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2016年/短編まとめ

微睡みの世界で死ね

作者: 文崎 美生

弱虫は、幸福をさえおそれるものです。

綿で怪我をするんです。

幸福に傷つけられる事もあるんです。


思い返す言葉は、目の前の女に当て嵌るのだろうか。

すよすよと規則正しい寝息を立て、男の硬い膝を枕にしたその女は、時折頭の位置を確認するように動かした。

いつもは瞳を隠す前髪も、寝転がっていれば自然と流れてその目が顕になる。


綺麗に生え揃った睫毛は長く、その瞳を象るように並び、しっかりと伏せられていた。

しかし、寝息に合わせて小刻みに揺れるだけで、開かなければその奥の瞳は見えない。


「弱虫、ねぇ……」


辞書などで調べた際には、直ぐに弱音を吐く人、などと出てきそうだが、弱音を吐くだろうか。

大抵の言葉を、無表情に、かつ、抑揚のない声で吐き出す姿を見てきて、弱音らしい弱音を思い出せない。


強いて言うならば、三日間まともな睡眠も食事も取らずにパソコンと向かい合っていた時に「眠い死ぬ終わらない」と言っていたことくらいだろうか。

似たような案件なら幾つか思い出せるが、年頃の女らしい失恋や親友との仲違いのような内容は、その口から零れることはなかった。


「んっ……んー」


規則正しかった寝息が、一度詰まり、深い吐息になって吐き出される。

膝の上の頭を見下ろせば、ゆるゆると長い睫毛が持ち上げられるのが分かった。


「……いま、なんじ」


半開きのぼんやりとした黒目が俺に向けられ、相も変わらず抑揚のない声で吐き出された言葉は、いつになく舌っ足らずだった。

前髪を払いながら、胸ポケットに入れていた端末で時間を見れば、膝の上で寝息を立て始めてから既に三十分は経っている。


そのことを告げて、そろそろ授業の終わる頃だと続ければ、顎関節が外れそうなほどに大きい欠伸が漏らされ、米神が一瞬だけ動いた。

そんなことを露程も感じ取らない女は、むにゃむにゃと口を閉じ、後頭部を俺の膝に擦り付ける。

それから直ぐに、半開きだった目を揺らし、うとうとと船を漕ぎ出す。


時折、ふっくらとした白い頬が動き、喉が微かに上下する。

溜まった唾液を飲み込む音が聞こえては、その細い喉に手を伸ばしたくなるのだ。

そうしてやはり、そんなことを露程も感じ取らない女は、寝息を立てる。


「幸せも不幸せも怖いなら、生きていけねぇな」


「……いけないねぇ」


はふ、と欠伸混じりの声に眉を寄せる。

見下ろした先には、またしても半開きの双眼があり、光を含まない黒が俺を映す。

見つめ合うこと数秒、はぁ?と態度の悪い声を出せば、一文字一句繰り返される言葉。


眠そうな目に見詰められながら、それならお前はどうなんだ、と問い掛けたくなる。

安らかな寝顔を見ながら、何度となく伸ばしたくなった首元には、青紫に変色した痕があった。

首を一周、ぐるりと囲むような痕だ。


「だから、死ななくちゃ」


たっぷり三秒掛けての瞬き。

しっかりと開かれた目は大きく、何もせずにくるりと上がった長い睫毛は、恐らく、同性からは酷く羨ましがられるものだろう。

それなのに、吐き出される言葉に頭が痛くなる。


寝転がる方向に合わせて流れる前髪を、ちょいちょいと指先で弄る女は、またしても抑揚のない声で「どっちに転んでも怖いなら、きっと死ぬことは怖くないのよ」と言って除けるのだ。

その言葉と態度、更には首の痕を見れば、その女の目指すことは分かるだろう。

理解は出来なくとも、分かってしまうのは皮肉極まりない。


遠くから聞こえてくる生徒の騒ぐ声に、女は生欠伸を漏らして、俺の膝に頬を寄せる。

ふにりと形を歪める頬は、その細身の割には存外柔らかいものらしい。


「こうして、授業にも出ずに、日当たりの良い屋上で微睡む。そうしてると、死にたいなぁって思うでしょう?」


「思わねぇよ」


吐息混じりの言葉に、つい噛み付くように言ってしまう。

しかし、当の本人は気にした様子もなく、そうかなぁ、と独り言を漏らしている。

価値観の相違、という言葉があるが、これはその言葉で収まる問題なのだろうか。


美味しいものを食べて幸せ、だから死にたい。

仕事で失敗をして不幸せ、だから死にたい。

些か乱暴とも言える結論だ、暴論だ。


眉間に深いシワを刻み、大きなウェーブを描くその髪に手を入れる。

掻き上げるように撫で付ければ、女の目はきゅうっと細くなり、力加減を間違えれば折れてしまいそうな腕を俺の腰に回した。

思ったよりも強い力で回された腕が締められ、俺の腹部に顔押し付ける女に息を呑む。


「あぁ、もう。死んでしまいたい」


もごもごと潜もって聞こえる声は、確かにそう言っていたと思う。

ほんの少しの感情を滲ませた言葉は、語尾が僅かに上がり、鼻を啜るような音が聞こえた。

俺の腰や腹部をぎゅうぎゅうと締め付ける女に、そっと息を吐く。


死ぬなよ、とは言わない。

この状況下で目の前の女が死ぬような行動が出来ないことを知っていて、させないだけの行動力も決断力も俊敏さも、俺は持ち合わせているから。

もしもこれが、幸福で死んでしまいたいのならば、まぁ、悪い気はしない。


ぼんやりと見詰める青紫の痣のように、不幸で死にたいような気持ちには、させるべきではないのだろう。

そっと吐き出した溜息は、大きく聞こえた授業終了のチャイムで掻き消された。

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