7.ラップトップの神様
【“トーコ”が入室しました。/××,04,05/18:02】
――それはもう、三年以上前のこと。
メモ帳機能で喋ることはやめ、初めてチャットにログインした日。その時まだ、サトコは彼の名を知らなかった。
【“神様”が入室しました。/××,04,05/18:03】
その瞬間の驚きをサトコはまだ覚えている。
思わず尋ねてしまったのだ。画面に表示された、不思議なその名の意味を。
【トーコの発言】:あなたは、「神様」なの?
【神様の発言】:トーコが“神様”と呼んだから、私は神様なのだよ。
彼は答えた。そこには一片の迷いも存在しなかった。
彼は答えた。わたしは「君」が呼ぶそれ以外の、何者でもないのだと。
【神様の発言】:おかしなことを聞くんだね、トーコ。
わすれて しまった の かい ?
* * *
「神様」と「レイ」。誰にも告げたことのなかった、秘密。
互いが途方もない告白をしたあの日以来、サトコはかなりの時間を黎也と共に過ごすようになった。表向き、学校では挨拶を交わすようになったぐらいで他にこれといった変化はない。けれど授業が終われば、黎也は必ず学校の裏手でサトコを待っていた。彼曰く、「レイがそうしろってうるせーから」らしいのだが。
黎也は本当に助けてくれる気でいるようで、始めこそ半信半疑だったサトコも今は心から感謝している。彼に全てを話したあの選択は、きっと間違っていなかった。
二人――否、レイを入れて三人だ――の当面の目的は、件の《神様》について調べることである。そして“約束”の内容を突き止め、期日までに条件をクリアしなければならない。
四年に一度の二月二十九日まで、残り一月半。現実的なその数字は、とても余裕があるとは言えなかった。
「……レイ、何て?」
黎也が通訳をすることで、見えない“彼”の意見も聞く。最初はぎこちなかったそれも、サトコが慣れるにつれてスムーズに行えるようになった。
「アキミヤの家のパソコン……ラップトップ? あれを外に持ち出せないのかって聞いてる」
今日も迎えた放課後を活用すべく、二人は並んで歩いてゆく。目的地は黎也の家の近くにある児童館である。常に鍵は開きっぱなし、管理人も存在せず建物自体もかなり古い――そんな児童館とは名ばかりのそこは、先日オープンした公民館の影響もあって余程の事がなければ人が入らない。
使える、と言ったのはレイだ。今のサトコ達には打ってつけの場所だった。
「持って来れないことはないけど……」
レイの問いかけに首を捻りながらサトコは答える。件のラップトップは検索能を持っておらず(ネット接続されていないのだから当たり前だ)、何かを調べる事には使えない。何故あれが必要なのか、さっぱりわからなかった。
「そ。じゃあ先にお前ン家寄ってこうぜ」
黎也は何も思わなかったのか、満足げに頷くとサトコの家の方向へ足を進める。
二人で行動を始めてから、黎也は良く喋るようになった。わかっていたことなのだが、やはり人と打ち解けるのが得意なタイプなのだろうとサトコは思う。
一番顕著に変化が現れたのは、サトコに対する呼びかけ方だった。他人行儀な「アンタ」が「お前」に変わり、時々は冗談のように「トーコ」とも呼ぶ。
というのも、どうやらレイがその呼び名を気に入って頻繁に口にしているためらしい。
サトコには、聞こえないのだけれども。
母の目を盗んで家からラップトップを持ち出すと、黎也が受け取ってそれを運んだ。ケーブルなどが一切繋がっていないそれは、重量の問題を除けば簡単に移動できてしまう。
そうして今度こそ二人は目的の建物へと向かって行った。
「これでよし……っと」
児童館の軋む引き戸を開けて靴を脱ぐ。館内は床が絨毯張りになっていて、一応土足は厳禁である。
本棚の中の絵本と僅かな児童書、古びた百科事典。誰の物だったのか分からない、耳のほつれたウサギのぬいぐるみ。対象年齢三歳以上の積み木セット。それから椅子とテーブルが一組。ここにあるのはその程度の物だった。それから――左端の欠けた鏡が一つ。
黎也はラップトップをテーブルに乗せると、奥の壁に埋め込まれたそれの前へ移動する。
「レイ、終わったぜー」
この鏡の存在も、二人が児童館を利用しようと決めた理由の一つだ。黎也はどかりと鏡の前に陣取って座る。サトコが覗き込んでみても、もちろんそこには黎也と自分しか映っていない。
「ねぇ、ラップトップを持って来たは良いけど……《神様》は何も教えてくれないし、どっちにしろまだ出て来れないよ?」
古い壁掛け時計を見ながらサトコが言う。時計の針は十六時を少し過ぎたところだ。最近は授業終了と同時に教室を飛び出すので、このぐらいの時間になることが多い。
「あー、だよなァ」
凝った肩をぐるぐると回しながら黎也が呟く。
――サトコの《神様》には、ラップトップを通して現れることのできる時間が決まっていた。十八時、それが境目の時刻である。そこから日付が変わる瞬間までの六時間だけ、《神様》はサトコと言葉を交わすのだ。一日の四分の一にしか満たないそれが、彼の活動時間だった。
それが運命なのだとサトコは聞いている。《神様》から最初に教えられたことだ。
「一時間以上あるな。……つーかさ、何で午後六時からなわけ?」
今の時間、まだ《神様》はラップトップの中で眠っているだろう。黎也にもこの決まりは話してあったが、詳細は伝えていない。サトコ自身わからないことだらけなのだ。それでも僅かに眉を寄せ、考えを巡らせながら質問に答える。
「はっきりとは……わかんないんだけど。何か“日が沈んでから”っていう前提があるみたいで」
「太陽がダメなの? ……吸血鬼っぽいな」
腑に落ちないらしい黎也に小さく笑って見せながら、ふとサトコは思いを馳せる。《神様》は太陽を知らないのだ、と。
だからサトコは、夕日を見ると《神様》のことを思い出す。落ちてゆく太陽を眺めながら、もうすぐ彼の目覚める時間だなと考える。
「あ、そーだ。アキミヤは……ん、何?」
「須賀くん?」
言いかけた彼の言葉が止まった。こういう時、喋っているのはレイの方だ。サトコにも段々とそれがわかるようになってきた。
「レイが何か言ってるんだけど」
黎也が聞こえ辛そうに顔をしかめたので、サトコは慌てて口を閉じる。言いかけの質問が気になったが、レイの言葉が通訳されてくるのおとなしくを待つことにした。
「ラップトップの電源入れて、チャットページ開けって」
「え? あ、うん……良いけど」
バッテリーはあるだろうか。そんなことを考えながらサトコはラップトップを起動した。
不可解なレイの指示。黎也ですらその意味を理解していなかったが、サトコにはもっとわからない。彼の顔が見えたら、声が聞けたら。詮無いことをサトコは思う。できたら、いいのに。
「はい、どうぞ」
目的の画面を表示して黎也のほうにディスプレイを向ける。いつもは《神様》の力で動いている、不思議なチャットだ。案の定彼は現れなかったが、ページを開くだけならこの時間でも可能らしい。
「おら、レイ。お前の望み通りになってんぞ……って、は? おい、……え?」
会話の声が困惑の色を帯びてぷつんと途切れる。レイの声が聞こえないサトコにも、その瞬間に何かが起こったことはわかった。
黎也がぽかんと口を半開きにして、目の前の一点を凝視している。彼の視線を追ってラップトップの画面を覗き込んだサトコも、その姿勢のまま硬直した。
【レイの発言】:トーコ、これで俺の言葉がわかるでしょ?
誰も入室していなかったチャット画面には、いつの間にか一行のメッセージ。
キーボードに一瞬白い指が走ったような、そんな幻をサトコは見た。
「「――うわあぁぁあぁあァァ!!」」
仰天した二人の叫び声が、綺麗に重なって館内に響き渡る。