001.赤なき世界 *
前書き:書き直しました。今度は完走できるよう頑張ります。
1章は毎日更新。タイトルに「*」有りはLeonardo.Ai画伯による挿絵つきです。
→全話挿絵付きなので、途中から「*」つけてません。
初めて見た人間のハラワタは、鶏肉のようなピンク色をしていた。
脂身が黄色いことも、裂けた皮膚から飛び出す骨の白さと、赤い肉のコントラストも。
「精肉売り場かよ」
そう呟いてから、男――田口因はあたりに散らばる数多の肉片――、かつては人間を構成していたパーツの数々――には、まるで血抜きをしたように赤い色彩が欠けていることに気が付いた。
累々と広がる人の残骸に五体満足なものはなく、食いちぎられたように体の一部が欠損していたり、鋭い爪で引き裂かれたように腹の中身をまき散らし、あるいは力任せにちぎられたように、上半身と下半身が泣き別れになっている。
けれど、同時にぶちまけられるであろう暴力的な赤色だけは、きれいさっぱり拭い去られている。
ヨルの知る大量殺戮現場など、スプラッター映画の中くらいだけれど、そのどれもは血まみれで、死体から血が噴き出しているか、あたりに血が飛び散っているものなのに、ここにあるのは、まるで食肉売り場の色あいだ。
「だから、こんなにも現実味がないのか?」
もちろんそれもあるだろう。色彩というものは、非常に強い情報を伝えてくれる。赤は警告。今の状況ではそれが最も当てはまる。
こんな場所では“むせ返るような血の臭い”とやらがするのだろうが、あたりにはまばらに咲いている薔薇の芳香さえ漂っている。ただ一つの悪臭は、この惨状を作ったであろう巨大な獣のもので、小山のような亡骸は饐えたような悪臭を放つ赤黒い血をどぷどぷと垂れ流し、ライオンを思わせる巨体の下に血だまりを形作っている。
ライオンと称したが、血だまりで息絶えたそれは小山ほどもある。サイズ的には子供のころに見た象。つまり、実際の象よりかなり大きい上に、ライオンにはありえないパーツがついている。びりびりに破れているが背には蝙蝠のような翼、しっぽはサソリの毒尾である。
マンティコアというやつだろうそれは、困ったことにどう見たって作り物には見えない。
ここは、大人が3人がかりで囲めるほどの巨木が連なる森の中。
高い梢から洩れる光が彩なす明るい森は、血の気を失った肉片がそこここに飛び散り、花園を思わせる色彩を呈していた。肉片がまとう揃いの金属鎧や、胴体と泣き別れた腕が握る剣は陽の光を反射して、死の花園のたった一人の生者であるその男をキラキラと彩る。
およそ日本人離れした頭身と、彫像のように均整の取れた筋肉質の体躯。シミ一つない肌は“透き通るほど”を通り越して不健康そうにさえ見える白。その肌に緩くウエーブを描く黒髪がモノトーンの対比を示す。
その肉体と遜色のない、整った顔立ちを確認するまでもなく、その男、田口因――、ヨルは今自分が宿っている肉体が、自分の物でないことを認識していた。
「落ち着いて状況を整理しよう。筋トレはしてたけど、こんななるほどやってない」
現実味のなさゆえか、持って生まれたのん気さゆえか。異常な状況にも関わらず、さして取り乱してもいない自分の精神状態に若干の違和感を覚えるが、今は状況の整理が先だ。
ヨルはこの死体の山を築いたであろう、獣の死体に目を向ける。一見するとライオン。けれど、その大きさはアフリカ象ほどもあるだろうか。異様なサイズのライオンの背には、蝙蝠のような翼が生え、尻から生える尾はサソリの毒尾のそれである。
マンティコア。
伝説上の生き物であるはずのそれが造りものでないならば、今いるこの場所は、夢か、死後の世界か、それとも……。
「アパートが火事で……。俺は、そこに、飛び込んで……」
そして、炎にまかれて死んだのか――?
ここが死後の世界であるなら、二十はくだらない惨殺死体に囲まれたここは天国ではないだろう。けれどもヨルには微塵の苦痛もなく、体中に力が満ちていくような充足感さえ感じられる。
足の裏にはしっとりとした草の冷たさと、その下のデコボコとした地面の感触。さわ、と風が木々を抜ければ、梢を揺らす葉音が耳を打ち、獣の死体から漂う悪臭を薄めてくれる。
「夢じゃ……ないんだよな」
軽く頬をつねると、自分の肌とは思えない滑らかな肌触りと、尖った爪が刺さる感触がした。
ついさきほどまでは、日本の、自分のアパートの前にいたはずだ。自分が住む場所が火災に遭うなど、そうあることではないけれど、非現実的な状況はそれをさらに上回る。
自分の物でない肉体で、見たこともない森の中。周りには圧倒的な力で引き裂かれ、食い破られてバラバラになった人間の肉片。そして、腹に大穴を開けて倒れ伏した、象ほどもある魔獣の躯。
けれどこれは悪夢などではないと、ヨルの五感が告げている。
「異世界、ってやつか?」
物語ではよくある展開。けれどそれが我が身に起こるとは。
「ハーッ。勘弁してくれよ。そりゃ、そういう小説とか好きだったけどさ」
平々凡々に生きてきたのだ。
サッカー選手になりたかった子供の頃の夢がかなうほど運動はできなかったし、すごい研究者になるんじゃないかという親の期待もよくある親の欲目で終わってしまった。
田口因はどこにでもいる平凡なサラリーマンで、思ったよりも安い給料と、思った以上に高い税金や社会保険料に愚痴を言いながら、給料日前の退屈をネット小説や配信動画で紛らわせるようなどこにでもいる人間だった。
それでも、現実世界に絶望なんてしていなかったのに。
両親は健在で裕福ではなかったが大学まで出してくれ、たまに帰ると好物を用意してくれる。たくさんではないけれど友人がいて、なによりも一緒にいて安らげる恋人がいる。見た目だって十人並みのヨルのどこが良かったのか、大好きだと言ってくれた大切な人だ。
「帰る方法ないのかな。でも、何とか生きて戻ったら、全身火傷で寝たきりとか、……笑えねー」
頭を抱えてその場にうずくまりたい気持ちだが“とりあえず動かねば”と思えたのは、長年の義務教育と社会人として蓄積された社会通念によるものだろう。いや、この場合は倫理観というべきか、それとも単なる心もとなさか。
「……とりあえず、服着てから考えよう」
何もかも分からないことだらけだが、さらによくわからないことに、今のヨルは死屍累々たる森の中、一糸まとわぬマッパだったのだ。
本日4話更新します。