渡辺兄妹
暗黒の中をさまよっている。右も左も。上下すらも解らない。
ここがどこであるか。それを理解しようとするが、思考がうまくできない。
ただ。
誰かがずっと側にいて、俺の名前を必死に叫んでいて、泣いているのは解った。
何やってるんだよ、俺。早く家に帰って、愛紗に飯作ってやらなきゃ。きっと今頃あいつ、腹を空かせて家の中を暴れまわってるに違いない。ほんと、困った奴だよなあ。
それだけはなんとか考えることができた。すると。
唐突に差し込む光。視界が開けてくる。
何だ?
一筋の白い線が広がり、少しづつ俺の世界を形作っていく。
白い天井。ベッド。消毒液の臭い。開け放たれた窓。
どこだ、ここは……。
何で俺、こんな所で寝てるんだろう?
自分が今どこにいるのか、状況を確かめようとしてベッドから起きようとしたが、すぐに異変に気が付いた。
「ギプス? 何で俺、こんなもん付けてるんだ……」
俺の左手にはギプスがぐるぐると巻かれ、まるで重症のケガ人みたいだ。いや、ギプスだけじゃない、右頬にもなんだか絆創膏みたいなのも張ってある。
「痛てえ!」
上半身を起こしただけで、全身に痛みが走った。何だこれ。めちゃくちゃ痛い。
「お兄ちゃん!」
「ん?」
ふと、愛紗の声がした。前を見れば、愛紗がなにやら旅行カバンを抱えて、開け放たれた扉の前に立っている。
「よかったあ、よかったよぉ!」
そして、涙を瞳の端からこぼし、カバンを地面に落とすと、俺に抱きついてきた。
「痛いって、離れろよ!」
俺が必死にそう言うと、力を弱めたものの、愛紗は抱きついたままで、離れてはくれなかった。
「あ、ごめん……でも、本当によかったよぉ。あたしがあんなひどい事言っちゃったから……こんなことになって……」
愛紗のその一言で、すべてを思い出した。
そうだ。俺は、愛紗とケンカして……赤信号の道路に飛び出した愛紗を助けようとして……。愛紗を突き飛ばしたんだ。
それから……俺は車にぶつかって……。
病院に運ばれたってことか。
「そうだ。お前、大丈夫か? 体はどこも痛くないか!?」
「うん。大丈夫。ちょっとすりむいただけ」
「見せてみろ。俺が消毒してやるから。えっと、救急箱どこだ?」
「ちょっと、落ち着いてってば!」
「え? ああ、そうだな。ていうか、ここ。病院か? ……まあとにかく、よかった。お前が無事で」
「よくないよ! お兄ちゃんが……」
「ん? ああ、そういや、なんかえらいことになったな。まあ、気にするな。すぐ治るだろ」
愛紗が無事なら、それでいい。
俺のほうはなんとでもなる。けどまあ、このギプスを見る限り、すぐ元通りってわけにはいかなさそうだ。
利き腕じゃないのが不幸中の幸いかな。
それにしても、これがギプスかあ。初めて付けたけど、なんか不思議な感じだ。まるでガントレットみたいで、カチンコチン。心なしか、防御力が上がった気がするぞ。でも、固定されてるってことは生活に支障は出るだろうな。
あ! これじゃ料理できないよ……洗濯も、裁縫も……困ったな。
いや、今はそれより……。
「愛紗、顔上げろ」
「ごめんね、ごめんね……ごめんね」
愛紗は泣きながら、俺に抱きついて『ごめんね』を連呼していた。
「あたしのせいで……あたしのせいで」
その姿はどこか痛々しい。普段の生意気な笑顔はどこへやら、肩を震わせ涙で顔を濡らしている。
「泣くなって。お前が無事ならそれでいいんだからさ。兄貴が妹を守るのは当然だろ。お前は女の子なんだから、傷でも付いたら大問題だ。俺はお前に毎日蹴られて、頑丈だからな、はは」
「でも……あたしのせいで、また家族がいなくなったら……」
愛紗はまだ泣き止まない。
「お母さんだけじゃなくて、お兄ちゃんまで、あたしのせいで……」
「あのな、愛紗。母さんはお前を守ったんだ。お前のせいなんかじゃない。親が子を守るのは当たり前だって、親父も言ってただろ? 今回もそうだぞ。兄が妹を守るのは当たり前なんだ。だから、お前は何も気にする必要は無い」
そうだ。
俺たちの母は、10年前に交通事故で亡くなった。まだ、29歳だったらしい。
俺が小学校に上がったばかりの頃で、愛紗は幼稚園児。愛紗が道路でボール遊びをしている最中、ボールが車の前に飛んでいってしまい、それを追いかけた愛紗を守ろうとして……。
それ以来、俺は母さんの分も、愛紗を可愛がってやろうと心に決めた。
俺は、愛紗の兄だから。愛紗は、俺の妹だから。俺たちは、家族だから。
「泣き止めよ。今日の晩飯はお前の好きな肉を焼いてやるからさ」
「うん……そうだ。目が覚めたんなら、お医者さん呼ばなくちゃ」
「ああ、そうだな。ところで……これ、けっこうやばいのか?」
俺は左手を少し持ち上げて愛紗に見せた。
「左手はひびが入っただけだから、一ヶ月もあれば治るって。後は全身に打撲と擦り傷。車にぶつかってそのくらいですんだのは、買い物袋に入ってた冷凍炒飯がぶつかったときのクッションになったからじゃないかって、言ってた」
三上さんのおかげだな。感謝しなくちゃ。
「入院する必要は無いから、目が覚めたら一度診察すれば帰れるって。お父さんももうすぐ来るよ」
「そっか。我ながら悪運は強いみたいだな。やっぱ、カオス・クロニクルでナイトやってる分、防御力が高いのかな、俺」
少しおどけてみせる。いつまでもこいつに泣かれると、俺も悲しい。
「もう、ゲームじゃないんだから」
愛紗がくすっと笑った。
……ようやく笑ってくれたか。いつも生意気な愛紗がこんな風にしおらしくなると、どうも調子が狂う。こいつは生意気な位がちょうどいい。
その時、愛紗のお腹が鳴ってしんみりしていた空気をブチ壊した。ああ、そういや俺も腹が減ったな。ていうか昨日は結局晩飯食ってないんだっけ。
「それより愛紗、今何時だ? ちゃんと飯は食ったのか?」
「今、11時過ぎたところ……お兄ちゃんの側にずっといたから、まだ何も食べてないよ」
「え? 11時?」
「うん」
今日は日曜日。そういえば、こいつ、12時から相羽さんの家に行くはずじゃ……。
「おい、愛紗。俺はもう大丈夫だから、潤のとこ行ってこいよ。今ならなんとか間に合うだろ?」
「行かない」
愛紗は顔を上げると、涙を服の袖で拭ってきっぱりと言った。
「行かないって……お前あんなに楽しみにしていたじゃないか。そうだ! 潤も言ってたぞ!」
困ったときの潤くん登場だ。
「『約束を守らない女の子は好きじゃありません。時間を守る子はとても好感がもてますね』ってな」
「じゃあ、あたし。潤くんに嫌われちゃうね」
「おいおい。何言ってんだ。行ってこいよ」
「体を張って助けてくれた兄を置いていけるほど、あたしは兄不孝な妹じゃないよ。もしそれで潤くんに嫌われるんだとしても、いい」
愛紗は少し寂しそうに笑った。
「一緒に帰ろう、お兄ちゃん」
「ん。……ああ」
予想外だった。愛紗が、あんなに大好きな潤よりも、俺を優先してくれたことが。
けっこう……嬉しいじゃないか。こいつめ。
この時ほど、俺はこいつの兄をやっていてよかったと思った瞬間は無い。
けどまあ、後で潤に連絡は取っておいたほうが良さそうだな。約束を破ったのは確かだし、ギルドハントを潰しちゃったから、ギルドのほうにもフォローいれないと。
「そうだ。着替え持ってきたんだった! そのかっこうじゃ帰れないでしょ?」
「ああ、ありがとな」
愛紗は旅行カバンをベッドの上に乗せると、部屋を出て行こうとした。
俺はカバンの中身を見て、思わず愛紗を引き止めた。
「くおら、愛紗! 何だこれは!?」
「へ?」
カバンの中身は、確かに着替えだ。
ちゃんと下着も入ってるし、上下もそろってる。
だけど。
「何でお前の着替えが入ってるんだ! 俺に女装でもさせるつもりか!」
「あれー? 間違えちゃった? ごめん、急いで用意しちゃったから……もう無我夢中で」
旅行カバンに入っていたのは、愛紗の下着と、スカートとシャツだった。
これを……俺にどうしろと?
「このバカタレ! ったく、使えないヤツだなあ。だいたいなんだ、この派手な下着は。お前、中学生だろ。もっと分相応に……」
「なによぅ! そのスカートめっちゃ、カワイイじゃない! 東京まで行って手に入れた、あたしのお気に入りなんだから! ブラだって、ブランド物なんだよ! ショーツと上下セットで高かったんだから!」
「アホ! ここ病院だぞ、でかい声でそんなこと言うな、恥ずかしいだろ! もういい、このままで帰る」
「アホとは何よ! そりゃ、確かに間違えちゃったけどさ……でも、あたしの心遣いを踏みにじらないでよ! よかれと思ってやったことなんだから! もう、バカ翔なんか知らない! お医者さん呼んでくる!」
愛紗は肩を怒らせながら、のしのしと歩いて行った。
まったく。もうお兄ちゃんからバカ翔に戻ってるじゃないか。
まあ、このほうが愛紗らしくていい。あいつは、生意気なくらいがちょうどいんだ。




