僕の隣にいた君へ
―始まりはいつだったろうか。
今はもう思い出せない、遠い昔のような。
それでも、確かに君はいて、僕の傍で笑って、泣いて…。
僕らは二人、最期の時を待った。
どちらからともなく、会話はなくて、笑顔で――。
“さよなら”
今も君のその言葉と、あの甘いメロディーが耳に残っている。
◆◆◆◆◆◆◆
雨がしとしとと窓を叩く、水無月。
“水の無い月”なんて、梅雨のあるこの時期には皮肉としか思えない。最も、この名前にも諸説色々あるそうだが…。
そんなことはどうでもいい。
夏に近づき蒸し蒸しとした毎日を送ることに飽き飽きしながら、今日も仕方なく学校へと向かう。面白くもない、変わり映えのしない学校へと。その足取りは重く立ち止まればその場に足が根を生やしてしまえるんじゃないかと思うほどだ。
夏服は中にシャツの一枚でも着なければ肌が透けて見えるし、汗ではりつく感触の気持ち悪いことったらない。はっきり言って、夏が一番嫌いだ。
「はぁ…」
盛大な溜息を一つ。
人通りはあるものの気に留める人は誰もいない。たかだが10代の溜息に足を止めて行く人なんていない。足を止めるくらいなら、自分が溜息をつきたいくらいだろう。
徐々に汗ばむシャツに手をかけ、襟首をパタパタと動かす。それでも暑さは拭えない。
「あっつ…」
悪態にも似た小言を呟くと、不意に視線の隅に涼しそうな場所を見つける。
通学路に面した児童公園―今まである事さえ気付かなかったが―の生い茂った木々の根元。ゆらゆらと木漏れ日が差し、風が通っているのだろうか葉も音を立てて揺れていた。
迷うことなく足はその“オアシス”を求め歩き出す。
時間に余裕がある訳ではないが、このままでは干からびて途中で息倒れるのがオチだ。今は少しでも涼しい場所に…勝手に動き出した身体に対し、言い訳がましく頭を説得するとのろのろと木陰に滑りこむ。
「あ~…生き返る~」
まるでビールを飲んだ中年サラリーマンのような呟きに、自分でも驚く。“オヤジくさっ”とか自嘲の笑みを浮かべ額に張り付いた前髪を掻き上げた。その時。
「ぷっ…ふふっ…」
すぐ傍で笑う声が聞こえ、人がいた事に驚いた心臓が早鐘を打つ。まるで気配を感じなかったのだが、暑さでぼうっとでもしていたんだろうか…。
笑い続ける相手に文句の一つでも言ってやろうと振り返ったが…言葉は出て来なかった。
一瞬で、視線は釘付けとなる。
今時珍しい綺麗な黒髪を顔のラインに沿うように切り揃え、左耳に赤いピアスを一つ。化粧などしていないのに雪のように白く透き通る肌は、夏の陽気のせいで少し赤く色づいていた。
「…オヤジ…くさ~」
ツボにでもはまったのだろう目元にうっすらと涙を浮かべ腹を抱えて笑う少女に、その言葉に、色気なんてこれっぽっちもないのに、その笑顔から目が離せない。これを“一目惚れ”とでも言うのだろうか…。
「あのっ」
思わず掛けた声に少女はようやく顔を上げて、真っ直ぐに俺の瞳を見つめる。
その瞳は黒髪とは対称的に薄い茶色で、また眼を引く。不思議そうに首を傾げた少女は思い出したように“あっ!”と口を大きく広げ、今度は勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
コロコロとよく動く表情に引きつけられる。茫然と見つめたままの視線を離せなくて、彼女は困ったように視線を泳がした。
「あの~?」
「あっ、ごめん。気付かなくて…」
見とれていた事に気恥ずかしさを感じて、慌てて眼を逸らす。もう一度“ふふっ”と笑う声がしてそーっと視線を彼女へと戻した。
「何でキミが謝るの~?」
可笑しそうに満面の笑みを浮かべ、彼女は俺を指さす。その笑顔につられて自然と俺も笑顔になった。
二人並んで木陰のベンチに腰掛ける。
俺は制服で、彼女は小花柄のフリル付きシャツにハーフパンツを合わせたラフな格好。どうみても学生な幼い二人は、誰に注意されるでもなく堂々と学校をさぼっていた。
通学路に面したこの公園は、午前も九時を過ぎれば静かになるらしく辺りに人影はない。自販機で買った缶ジュースを片手に俺はただ無駄に青い空を眺める。
「ねぇ、名前は?」
不意に声を掛けられて緩慢な動きで彼女を振り返ると、少女は下から覗き込むように俺を見上げていた。
―その角度はやばいって。
ちらりと目に入った谷間―実際には対して胸もないのだが―に、俺は慌てる。視線を手にした缶に移し黙りこむと、再度彼女からの催促がかかった。
「名前、教えてくれないの?」
「えっ?」
「もうっ、聞いてなかったの?」
少し膨れた表情をする彼女は、怒ったように眉根を寄せると徐に空を見上げる。その横顔がなんとも言えず“綺麗”だと思った。
「いいよー…だ。私は真知ね」
「まち?」
今時古風な名前に俺は漢字が浮かばずに首を傾げる。その様子に気付くと、彼女がさりげなく俺の右手を取った。
「真実の“真”に、“知る”って書いて“真知”」
掌に指で文字を書くようになぞられ、そのくすぐったさに思わず身動く…。
手を握られたまま「キミは?」と尋ねられ、渋々俺は呟いた。
「カズキ…」
「かずき?」
自分でも素っ気ない態度だと思う。照れ隠しのつもりが繋がっていた手を払い目を逸らすと身体ごと彼女に背を向ける。彼女を傷付けたのではないか…そう思うのに、素直になれない。
「ねえ、かずきってどう書くの?」
優しい声が背中に降り注ぐ。
横目で彼女の顔を確認すると、彼女は先ほどと同じようにただ空を見つめていた。その横顔が思いがけず寂しそうに見えて思わず胸を打たれる…。
―なんで、そんな顔で“空”を見てるんだよ。
その理由は分からないが彼女に笑って欲しくて、俺は無理に明るく振る舞う。
「平和の“和”に希望の“希”で和希っ…十五歳。キミは?」
無理やり浮かべた笑顔で彼女を見つめると、彼女もニコッと笑ってくれる。
「同じだよ。十五歳」
真知が小さな子供のように足をバタバタさせ空を見る。先程のような寂し気な表情はないが、それでも何となく気になって声をかけた。
「空、好きなの?」
驚いたように目を大きく開き、彼女はそっと首を振る。
「じゃあ嫌い?」
再び尋ねた言葉にも、真知は首を振る。そのまま黙り込む彼女に、俺もそれ以上の言葉を見つけられずにただ黙った。
―学校…行かなきゃな…。
一時間目はとっくに始まっている。
今更行く気にもなれなかったが、このまま午後の授業が終わるまで座っているわけにもいかない。家には専業主婦の母親が今日も家事に勤しんでいるわけで、こんな時間に家に帰る事も出来なかった。
「mh~」
不意に鼻歌が耳をつく。聞いた事のない優しいメロディ。
流行には敏感じゃないが、最近の歌ならなんとなくわかるはずだった。連日連夜ブラウン管の中には音楽が溢れていて、外に出ても何かしらの音を耳にするこの時代。一日音も無く生活する方が無理だと思う。
―なんだろ…なんか、懐かしい?
知らない歌に“懐かしい”も何もないのだが、音の主―真知―が口ずさむメロディに心の奥がざわめき立つ。何処かで聞いた事があるような…甘いメロディの曲だった。
「それ、なんて曲?」
思い切って真知に尋ねる。
彼女は歌うのをピタッと止めると、俺の方を向いて哀しそうに微笑んだ。
「“ゴンドラの唄”―」
「ごんどら…?」
首を傾げる俺に、真知は眼を伏せ「古い…古―い唄」と呟く。それきり彼女はまた黙って空を見上げると、繰り返し繰り返しメロディを口ずさんでいた…。
◆◆◆◆◆◆◆
真知と出会って半月が経った頃。
梅雨は明け、季節は水無月から文月へと移った。
ようやく夏休みに入るかという暑い日、俺はいつもの公園で本を読んでいた。夏休みを控える今の時期は“短縮授業”になる為、基本的に午後は自由な時間を過ごせる。もちろん週休二日制だのゆとり教育だのと何かと勉強する時間は減ってきているわけで、今更自由な時間が多少増えた処で俺のライフワークには何ら支障がなかった。
―今日もあちーなぁ…。
本に並ぶ文字の羅列から、青々と雲ひとつない空へと視線を移す。
本来なら家でごろごろ冷房を一人占めしていたい処だったが、生憎、この時期の冷房は主婦にとっての天敵らしい。電気代の事を持ち出されては渋々外に出るしかなかった。
―図書館も休みだしなぁ…。
家を出て最初に向かったのは公立図書館。
本の数は多いとは言えないが、何より涼しくて静かなのが嬉しい。朝から夕方まで居ても誰にも文句を言われないのも利点の一つだ。
ただ今日は間の悪い事に週に一度の休刊日らしい。
次に思いついたのはファミレス。ただ、これには問題がある。
―ファミレスは嫌な顔されるしな…。
以前“ドリンクバー”のみで粘った事があるが、あれは店員の視線が痛かった。大したものも頼まない癖に無駄に席を埋めるんじゃねえ…とでも言いたげな店員は事あるごとに冷たい視線を向ける。ちょっと眼が合えば微笑む癖に、その微笑みにも狂気じみた無言の圧力があったように思う。
あんな肩身の狭い思いはしたくない―そう思うと、自然に足は児童公園へと向いた。
「はぁ…」
思わず洩れた溜息に、和希は苦笑いを浮かべる。
その時、後ろで「ふふっ」と笑う気配がした。慌てて振り返るとそこには“あの日”以来会う事のなかった少女―真知―の姿があった。
「真知っ!?」
ベンチの背もたれに両腕をついてにこにこ笑う彼女は、名前を呼ばれると少し悪戯っぽく舌を出して見せた。
「久しぶりね、カズキ」
軽やかに挨拶をして彼女がベンチの前に回ると、隣の席を指さして「いい?」と尋ねる。和希は曖昧な笑みを見せると「どうぞ」っと置いていた本をどけた。
「何してたの?」
真知が聞く。
和希は「ん~」と少し考えてから一冊の本を手にとって真知の顔の前へと差し出す。そこには「中原中也」の文字。真知は眼を凝らしてよく見ると、難しい顔をして右手を顎にあてた。
「なかはらなかや…?」
「ぷっ」
「違うの?…じゃあ、“なかはら…なかなり”??」
「……」
真剣に悩む彼女を見てなんだかどうしようもなく可笑しさがこみ上げる。
必死に吹き出すのを我慢していると、真知が俺の手から本を奪い取った。
「あっ、ちょっ」
「ん~…っと、あった」
彼女は本の表紙を捲り、“作者紹介”の頁を探し当てる。
そのまま難しい表情をして文章を読み砕き、その手は更に内容にまで及ぶ。パラパラとページが捲られる度に、彼女の眉間の皺が一つ増え「う~ん」と唸り声を上げ始めた。笑いだしたい衝動を抑え、未だに本と睨めっこをする彼女の手からヒョイッと本を助け出す。
「あ~!」
真知は不満を表した声を上げるが、取り返そうとはしなかった。
「難しくない?」
「何が?」
「内容が」
「そう?」
「変よっ」
ベンチの上で器用に膝を抱え、彼女は少しだけ頬を膨らます。本に対し怒っているのか、それとも俺が同意をしなかった事に怒っているのかは分からないが、俺は真知から取り返した本をパラパラ捲り“しおり”を挟んでから本を閉じた。
「でもさっ、詩なんて人の感じ方次第でしょ?」
俺は真知の膨れた横顔を見つめ問う。問いに答える気はないようで、真知は膝頭に顎をのせ真っ直ぐと公園の遊具を見つめたままだ。
「俺は、良いと思うんだ…」
目を合わせない彼女を諭すように言葉を紡ぐ。最後に「難しいけどね…」と呟いて苦笑いを浮かべると、ようやく真知はこちらを向いた。
「カズキにも難しいの?」
「難しいよ。言い回しとか独特だし」
実際、詩人『中原中也』を知ったのはごく最近の事で、多くを語れるほど俺は彼を知らない。彼の作品や作風全てを理解しているわけでもないし、たまたま興味を抱いたのが彼だった―ただそれだけの事。
「じゃあ何で読んでるの?」
真知の率直な質問。当たり前な疑問と言えばそれまでだが…。
「う~ん…」
俺は考え込む。深い理由はない。ただ夏の課題の事もあるし、暇つぶしには丁度良いと思って読み始めた。それが今は何となく気に入ったというだけで、別段特別な思い入れはなかった。
「分からない?」
「…うん、申し訳ないけどね」
彼の詩を好きな人は世界に五万といるのだろうが、俺は何処が好きかを問われて答えられる気がしない。ただ、なんとなく惹かれた…そう答えるしかなかった。
「ふ~ん」
真知は相槌を一つ打つと、何処か満足そうに微笑む。そして、何処からともなくまたあの鼻歌が聞こえてきた。
「mh~」
―また、この曲。よっぽど好きなんだな…。
彼女はよくこの歌を口ずさむ―ゴンドラの唄だ。
和希は風に溶けるその声に耳を済ませそっと目を伏せる。暑い昼下がりを忘れさせる木漏れ日と、風と真知の唄がとても良く合っていた―。
不意に唄が止まる。
「私、もう行かなくちゃっ」
「えっ?」
「またね、カズキ」
真知が急にベンチを立ち、走りだそうとする。俺は思わずその手を掴んだ。
「待って!」
「…っ!?」
「携帯番号教えてよ」
「…アドレス?」
困ったような表情を浮かべる彼女を見て、和希は少しだけ引き下がる。
「あっ…メアドでも良いけど…」
本当はメールがあんまり好きになれない。返信を待つまどろっこしさが苦手なのだ。それでも、女子はメールの方が気軽に出来るのかと考えて申し出てみる。何より彼女の表情がソレを良しとしなかったから…。
「…ごめん。持ってないんだ」
「えっ?」
「ケータイ。ないの」
そう言うと彼女はまた寂しそうに微笑んだ。
それが本当なのか嘘なのか俺には知る術がないけれど、彼女のこんな表情は出来る事なら見たくなかった。
「そう…」
「ごめんね」
「謝らないでよ」
「…うん」
俯く彼女の手を繋いだまま、そっと彼女の頭に額を当てる。驚いたように彼女の肩が揺れて、それでも繋いだ手を離そうとはしなかった。
まるで別れを惜しむ恋人同士のように、二人はただ手を繋いでいた。言葉はなくて、二人の関係は甘い“恋人同士”でもなかったけれど、ただお互いの存在を確かめていたのかもしれない…。
「また会える?」
「…うん」
「待ってる」
「…うん」
自分で柄にもない事をしていると思う。
こんな風に女の子と話したり、笑い合ったり、手を繋いだことなんて今まで一度だってなかった。したいと思った事も…。それなのに、自然に身体が動いて彼女とまた会う約束をしている。
―俺、好きなのか…真知のこと。
そっと離れていく彼女の手をもう一度掴みそうになって思い留まる。これ以上はダメだ。彼女を困らせたくない…そう思い離した手をギュッと強く握り、彼女の背中を見送った。
◆◆◆◆◆◆◆
文月には珍しい雨の夜。
寝苦しさに目が覚めて和希はそっと布団から抜け出した。
生温い床の感触にうんざりしながらキッチンへと向かうと、冷蔵庫から冷えた麦茶の容器を取り出す。洗いおけにあった手近なグラスにソレを注いで一気に飲み干すと身体の中を冷たい感覚が走った。
「っはぁ」
ようやく生きた心地がして溜息を漏らすと、持っていたグラスを流しに置く。雨脚はより一層過激さを増してきて窓の向こうを叩いている。
―明日は雨か…。
ただでさえ蒸し暑い夏が嫌いだと言うのに、雨により更に蒸すのかと思うと明日が来るのが嫌になってきた。
盛大な溜息をもう一度ついて部屋に戻ろうと踵を返すと、そこにはいつの間にか母親が立っていた。
「あら、和希。眠れないの?」
「…暑いからね…」
この暑いのに半袖のパジャマにカーディガンを羽織る彼女に、苦い表情を返す。年を取ると感覚まで鈍くなるのだろか…。
「エアコンつけてるの?」
「つけてたけど、消えた」
年頃の息子と母親の会話なんてこんなモノで、それでも俺はまだマシな方だと思う。酷い家では会話も成り立たないとか…。
「暑いんだから、つけっぱなしでも良いわよ」
「喉痛めるから、やだ」
昔から喉は弱い方で、一晩エアコンに当たっているだけで風邪をひくなんて事もざらだった。いくら暑いからといって、その甘い誘惑に負けるわけにはいかない。自己管理くらいはしっかりしないと。
「ほどほどにね」
彼女は短く溜息をついて苦笑いを浮かべると、そのまま部屋を立ち去ろうとして振り返る。
「そうだ和希。来月の十五日、開けといてね」
「なに?」
「毎年行ってるでしょ」
「…?」
それだけ言うと、彼女は「おやすみ」と軽快に挨拶して寝室へと戻って行った。
―毎年…?
キッチンに立ち尽くしたまま和希は考え込む。
八月十五日…その日は確か何かがあった気がする。それが思い出せない。
不意に壁に掛けられたカレンダーを見つける。トボトボと重い足取りで目の前まで行くとカレンダーを捲った。
―八月十五日 終戦記念日―
カレンダーにはそう記されていた。
日本が降伏した日。亜米利加に敗北した日。
沢山の犠牲と、哀しみの爪痕を残した日―。
終戦からどれくらいの時が経ったのか、俺は知らない。
テレビではニュースや特別番組が形成され毎年のように悼むけれど、今の若い世代にはどうしても“過去”の出来事だとしか思えない。現実味のないゲームや漫画の世界の出来ごとの様な、そんな曖昧さがあった。
―うち、じいちゃんもばあちゃんも死んじゃってるしな…。
過去を語り継いでくれる人はいない。
どれだけテレビで情報発信をされても、それは所詮“テレビの中の話”と括られる。俺の住む地方では終戦記念日になると川に灯篭を流す―“灯篭流し”-が行われる。
地域によっては盂蘭盆に行うのだが、この地域では終戦を悼み流されていた。
「戦争…か」
遠い昔の出来ごとのような現実味のない言葉に溜息を漏らす。
雨はまだ止みそうになかった―。
◆◆◆◆◆◆◆
翌日―。
あの雨は嘘のように上がり、青空がのぞいていた。
「はは…晴れたよ」
苦笑いを浮かべ、和希は窓の外のお天道様を睨む。今日も一日暑そうで…雨も嫌だが、雨上がりの晴れはもっと嫌なものだと知った。
通学路を歩いていると目の前に大きな水溜りを見つける。
何ともなしに覗き込むと、そこには意外な顔が映り、
「おはよ、カズキ」
と、その顔は笑った。
「真知っ!?」
慌てて顔を上げ後ろを振り向くと、そこには確かに彼女の姿がある。
驚いて目を見開いたまま固まる和希に、真知は可笑しそうに「どうしたの?」と聞くと首を傾げた。
「何してんのっ?」
素っ頓狂な声を上げて動揺する俺に、彼女はクスクス笑うとスッといつものベンチを指さし「行こっ」と俺の手を引いた。
―まずいよなぁ…まずいって…。
ベンチに座るなり、和希は自問自答を繰り返す。
いくら授業は殆どないと言えども、無断欠席を繰り返せば親にも知れる。この間は「具合が悪くなって休んでました」なんて間抜けな言い訳が通じたから良かったものの、二度は難しい。何より、彼女―真知―は学校に行かなくて良いのだろうか…。
「カズキ?」
「……」
黙り続ける和希を不審に思い真知が声をかける。和希は思い切って真知に聞いてみる事にした。
「真知ッ」
「はい!?」
「学校に行かなくていいのか!?」
「…ガッコウ…?」
彼女は不思議そうな表情で見つめ返すと、そっと首を傾げる。本当に分からないようだった…。
―学校を知らない…?
「私、行けなかった」
「行けない?」
「うん…それどころじゃなかったもの」
「……」
真知の話す事が信じられなくて、俺は思わず身を乗り出す。
彼女は困ったように微笑むとそっとその眼を伏せた。
「私、過去の人間なの…」
「…?」
「ホントはね、ここに居ないはずなの」
「…意味が分からない…。だって真知はここに居るじゃないかっ!?」
張り上げた声は予想以上に大きくて自分でも驚く。それでも真知は怯むことなく言葉を続けた…。
「大好きよ、カズキ」
「なにをっ」
「初恋なの…恋なんてしたことなかったのよ…」
「……っ」
寂しそうな笑顔で微笑む真知の言葉に息をのむ。彼女はまるで少女のように頬を赤らめると掌を合わせて前に出す……その手が少し透けて見えたのは、きっと気のせいなんかじゃない。
「毎日毎日、ただ暗い中に居たわ。轟音が去るのを耳を塞いで願っていたの」
眉を顰め震える身体を抑えるように真知は自分のその小さな肩を抱いた。
「来る日も来る日も、見えない空に憧れてたわ…」
遠い記憶を辿るように彼女は眼を細める。疲れた様に一つ溜息をつくと視線を和希へと移した。
「…嘘…だろ?」
「……」
俺の言葉に、真知は寂しそうに首を振る。
「なんでっ」
「分からない…気付いたらここにいたの…」
どうしてここにいるのかも、どうして生きているのかも分からない。ただ気が付いた時にはココにいて、この世界の格好で彷徨っていたのだと…真知はそう言った。
茫然と彼女を見つめる俺の視線を避けるように、真知はまた空を見つめる。
少し寂しげな笑顔で手の届くはずの無い空を見つめる…そしてまた“唄”を口ずさむんだ。
「い~のちぃ…みじぃ~かしぃ……恋せよ、少女ぇ…」
その表情と同じくらい切ないメロディを、彼女は唄った。いつもの“鼻歌”ではなくて、歌詞のままに…。
『いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
いのち短し 恋せよ少女
いざ手をとりて 彼の舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰も 来ぬものを
いのち短し 恋せよ少女
波に漂う 舟の様に
君が柔手を 我が肩に
ここには人目も 無いものを
いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを 』
初めて聞く歌詞に耳を澄ませる。
その甘く切ない歌声に胸が締め付けられるようで、見ると彼女も泣いていた。
「なんで…泣いてんの…」
「だって…」
訳も分からず涙が出た。
彼女の涙を指で拭ってみるけど、後から後から涙は零れて止める事は出来なかった。
そっと彼女を引き寄せる。
今のこの気持を表現する事ができなくて、そのもどかしさごと彼女を抱きしめた。真知もそっと背中に手を回し抱きしめ返してくれると、二人はそのまま涙に濡れる。
どちらからともなく言葉はなくて、そっと引き寄せられるままに唇を重ねた。
「っん…」
真知の身体は冷たくて、微かに震えていた。
心に積もるわだかまりを溶かすように、その冷たい身体を温めるように抱き合う。あの日、出会った時のようにただお互いの存在だけを感じて、僕らは最期の時を待った―。
そっと身体を離す―涙は止まり、そこには俺の好きな彼女の笑顔がある。
「ありがとう…」
「…俺も、ありがとう」
気恥ずかしさからか、お互いに泣きはらした赤い目で不器用に微笑む。
どうして彼女に会えたのか、どうして俺だったのか、それは分からないけれど出会えた事が奇跡だと思った。
「さよなら…和希」
「さよなら」
繋いでいた手がゆっくりと解かれ、真知の身体が揺らぐ。白い光に包まれるように、彼女は夏の陽炎の中へと姿を消した―。
これが真知を見た、最期だった…。
◆◆◆◆◆◆◆
夏休みも半分を過ぎた葉月―。
八月十五日、終戦記念日。
俺は灯篭に火を灯し川の辺に佇んでいた。
まるで全てが夢だったように、後には何も残らなくてあるのはこの胸の痛みだけ―。
彼女が居た事を証明するものはない。勿論、誰かに話すつもりも無い。
ただ、今も時折風に乗ってあの甘く切ないメロディーが聞こえる。
―命短し…恋せよ少女―
最初に聞いた時、俺はこの歌は嘘だと思った。
女性の平均寿命が年々延びてきている中“命短し”なんて…と鼻で笑っていたかも知らない。でも…。
その誤解を解いたのは、母親の一言だった。
真知と別れた日から一週間くらいした頃、彼女の残した唄の歌詞が気になってインターネットを使って調べた。
色んな人が唄ったその歌の歌詞は、女性の恋を唄ったようで…やはりあの甘く切ないメロディによく合っていた。
でも歌詞に込められた意味がよく分からなくて、母親に尋ねてみる。
「母さん、“ゴンドラの唄”って知ってる?」
「何、急に…」
母親は変な物でも見たような表情を浮かべ、俺の顔を見つめた。初めは眉を顰めて怪訝そうな表情だった母親も、俺の真剣な眼に気圧されたように最後には苦笑いを浮かべる…少し眼を細めると、真知と同じようにあの歌を口ずさんだ。
「この歌は乙女…つまり少女でいる時間はあまりにも短いから、恋をしなさいと言っているのだとお母さんは思うわ」
「…うん」
母は少し困ったように考え込む。彼女も明確な答えを持っていないようだった。
「でも、きっと恋だけじゃなくて、生きることについても言われている気がするの…しっかり生きなさい。悔いのない人生を送りなさい…そんな風に」
「……うん」
この歌が作られたのは明治時代―。
自由恋愛なんて今みたいに当たり前じゃなくて、自由に生きる事も―自分自身を貫く事も―ままならなかったのかも知れないと思いを馳せた。
その後の戦争…人々は時代の渦にのまれ、自由に生きる事も抗う事も出来なかったのだろうか。そんな時代に彼女―真知―は生きていたんだろうか…。
この唄の歌詞を本当の意味で理解する事はできなかったけれど、なんとなく母さんの言った意味は分かったような気がした。
そっと川の水に灯篭をのせる。
暗い川にいくつも灯りが点り、夜を明るく照らして行く…。
―大好き、カズキ…―
不意に真知の言葉が蘇る。
俺は一人空を見上げた。無数の星が散らばる、彼女が憧れ続けた空を。
そして最後まで言えなかった言葉が、ようやく天へと還る。
「俺も…大好きだったよ。真知」
君に伝えたかった言葉。伝えられなかった言葉。
不意に涙が一筋頬を伝う。でもこれは哀しいからじゃない…。
―君は天へと還れたんだよね…。
遠くに消えゆく灯篭を見送りながら、俺は“戦争”が二度と起こらない平和な世界を望み、同時に真知の安息を願う。
降るように散らばる星空は、今も彼女があの甘く切ないメロディを口ずさんでいるように見えた――。
FIN