ワーグナーとヴァーグナー
「ご相席願ってもよろしいでしょうか?」
深みのある声だった。そして、柔らかい物腰。おそらく肩書のある御仁だろう。その名称はともかく。例えば何とかマネージャーというふうな。いや、総支配人だったりして。前掛けのエプロンをしていない姿からその辺は容易に想像できた。そういえば、何かの著作で会議で自己の意見を通そうと思えば、深みのある物言いがいいそうだ。まさにそう感じさせる出来事だった。心裡にも及ぶ感があった。ならば断る道理などない。というか、そもそも、こういったシチュエーションで断るなんて所詮無理なことだ。また、頼む方もそう算段してのことだろう。何せ、四人掛けのテーブルを一人で独占している状況で、全て自分の支配下に置くのは厚かましい限りだ。そういえば終演後のディナーをホワイエで予約した際、相席になってもいいかを確認された。もちろん、了承した。よほどの事でない限り、そうはならないと踏んだ結果だ。たいてい、どこか空くのを待つものだし、それにそれを以って予約を断られてもと思ったのも事実だ。何分、シーズン開幕の初日、今暫く余韻に浸りたくもあり、ここのレストランの食事こそそれに最適といえた。
「失礼します。」と彼女は小声で云い、椅子に腰掛けた。そして、その出で立ちが、ドレープのドレスであったことに気付く。それというのも、先ほど係員が連れてきた際、何となくまじまじと見つめるのは、女性ゆえ、控えるべきだと思ったからだ。彼女の元に運ばれた最初の皿は、ショートパスタ。もっともソースの種類が何であったかは知れなかった。さすがに人様の食菜を見てはいけないと思い、すぐに、視線を自分の皿に落とした結果だ。そういう私はペンネのパスタの一皿のみだ。如何にも安くお腹を満たしたいと言わんばかりに。何時もの様に好みのトマトを用いたものにした。そう、アラビアータのソース。もっとも、このペースで食べ続けていいものか?この、すなわち、異性を前にしてだ。ガツガツと食しては、淑女に対し興ざめさせてしまうだけではないか。そう想うと、今度はありえない遅さでゆったりと食しだした。やはり、このシチュエーションでは、話しかけるのが礼儀なのだろうか?ほっといて欲しいとのオーラは無い様だ。とはいえ、軽率な男だと思われてはと考えると、少なからず萎えてしまうものだ。その一方で彼女は自分のことを無粋な人間だと思ってはいないかと、心配した。ただ、どことなく勝手なものであることは否めない。彼女は、どうやらコース料理を、いわゆる、パスタ、メイン、デザートのコースを注文した様だ。やがて、メインに移ろうかとしていた。それを想うともう一品欲しくなってきた。ミネスト…と、うる覚えのまま、そう告げた。しかし、このテーブルの係の者はそれをミネストローネだと解してくれた。
今日の演目は、ラインの黄金。彼女がドレスをまとっているのもシーズンの開幕だからだろう。もっとも自分も一応はスーツの上下を揃いにせず、ウィングカラーのドレスシャツを着た。だが、どことなく古き良き時代の村長さんというべき格好になってしまったのも事実だ。共にその出で立ちで、何も会話を交わさないこの光景は浮いたものに違いなかった。おそらく彼女も観劇後の食事であろう。このレストランは、いわば、付属的な、失礼、劇場に伴う施設だった。だからそのターゲットは劇場の観客だった。ある意味、ホワイエ同様、社交場にもなりうるのだ。となれば今宵の楽劇に話題を持っていいのではないか。だが、いざ、話し掛けようとする段になると、何時もの小心が出てしまった。もし、彼女がワグネリアンだったらという具合に。偏見に過ぎないのは分かっていた。だからといって、ネオナチだと限らないだろう。でも、造詣の深い御仁かもしれない。それに比して自分はワーグナーに関しては、全くの初心者なのだ。その薄っぺらな知識で何も語れない。そういった想いが巡る中一息つくためデザート注文した。「オレンジのシャーベットならございますが。」とのことであった。もちろん、何でもいい。コーヒーと共にそれを注文した。そして、それを食しつつ、Facebookにそのレビューを投稿するため、タブレットを起動した。傍らに今日のプログラムを置きつつ。
「ヴァーグナーはお好きなのですか?」
突如だった。しかも「ワーグナー」でなく「ヴァーグナー」。何とも言えない権威づけだ。もちろん、ドイツ語の発音として正しいのには違いないけれど。それにしても、思っていたとおりだ。相当詳しい方なのかもしれない。その性分といおうか、卑屈にも「全くの初心者でありまして。」と云ってしまった。
「私も万年初心者ですわ。ヴァーグナーは。」
その言葉に気持ちが和んだのは事実だ。それからは、幾分か会話のあるデザートタイムとなった。




