり。材料もちょうどあるではないか。
「ミーニャ、どんな鞄が欲しい?」
「にゃ? おてて空くやつがいいにゃ」
それならリュックがいいだろう。幼稚園児が背負ってるようなシンプルなやつ。ランドセルも丈夫でいいかもしれない。
牙岩猪が死んで安心したのか、ミーニャが木から降りてきた。両手両足の爪を使って、ズルズルと樹をずり降りてくるミーニャは葉っぱだらけだ。牙岩猪は丈夫な魔獣だから、その血で作ればミーニャが狭いところをすり抜けてこすりまわっても、破れたりはしなさそうだ。ミーニャと牙岩猪を交互に見ながら、ヨルはこの世界で初めて使った魔術を詠唱する。
「《血鮮布、その背を包め》」
「うななっ!?」
血だまりから黒い煙が立ち上がり、背中に集まってくる様子に驚いたミーニャがヨルの足元に駆け寄ってくる。
「似合ってるぞ」
「にゃ?」
ランドセルのイメージが混じったせいか、ミーニャの背にはペロンとめくるタイプのリュックが背負われていた。リュックを背負ったにゃん子。なかなかに可愛らしいではないか。この世界で使った魔術の中でも、これが一番いい仕事かもしれない。
ヨルの反応に気を良くしたのか、ミーニャもまんざらではない様子で、リュックを開けたり閉めたり使い心地を確認している。単純だ。ヨルも今気が付いたのだが、血鮮布で作った物は血液とは異なる物質に変化しているようで、体から離しても消えてしまったりはしないらしい。
「魔石入れるにゃ」
ちょうど崩れて消えた牙岩猪の魔石をヨルに渡し、ミーニャはヨルに背中を向ける。
リュックに魔石を入れてやると、リュックの中で、ザリ、と猫に手を舐められたような感覚がした。これで、ヨルの魔力を記憶したのだろう。ミーニャがこのリュックを手放さない限り、ヨルとミーニャだけが出し入れできるマジックバックになったわけだ。
「にゃー」
ミーニャは満足げに鳴くと、落ちている牙岩猪の牙や毛皮をぽいぽいと背中のリュックに放り込んでいく。背負ったままで随分と器用だ。
「その魔石は持ってきてくれ」
塚に入れるのだ。そうすれば、結界は復活するだろう。
石材で作られた高さ2メートルほどの塚。その根元には扉がついている。ここに魔力源――、ドリスが言うには『箱』を納めるのだろう。確かに扉の向こうからは非常に弱弱しい魔力が感じられる。
(さっさと片付けて帰ろう)
ヨルは扉の取っ手に手をかける。
(それにしても、どうしてここだけ……?)
この塚はノルドワイズの生命線だ。北のどう猛な魔獣を寄せ付けない結界は、あの城壁よりも重要だろう。点検を怠るなど、考え難い。
――もしもこの時、付近にいた魔力を喰うダニ、その存在を思い出していれば、その悲劇は避けられたかもしれない。
キィ。
軽い音を立てて開いた扉。そして中に入っていたのは――。
「に゛ゃーーーーー!!!」
(ぎゃーーーーーー!!!)
うじゃぁ。
うごめく砂粒のような虫が、蜘蛛の子を散らすようにあふれ出した。
「…………!!! 《燃えろ》!」
ゴオゥ!
ヨルが思わず叫んだ瞬間、天を焼くほどの火柱が上がり、中に入り込んでいた魔ダニを塚をつつんだ。
(…………ビビビ、ビビッったー!!!)
扉の中、『箱』や魔石を入れる場所にびっしりとつまっていた砂粒サイズのダニの集団。それがうじゃあとあふれ出す様子。夜目が利くおかげで、ばっちりしっかり見てしまった。あれは、ヤバイ。この世界に来て一番気持ちが悪かった。なんだか、ちょっと泣きそうだ。
(魔石とかにたかって増えるんだったな……)
今更思い出してももう遅い。扉の中に入っていた『箱』は壊れてしまったようで、弱弱しい魔力さえ感じられなくなってしまった。
(ま、まぁ、元から魔石入れるつもりだったし)
結界の魔導具の動力だけあって、なかなか大きい『箱』だ。一辺50センチくらいある。
牙岩猪の魔石で動くだろうか、そもそも先ほどの炎で魔道具自体が壊れていないかと心配したが、幸い牙岩猪の魔石を二つ入れるとたちどころに周囲の魔素は薄まっていき、結界は復活した。
(塚が壊れてなくてよかったー! 俺のメンタルは全然無事じゃないけど……)
「……なー……」
ミーニャもよほど驚いたのだろう。ヨルの左脚にしがみついて後ろ足であちこちをかいかいと掻いている。
(ダニは、全部焼いたはずなんだけど……)
ヨルの方も、なんだか体がかゆい気がしてきた。
「戻るぞ」
「……なー……」
こんな場所、さっさと戻るに越したことはない。
ヨルはしがみついたまま離れてくれないミーニャを左足にくっつけたまま、急いでノルドワイズに戻っていった。
ミーニャ画像、毎回これくらい二本足で歩いてくれれば助かるんですが……。