6.キラルの双子
「いやいやいやいや。……ない。これはない。ちょっと待てって……」
黎也は思わず空を仰いだ。とはいっても見えるのはサトコの部屋の天井だけだったが。
そのパソコン――サトコ曰く“ラップトップ”――の不審点に気付いたのはレイだ。『見てみろ』と言われて素直に従った数分前の自分を、黎也は心の底から呪った。
なぜインターネットに接続されていないラップトップでチャットができるのか。今サトコと会話していた《神様》とは何者なのか。その答えがサトコの話で明らかになってゆくにつれ、黎也の顔色は一変した。
黎也は幽霊や魂といったオカルトの類は信じていない――し、正直苦手だ(ただし知っているのはレイだけだが)。鏡の中のレイは見えても、幽霊は見えない。見えないものは不気味でよくわからないから、あまり意識したくもない……というのが黎也の言い分である。
けれど安芸宮サトコは、どうやらそれに近いものと話をし、あまつさえその現場を黎也に見せてしまったらしかった。
――彼女の言う《神様》は、このラップトップに住んでいるのだという。
「住んでるって言うか、それ……」
『憑いてるんだろ』
心中の呟きがぴったりレイの声と重なった。思わず唸った黎也をサトコは申し訳なさそうな顔で見つめている。
「《神様》はこのラップトップの中にいて、外には出て来ないの。私と喋るためにはさっきみたいに文章にするしかないんだって。本当はメモ帳機能やワードだって構わないんだけど、チャットで喋ることにしたのは――もしお母さんとかに見られても、バレないだろうと思って」
「……なるほど」
《神様》なる人物(……人物? と黎也は首を捻った)と会話するためには、文字を表示できる条件下でなければいけない。しかしコンピューターに“住んでいる”謎の相手と話をしているところなど、他人に見られれば一大事だ。一見ディスプレイの向こうの人間と回線を通じて会話しているように見えるチャットは、カモフラージュには打ってつけだった。サトコなりに考えた結果なのだろう。
思考を働かせながら黎也は、面倒なことになった、と思う。サトコが何を思って自分に助けを求めたのかはわからないが、相手がこれでは。
『そろそろ本題を聞いたほうがいいんじゃないの?』
「……で、さ。アキミヤは俺にこの超常現象を見せてどうしたいの。《神様》の存在が不気味で嫌だってんなら、さっさとその機械ごと捨てちまえばいいけど……違うんでしょ?」
サトコの話を聞く限りでは、彼女が《神様》を疎んじている様子は全くなかった。むしろ良き話し相手として、これまで共にあったようなのだ。
「うん。あのね、《神様》は――約束があるっていうの」
『約束? どんな? 誰と? 黎也、聞いてよ』
「……。誰と、どんな約束を?」
レイの声が聞こえないサトコには、黎也が率先して話を進めているように見えるだろう。実際は現実から逃げようとする黎也を、レイの声がどうにか縛り付けているのだが。
問いかけに対してサトコはしばし目を伏せた後、申し訳なさそうに口を開く。
「わかんないんです……」
「は?」
「神様は、私との約束だって。約束の期限が迫ってることだけは教えてくれるんだけど、内容は全く……期日にあたるその日まで、約束の内容には触れちゃいけないんだって。それがルールだったでしょ、って……」
「はあ……?」
サトコが言うには、本人には全くその“約束”とやらの記憶がないらしい。初めて《神様》からその話を聞いたのは昨年の二月末で、突然「約束まであと一年」と言われたのだという。それからどんなにサトコが訪ねても、《神様》は期日以外の情報は洩らさなかった。
『約束の日っていつなの、ねえ黎也ってば』
「……約束の日はいつかわかってんの?」
レイがしつこく聞くので、渋々黎也は問いかける。サトコはその細い首で、一つこくりと頷いた。
「《神様》の話を聞くうちにわかってきたんだけど。《神様》が私と約束をしたっていうのは閏年の二月二十九日だったみたいなの。で、期限は四年。次の閏年の、二月二十九日に“結果発表”をするんだって」
「え、待ってよくわかんね……うるうどし?」
地球が太陽を一周するのは三百六十五日――と言われているが、実際にはプラス五時間と少しの時間がかかる。その余分を積んで、四年に一度二月の日数を増やして暦の差異を修正するあれだ。思い返しながら黎也は首を傾げる。確かに今年は閏年だと、ニュースでも言っていたが。
「四年前に約束? えっと……いち、にー、さん……」
指折り数えて、やっぱりおかしいと黎也は呟く。
「アキミヤが《神様》と初めて会ったのは誕生日だろ。四月だっけ、六年になったばっかの頃でしょ? 閏の二月なんて終わってるじゃん」
「そうなの。前回の閏月は小学校五年生の終わりだから、まだラップトップも持ってなかったし」
「ンだよそれ、《神様》の勘違いじゃないの」
「そうだと思うんだけど……!」
いつも温和な《神様》はその一点に関してだけは頑固で、頑なにサトコの言葉を聞き入れないのだという。説得はすでに何度もチャレンジ済み、ということらしい。
それじゃあ、と諦めたように黎也は言った。
「忘れたフリしてスルーしちゃえば? 約束の期日ってのがマジで二月の終わりなら、あと一か月半ってとこだけどさ……」
「あの、あのね……」
不意にサトコの声が泣きそうに歪んだので、黎也はぎょっとして顔を上げる。
「一度だけ神様が、たぶんうっかり、言ったことがあるの。“見つからなければトーコが一緒に来てくれる、楽しみだ”って」
「一緒に、来る……?」
口に出して黎也はぞっとした。一緒に来るとはつまり、サトコを連れて行くという意味だ。この世に確固とした形を持たない者が、彼女を。どこに?
『うわ。ホラーだな』
「言ってる場合か!」
思わず叫んではっと口を噤む黎也を、サトコが不思議そうに見つめる。その瞳は不安に揺れていた。彼女は本当に困っていたのだと、そこでようやく黎也は理解する。
「わ、私本当にどうしたらいいかわかんなくて……誰にも言えなくて、でも時間がなくて……」
「……ああ、うん。そうデスヨネ……」
「でももしかして、須賀くんなら私の話、信じてくれるんじゃないかって……」
「そりゃさっきの見せられたら信じるしか――――え?」
何で、俺ならって?
黎也が首を傾げるのを見て僅かに躊躇いを見せたサトコは、やがて細く息を吐くと今までのことを洗いざらい告白した。須賀黎也が変人と呼ばれているのに興味を持ったこと、《神様》と共に黎也を観察していたこと、そして図書室でのこと。
「今日、学校でこっそりクラスの男の子に聞きました。須賀くんが変人って呼ばれるのは、鏡に向かって独り言を言うからだって。小さい時からの癖なんだって」
「あ、あーうん。そうそう、てか俺今日それを言おうと……」
「でも! ……でも、私は違うと思ったの。独り言なんかじゃなくて、あれは“会話”だって――きっと、須賀くんにしか見えない誰かがいるんだって思ったの」
言い切ったサトコに、黎也は息を詰まらせた。本気かよ、と思わず呟いてしまう。
「本気です。だから――須賀くんならわかってくれるかも、って」
サトコにはレイが見えない。見えているはずがない。けれど長い間《神様》という“人ならざる者”と触れ合うことによって、彼女にはその手の勘が働くようになったのかも知れなかった。
(……なんだよ、これ)
いったいどうしようか、と黎也は頭を抱える。こんなものは完全に、想定外の展開だ。
『これは誤魔化しても無駄だよ、黎也』
(でも、)
『手伝ってやろうよ。お前だってここまで聞いて、この子をほっとけないだろ?』
(それは、そうだけど)
どこかあっけらかんとした、楽しそうにすら聞こえるレイの声に眉を寄せる。しばらくしかめっ面を続けて、そうしてようやく黎也は覚悟を決めた。
「……アキミヤ、わかった。どうすれば良いかわかんないけど、手伝う」
「ほ、本当に!?」
「ああ。それから……今から話すこと、笑うなよ」
「うん」
「絶対馬鹿にするなよ」
「うん」
サトコの真っ直ぐな目が信じろと言っているようで、どうにか続きを口にする気になれた。黎也はそっと息を吐き出す。知らず力を入れていたらしい身体が、ふっと楽になった。
「……俺には、小さい時からずっと一緒のやつがいる。一緒に育ってきて、双子みたいな感覚で。ずっと声は聞こえてて、鏡を見た時だけそいつの姿も映るんだ」
「…………」
「アンタが図書室で見たのは、ちょうど喋ってる最中だった。他の連中には今まで、癖だって誤魔化してきたんだけど……俺には見えるし、聞こえる」
「……ほんとに?」
こんなくだらない嘘を誰が好き好んで吐くだろうか。背が足りない分、下から覗き込むようにするサトコに本当だ、と言い切った。さてどんな反応が返ってくるかと黎也は身構える。
「……すごい。素敵!」
「……は?」
「本当に、本当だった! 須賀くんにしか見えないなんてすごい! ねぇ今もそこにいる? 鏡覗いたら、須賀くんには見える? どんな顔してるの?」
なんだこいつ。
数刻前にも思ったことを再び黎也は考えた。不気味だとは思わないのか、気持ち悪くはないのか。レイをそんな風に思ったことは勿論ないが、それが他人もそうであるとは思えない、のに。
黎也が言葉を失っている間に、サトコはすっかりはしゃいだ様子で質問を重ねている。背は、声は? いつも一緒なの?
「性格は? 二人って仲良いの? ねえ名前は?」
『……素敵、だってさ。なんか一つぐらい答えてやれば。俺にそっくりだよ、って言ったら一発じゃん? ……黎也? おーい黎也ァ?』
「う、うるせー!! レイは黙ってろ!!」
ありったけの声で叫んでから、しまったというように黎也は口を押さえた。もう遅いということは、本人もわかっていたのだけれど。
ふふ、とサトコが声を漏らした。
「レイって言うんだね。黎也からとったの? 須賀くんが名前つけたの?」
「あー、あーもう! だって名前無いと困るだろ!」
俯きながら言う黎也を見て、にこりとサトコは笑う。そのままやや上のほうに視線をやって、柔らかな声を見えない相手に投げかけた。
「安芸宮サトコです。よろしく、レイ」
『よろしく。黎也が役に立たなければ俺が助けてあげるよ、トーコ』
サトコには聞こえないその声を受け取って、黎也は一層項垂れた。勝手なこと言ってんじゃねーよ、と思う。レイはすこぶる機嫌が良いらしく、くすくすと笑っていた。
楽しげなその音を耳にしながらそっと黎也は目を閉じる。こんな日は一生来ることがないと、思っていたのに。
――レイの存在を黎也以外で認めた人間は、サトコが初めてだった。
なんと今年がまさに閏年。私、どれだけこの話放置してたんでしょうか