011.狂乱の月 *
「乾杯!」
ガシャーン。
「かんぱーい!」
ガシャシャーン。
『賑やかな鶏亭』は、その名の通りかなり騒がしい宿だった。
夕闇に紛れて、と言えば聞こえがいいが、うっかり狂乱熊の左腕を消し炭にしてしまったヨルは、あの場にとどまるよりはマシだろうと、束の間の日常系異世界生活を送るためこそこそと宿まで撤退したのだ。
ドリスとは『賑やかな鶏亭』ですぐに再会することができた。夕刻の戦闘に参加したハンターたちだろう、1階の食堂は満員だ。ドリスが部屋と座席を押さえてくれていなければ、ヨルはあぶれていたかもしれない。乾杯の音頭とともにそこここで木製のジョッキを打ち鳴らす音がする。小さな樽のようなジョッキは分厚くて飲みにくいが、酔っぱらいが打ち付けあってもびくともしない。
杯を合わせるたびに酒がこぼれ、行儀が良いとは言えない作法で食い散らかされた料理のカスが飛び散ってテーブルも床も汚いし、冒険帰りの連中が風呂も入らず集まっているから、泥やら汗やらの匂いが厨房から漂う料理に混じって、闇鍋みたいな臭いがする。
「ヨル、ボクらも。ヨルの生還に乾杯!」
「大げさだ。ドリスとの再会に乾杯」
「それこそ大げさだよー」
コン、と控えめな音を立て、ぶどう酒と果実水のジョッキが合わさる。
周りの連中が飲んでいるのはビールのようだ。この世界でも「とりあえず生」の文化はあるようだが、明らかにぬるそうなのでなんとなくぶどう酒を注文したら、ジョッキになみなみと注がれてやってきた。ぶどう酒ってワインじゃないのか。恐ろしく情緒がない。
「ギルドで掲示板を見ていたが、いい依頼はあったか?」
「ノルドワイズはやっぱり魔獣の捕獲依頼が多くて報酬もいいね」
「魔獣の捕獲? 討伐ではなく?」
「そうだよ、魔獣を倒して苦しみから解放するのは力ある者の使命だけど、捕獲して浄化してあげれば真の救済がもたらされるじゃない」
当然でしょ? と言いたげな表情でドリスが答える。
解放だとか救済だとか、ヘキサ教とやらの教えだろうか。当然といった様子で話されると質問しづらいが、魔獣は倒すと魔石になり、魔石はギルドで買い取ってもらえるから、わざわざ依頼として募集されないのかもしれない。
「あとは、今は狂乱の月だからね、報酬は安いけど、夜間の城壁の防衛関連が多かったよ。ヨルもさっき参加してきたんでしょ?」
ちらと窓から夜空を見上げてドリスは答える。
明るい夜だ。見上げた空には、赤と白の二つの満月が溢れるほどの月光を振りまいている。
白い月は『移ろい月』、赤い月は『狂い月』。今は新月で視えていない青い月は『静かの月』と呼ばれている。
『静かの月』は20日、『移ろい月』は30日、『狂い月』は1年かけて満ち欠けを繰り返す。
月の光とともに降り注ぐ魔素は、この世界、マグスのあらゆる生命の中で魔力に変換され、恵みをもたらす。けれど強すぎる恵みは魔獣を狂わせ、その影響が最も強くなる赤い月が満ちる夜には、月に酔い力に溺れた哀れな魔獣が血肉を求めて狂うのだ。
いや、魔獣は魔獣となった時点で、とうに狂っているのだけれど。
知らないはずのそんな知識をぼんやりと思い出す。
「あの辺の飲んでない人たちは、この後、参加するのかもね」
あまりに皆やかましいから全員酔っ払いかと思いきや、よく見れば腹ごしらえだけの一団もいる。次の交代時間で参戦するのかもしれない。今もまだ、魔獣相手に戦っている兵士がいるなど思いもよらない平穏な光景だ。
月の光が満ちる夜ほど魔獣の動きは活発化する。魔力を蓄えた魔獣たちの勢いには複雑な周期性があって、赤い『狂い月』が満ちる期間が最も激しい。ゆえにこの時期を『狂乱の月』と呼ぶ。
この辺りで最も魔獣が集まるノルドワイズには、この時期、魔獣討伐を生業とする狩人たちも集まってくる。比較的安全な城壁の上から攻撃できる防衛の仕事は割のいい仕事なのだろう。この街からすれば、狂乱の月は魔石の収穫期でもある。魔獣をおびき寄せる餌は、もちろんここの住人だ。
混沌としたこの店の臭いは、この街のありようを煮詰めたようでもある。
「お待ちどう!」
赤毛の恰幅の良い女将が料理を運んできた。
今日のおすすめ料理でマスと野菜の香草焼きらしい。お盆サイズの大皿にはマスってこんなデカかったっけ? というサイズの魚がはみ出して乗っかっている。さらにマッシュポテトがどかんと盛られ、ナス、トマト、パプリカ、キノコなどを油で煮込んだような付け合わせが盛り付けてある。
どう見たって一人で食べる量ではないのに、それが二皿。それにでっかいパンとデザートだろうかリンゴが入った籠がどん、と置かれる。
(ポテトがあるのにパンもとか。なんだよ、ポテイトウはヴェジタボーなのかよ)
ヨルの突っ込みはさておいて、これで一人前1000エクト。ジョッキのぶどう酒を入れても1500エクトだ。
ちなみに宿泊費はギルド割り引きありで一泊朝食付き5千エクト、割引なしだと1万5千エクトなのだそうだ。水を出す魔石または魔力は自分持ち、シャワーはあるが湯舟はなく、タオルも石鹸さえないありさまだが、ドリスに言わせると悪くない宿らしい。
(1エクト=1円で考えれば覚えやすいな)
そう考えてみれば、この宿は素泊まり5千円、山盛り料理は千円でジョッキぶどう酒は5百円だ。入門料の1万エクト、ギルド入会費の10万エクトが高く感じる。
(食べ物は安く、安全は高いのか。安全無料の国民からすると馴染めないな)
そういう価格設定だと思えば、この世界も理解しやすい。
「んー、美味しい! お昼食べずに走ってきたら、もうお腹ぺっこぺこだったんだ! この辺りにはおっきな湖があって、そこから河が何本も流れてるから、川魚が名物なんだよ」
完全に旅行者のノリで名物料理に舌鼓を打つドリス。
確かにマスは脂がのっているし、野菜はどれも味が濃厚だ。
(でも俺、あんまり腹、減ってないんだよな……)
異世界に来て緊張しているのだろうか、この世界に来てからほとんど何も食べていないというのに、空腹を感じない。そのせいか、滋味豊な食材をふんだんに使った料理だというのに、今一つおいしいと思えない。
(病気とかじゃないと思うんだ。口に入れた魚を飲み込むのにも苦労してしまうのはさ)
原因は、明白だ。
じー……………………。
「……食うか?」
ヨルはフォークを置くと、離れた店の端からもんのすごい目力でじいっとマス料理を凝視してくる小さな人影へと声をかけた。
「にゃっ、いいのかにゃ!?」
ぴこぴこと動く猫耳にぴーんと立った尻尾。極めつけはこのにゃんこ言葉。
(さすが異世界。いるんだな、猫獣人)
ヨルが初めて会話した獣人は、人の魚料理をよだれを垂らして凝視してくる、幼女っぽい雰囲気の猫獣人だった。
身長は1メートルに満たない幼稚園児くらいの体型で、胴体部分は服で隠され見えないが、手足はモフモフとした毛に覆われている。サイズが子供くらいあるのと二足歩行でしゃべらなければ、ほとんど猫ではなかろうか。ヨルも猫に話しかける感覚で、返事があって驚いたくらいだ。
恐ろしく上級者向けの獣人である。
3等身しかない手足の短いお子様体型から想像もつかない俊敏さで、ヨルの隣の席に登ったにゃん子。椅子に座るとテーブルに手が届かないからだろう、椅子の上に立ったまま、「いただきますにゃ」とヨルが差し出したマス料理を一心不乱に食べだした。
「うわぁ、ワー・ニャンコだ!」
「ぶっ」
にゃん子の襲来に、口の中に料理を入れたままのドリスが歓声をあげ、あんまりな種族名にヨルはぶどう酒を噴きそうになる。
ワー・ニャンコってなんだ。人狼なら聞いたことがあるが、その派生語ならワー・キャットじゃないのか。
にゃん子は一応フォークとナイフは握っているが、ナイフは魚を切り分けるのではなく押さえつけるのに使っているし、フォークもあまり上手に使えていない。時折そのままかぶりつきながらも「うにゃうにゃ」と言いながら実に美味しそうに食べている。
こんなにおいしそうに食べる様子を見るだけで、安物のぶどう酒もぐっと味が引き立つというものだ。
ふと、視線を上げると、女将があきれたように片眉を上げた表情でこちらを見ているし、店内の客たちも微笑ましそうな視線をにゃん子へと投げかけている。このにゃん子が涎をたっぷり垂らしながら魚料理をガン見していたことを、みんな気が付いていたのだ。
(……それにしても)
ヨルはにゃん子へと視線を戻す。正確にはその首元に付けられた首輪へと。
(首輪、だよなぁ。ってことはこの子は飼い猫? いや喋るし人間だったらまさか……?
異世界だし、そういうのもいるんだろうが……。まだ子供だっていうのに)
全身モフいにゃん子だぞ。
さすがは異世界。とんだ変態もいたものだ。