愛紗の気持ち。潤の気持ち。
トイレから出た俺は、リビングに戻った。気分は最悪だ。くそう、愛紗め……これから一ヶ月近く、あんな殺人料理を食わせるつもりか。このままじゃ、治るものも治らないぞ。
にしても……あー、腹減った。とりあえず、適当に何か食おう。いや、風呂も洗わなきゃだし、洗濯物もたまってるし……ああ、問題山積みだな。
これからは料理だけじゃなくて、洗濯や掃除についても伝授が必要だ。洗濯機の使い方、アイロンのかけ方、風呂を洗う鉄則三か条、掃除のポイント、ゴミを出す日、etc……ああ、あいつにできるのか……。
――無理だろうな。最初は色々やらかすだろうけど、それを暖かく見守りつつ、矯正していくしかないな、こりゃ。
とにかく、まずは飯だ。愛紗でもできる、簡単な料理を何か伝授してやらねば……。
台所でエプロンを逆さまに付けた愛紗を見つけると、俺は駆け寄った。
……まずはエプロンのかけ方からか。道のりは険しい。
「愛紗。料理はやはりまだお前には早い! いいか、俺が横で指導してやるから、勝手なことをするな」
「なによぅ。あたしだって、頑張ってるんだよ! ケガをして、寝たきりで痴呆症の兄に、献身的に尽くしているのに! ああ、なんていたいけで可愛い妹なんだろうね、あたし」
デコピンをかましてやった。
「誰が寝たきりで痴呆症だ。いいから、お前にはまだ経験値が足りないんだよ。カオス・クロニクルでもそうだろ? レベルが一定値に達していないと覚えれないスキルがある。お前もそれだ。お前のレベルはまだ低いんだ。焦らずに、ゆっくりと少しづつ積み上げて行け。俺が、手伝ってやるからさ」
「なるほど! 確かに、エアライドを40レベルで覚えようと思っても無理だもんね。くう。解ったわよ……仕方が無いなー。バカ翔と師弟関係結んであげる! その代わり、レベル40になって卒業したら、何かアイテムちょうだいよ!」
こいつの頭の中がゲーム脳で助かる。俺から卒業したら、兄の熱い抱擁でもくれてやるか。まあ、こいつが卒業するころまで、地球が存在していればの話だが。
「よし。とりあえず……そうだな。まずは、エプロンのかけ方から。次は食材のチェックだ。現状の確認。冷蔵庫開けてみろ」
「へーい」
俺は冷蔵庫の隣に立って、愛紗に扉を開けるように指示を出した。
「うおりゃ!」
「ぐお!?」
愛紗は思い切り冷蔵庫の扉を開いた。開きやがった。思い切り開いた冷蔵庫の扉が俺の顔面に直撃して、思わず俺はのけ反る。
「あ、ごめん」
「いきなりか、お前は! もっと優しく扉を開けろ! 冷蔵庫がかわいそうだろ!」
これ、地味にダメージがでかかったりする。
「へーい。ま、確かに冷蔵庫壊れたらたいへんだもんね。ごめんね、冷蔵庫。よしよし」
愛紗は冷蔵庫の扉を優しくなでた。いや、先に俺をいたわれよ、お前。まったく、こいつときたら。
「うーん。チーズと、ウィンナーと……漬物と、卵に牛乳か。野菜室には、ブロッコリーと、じゃがいもが少し」
冷蔵庫の中を見て、すこし考える。昨日スーパーで買った食材は、オヤジが使ってしまった。
今残っているのは、たったそれだけ。これから買いにいくにしてもなあ。なんとかこの食材でやりくりするしかないか。
「愛紗。パンはあったか?」
「うん、食パンが3枚あるよ」
チーズ、ウィンナー、牛乳、ブロッコリー、じゃがいも。そして、食パン。これなら、あれができそうだ。手間もそうかからないし、愛紗でもやれるだろう。
「そうか。じゃあ、カセットコンロを出してくれ。あと、鍋も」
「え? これでお鍋でもやるの? でも、材料へぼくない?」
「俺に考えがある。任せろ。とにかく、俺が指示を出すからその通りやってみろ、いいな? 間違っても、タリウムとか入れるなよ」
「そんなもん、入れるわけないでしょ! あたしを誰だと思ってるの!?」
「家事が絶望的にできないダメかわいい妹」
瞬間、太ももに衝撃がきた。
「蹴るな! 俺はケガ人だぞ!」
「バカ翔なんか嫌い! 絶対に見返してやるんだから! 絶対においしい料理作って殺人的なうまさだと、感涙させてやる!!」
愛紗は俺に蹴りを放つと、台所に駆け込んでいった。ちゃんと、かわいいって付けたのに。妹心は難しいな。
愛紗が鍋をコンロの上にセット。そこにチーズを適量と、牛乳を少し加え火を付けた。
「何が始まるの? てか、これ何鍋? あ、解った! 闇鍋とかいう奴!?」
「違う。チーズフォンデュだ。チーズを鍋で溶かして、牛乳でのばす。んで、そこにパンやウィンナーを浸けて食べる。うまいぞ、きっと」
パンはできればバゲットのほうがよかったが、一口サイズに切った食パンで代用した。他にも、ブロッコリーと、じゃがいもをレンジでチンしておく。
本当は白ワインがあればよかったのだが、そんな気の利いた物、渡辺家には存在しない。なので、オヤジの日本酒を使ってみた。
まあ、白ワインと日本酒だし、そんな変わらないだろう。飲んだことないから、味の違いなんてまったく解らないけど……。
チーズがいい具合に溶けて、鍋の中でクリーミーに波打つ。あとはこれをフォークで刺して食べるだけ。
「へえ。なんか、バカ翔にしては洒落てるね。おいしそう。ウィンナー全部もらい! 肉補給しなきゃ」
「こら肉食獣! 1人で全部食うなよ。オヤジも呼んでこい。皆で仲良くいただくんだ」
「へーい」
オヤジも呼んで、家族3人で仲良くチーズフォンデュに襲い掛かる。
「どうだ、うまいか? 愛紗」
「おいしい! あ、これももらうね!」
「こら待て! それは俺のウィンナーだ! ええい。じゃあ、このじゃがいもは俺のもんだ!」
「お前達! 少しは尊敬するお父さんに譲ろうという気持ちはないのか! あ、それダメ! お父さんのウィンナー! あ、ああ……こ、この親不孝者め!」
「オヤジは歳なんだから、黙ってブロッコリーでも食ってろ、ほれ」
「翔! お前……親子の縁を切る!」
リビングは戦場になりつつあった。
「ああ。潤くんがこの場にいればなあ……『潤くん、はい。あ~んして。愛紗が食べさせて、あ・げ・る』ってできるんだけどなあ~。そんでそんで! 『愛紗ちゃん。ぼくが今欲しいのは、チーズフォンデュじゃないんだ。一番欲しいのは……愛紗ちゃん。君だ!』て言われちゃってさあ! 迫る潤くんの唇。チーズのように濃厚な潤くんの舌。落ちていくあたしの意識……そして、初めての……きゃ~どうしよう!!」
愛紗が虚空に向って、チーズがたっぷり付いたパンきれを差し出したので、俺はそれを遠慮なく横からかすめ取ってやった。
「うむ。うまい。愛紗ちゃん、ありがとう。大好きだよ」
すかさず潤の声色を真似ておちょくってやる。
「ちょっと~! あたしの潤くんへの愛を返してよ! 吐き出せこのバカ兄!! あんたに大好きとか言われると、ゲロ吐きそう!」
女の子が食事中にゲロとか言うなよ。まったく。
「ふん、もう無理だな。すでにお前の愛は俺の血肉となった。……ていうか、お前。潤にはもう、今日の事話したのか?」
強気だった愛紗の顔が一瞬で曇る。今にも泣きそうだ。
「ダメだよ。きっともうあたし、嫌われてる。今更、潤くんに合わす顔……ないよ」
「愛紗……」
「でも、いいんだ。バカ翔が無事だったし。ケンカできる相手がいないと、あたし。ストレスのはけ口がなくって、きっと美容に悪いだろうから」
俺はストレスのはけ口か。
その時、インターフォンが鳴った。
「ふう。愛紗、後はお前が好きなだけ食え。俺が出てくる」
俺はリビングを出ると、まっすぐに玄関へ向った。しんみりした愛紗を行かせるのも、なんだしな。
「は~い、どちらさま?」
玄関のドアから顔を出してみるが、誰もいない。ちくしょう、いたずらか?
俺も小学生の頃、ピンポンダッシュを極めし者、『ピンポンマスター翔くん』と呼ばれていた時期があったが、その俺に挑もうとは、なかなか命知らずなヤツだ。
「あ、あの……渡辺さん。ぼく、です」
「ん?」
どこからともなく、小さな声がした。よく目を凝らせば、門扉の影に潤がいる。
「潤、か? なんだそんな所で。こっちこいよ。寒かったろ? 今、チーズフォンデュやってんだ。お前も混ざるか? ウィンナーはやらんがな! お前にはブロッコリーの洗礼を浴びさせてやる」
門扉の影で怯える小動物のように縮こまっていた潤の腕を引っ張ろうとした。が、すぐにその手は振りほどかれ潤は後ずさる。
「だめです。ぼく……だめ……なんです」
「何だよ。何がダメなんだ? チーズ嫌いか? それとも、ブロッコリーが苦手か? ダメだぞ、好き嫌いは。そんなんじゃ、渡辺さんみたいに大きくなれないぞ」
よしよし、と。潤の頭をポンポン叩いてやった。なんか知らんがえらく落ち込んでいるな。姉弟ゲンカでもしたのかな。
「今日……愛紗ちゃんが家に来てくれなかったのは……きっとぼくの事、嫌いになったからなんです。だから、ぼく……愛紗ちゃんにさよならを言いに……来たんです。ぼくは愛紗ちゃんに相応しくないから。あんなに可愛い子がぼくを好きになってくれるはず、ないんです」
「おいおい。何言ってんだ。愛紗が来れなかったのは――」
「ぼくなんか……弱くて泣き虫で、顔もイマイチだし、暗いし、虚弱だし、お小遣いも月に1万円しかもらってないから、家庭もあまり裕福ではありません」
「何だと?」
殴ったろか、こいつ。美少年のくせに、顔がイマイチだと。お小遣い1万円のくせに、家庭が裕福じゃないだと? ウチなんか、月3千円なのに……。中3で1万ってもらいすぎだろ! くそう、格差社会はすでにお小遣いから始まっているのか。今の政権与党は何をやっているんだ!
決めた。俺が日本を変えてやる! 相羽さんと二人三脚で、おしどり政治家夫婦と呼ばれる日がいつか……。
「あ、あの。渡辺さん? 何をぶつぶつ言ってるんですか? ちょっと、ぼく。ドン引きです……」
「日本は俺が変える!」
俺は決意を新たにした。
「潤くん!」
「え? あ、愛紗ちゃん……」
気が付けば、いつの間にか愛紗が玄関に出てきていた。
2人は唇をぎゅっと噛みしみて、必死に何かに耐えるように視線を下に向けたまま……数秒間が過ぎた。そして。
「ごめんなさい!」
「ごめんね!」
同時だった。謝罪の言葉が2人同時に発せられる。
「え?」
「え?」
疑問を口にするのもまた同時。愛紗と潤は、時間という概念をどこかに忘れたように、ただただ見つめ合った。




