19.ラップトップの神様
昔々ある処に、ひとりの鬼が住んでいました。
鬼は山の奥深くでひっそりと暮らしていましたが、時折夕闇に紛れては、人里を訪れていました。
夕暮れ時は「誰そ彼時」。沈んでゆく太陽に照らされて、顔の判別がつきません。
彼はとても小さな鬼でしたから、その角さえ隠してしまえば、人間のようにも見えます。
彼はひとりぼっちでした。けれど寂しいとも、退屈だとも思ったことはありません。
黄昏時に人に紛れ、誰かを驚かせたり攫ったりする「遊び」で、彼はとてもとても満たされていたのです。
ある日小さな鬼は、いつも通りに人里へと降りて行きました。
今日は誰にいたずらしてやろうか。それとも誰かを連れ去ってやろうか。
わくわくしながら道を歩いていると、遠くからひとりの女の子がやってくるのが見えます。
「よし、今日はあの娘にしよう」
鬼は身体いっぱいに夕日を浴びながら、ゆっくりと女の子へ近付きました。きっと女の子のほうからは、彼の姿がよく見えないでしょう。彼の頭に生えた小さな角にも、気付かないに違いありません。
「こんばんは。こんなところで、何をしているんだい?」
小さな鬼は人間に似せた声で、女の子に声をかけました。
「あなたは誰?」
鬼の質問には答えず、女の子は言います。長く伸ばした黒い髪が、風に吹かれてさらさらと揺れました。
「誰だと思う?」
鬼は少し意地悪な気持ちになって、そう問い返します。すると女の子は、最初から答えを知っていたかのように臆することなくこう言いました。
「人間では、ないんでしょう」
小さな鬼はとても驚きました。どうしてわかったのだろう。自分の角や長く伸びた爪は、ちゃんと隠せているはずなのに。
「そうだよ。私はあの山に住む鬼だ。君のような娘を攫って、食べてしまうかもしれないよ」
「そうなの。別に私を食べてもいいわ」
女の子が怖がるそぶりを全く見せずにそんなことを言うので、鬼はもっともっと驚きました。
なんて不思議な女の子だろう。
「私、鬼も幽霊も怖くなんてないわ。もっともっと怖いものが、この世にはあるのよ」
* * *
サトコの指がページを一枚ずつ捲ってゆくのを、黎也はじっと眺めていた。
「ラップトップの神様」を最初に読み切ったのは黎也だ。先に読んでほしいと、サトコが頼んだ。
三崎冬子の作った童話は一冊の本になっていたが、厚みもそれほどではないし字も大きかったので、読むのにそこまで時間はかからない。聡の本屋を出た後の帰り道、その電車の中で黎也はそれを読み切ってしまった。同時にちゃんと、レイの頭にもその内容は入っている。
間違いない、と思った。童話は冬子と《神様》の物語だ。
夕暮れ時に出会った女の子と鬼は、何度か会話を重ねて親しくなってゆく。鬼は女の子に興味を持ち、そして惹かれ、その傍にいたいと望むようになる。女の子もまた鬼に心を開いてゆき、一緒にいたいという彼の願いを聞き届ける。そして黄昏時にしか人里へやって来れない彼のために、居場所を用意するのだ。
――――それが、ラップトップ。
「……どう思う、レイ」
サトコの自室に戻って十五分。流し読みを得意とする黎也に比べて、サトコは一文字一文字丁寧に読み進めてゆくから、まだ時間がかかるだろう。
終わりを待つ傍ら、読書の邪魔にならない程度の声音で黎也は片割れに問いかける。
『それは、あの童話がどの程度本当か、って意味?』
「うん、そう。鬼がラップトップに住むことなんて、可能なのか」
『俺は鬼じゃないからわからないけど――でも、ないとは言い切れないと思うよ』
同じ“カタチのない者”としての意見だけどね。レイは口にする言葉を吟味するかのように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『鬼は黄昏時にしか人里へ降りてこない。それは自分の姿を隠す意味合いもあっただろうけど……幽鬼の類は大抵、形を保つためにとても力を使うんだ。自分の力が強くなる時間帯にしか、形を保てない。その時間帯にしか、確かな存在として人の前に現れることができない』
「つまりその時間帯が“誰そ彼時”?」
『うん。あとは有名なトコでいくと、“彼は誰”と“丑三つ”。まあ簡単に言えば、昼間は一番ムリってこと』
つまり、と黎也は顎に手を当てて考えた。形のないレイが黎也を拠り所としているように、神様も。
「冬子の傍にいるには、依り代が必要だった。姿がなくても冬子とコミュニケーションがとれるようなツールが……」
『そう。だからラップトップ――考え的には間違ってない』
物語の中で鬼はいつしか、少女に《神様》と呼ばれるようになる。家に籠りがちな“女の子”は毎日ラップトップに向かい、《神様》とたくさんの話をしてゆくのだ。
(……でも結局、ラップトップに憑くくらいじゃ鬼はその力を保てなかった)
童話を読んでいくつかわかったことがある。一つは今サトコと共にいる《神様》が、ラップトップを通してもなお夕方以降しか活動できない理由だ。
物語の中で小さな鬼は、ラップトップを通して少女と親睦を深めてゆく。それは最初、昼夜問わず一日中行われていた。それが少しずつ、会話の回数が減ってゆく。そして最後はとうとう、夕方から夜にかけてだけになるのだ。
童話によればそれは、「神様が眠る時間が長くなったから」らしい。嘘ではないだろうとレイは言う。ただ真実は、もう少し複雑だろうとも。
『鬼の活動時間が黄昏以降なら、昼は相当無理して力を使っていることになる。ラップトップに宿ることでカバーできていても、消耗は避けられない。画面に文字を打ち出すのだって大変なことなんだから』
「だから自然と眠る時間が長くなる。回復しなきゃ、次の日また冬子と喋ることさえできなくなるから――って、レイ、」
もしかしてお前もラップトップに入ると“消耗”するのか?
黎也の問いに微かな――ほんの微かな沈黙が落ちた。違和感を悟るには短いほどの間をおいて、レイは笑う。
『俺は平気。昼だって元気じゃん。眠る必要もないし』
「ああ、そうか……」
やっぱお前は別のモノなんだよなぁ。しみじみと黎也は呟くのを聞いて、レイもそれを肯定した。
レイは魂の断片だ。この世に生まれそこなった、黎也の片割れ。
『俺は、力を温存する意味なんてないからね』
「――? 今何か言ったか」
『……いや? 何も』
空耳だよ。そう言って笑いながらレイは思う。また声が届かなかった、と。黎也との間に少しずつ壁が出来てゆく。否、少しずつレイが離れて行っているのだ。
希薄になってゆく己の存在を、レイはとても冷静に見つめている。最初から決められていたタイムリミットだから、覚悟はできている。十五年かけて言い聞かせてきたのだ――ここまでで十分だ、と。
『……幸せ者だよ、神様は』
魂の重量はずいぶんと軽くなっただろう。だからレイは、残された時間で何ができるかだけを考える。
取り返しのつかない「別れ」が二人に訪れ、黎也が絶対的な喪失を経験するその日までに。これまでの時間が、黎也の存在が、どれだけ大切であったかを残しておきたいのだ。
――三崎冬子が《神様》に、そうしたように。
「――トーコ?」
どのくらい時間が経ったのだろうか。不意に黎也が声を上げたので、レイの意識も物思いの淵から浮上する。
呼ばれたサトコは顔を上げていたが、ぼんやりと視線を虚空に彷徨わせていた。胸には閉じられた童話を抱えている。読み終わったのかと黎也が問えば、こくんと一度だけ首を落とした。
「どうだった?」
「………、」
「トーコ……?」
「あのね、」
わかったの。そう呟いたサトコの声はどこか泣きそうで、黎也は思わず身構える。しかし心配に反し、その瞳から雫が落ちることはなかった。
「大丈夫、泣いたりしない」
「……。」
「わかったの。冬子さんがこの童話を書いた理由がわかったから、嬉しくて、ちょっと切ないの。冬子さんがこの話を読んでもらいたかったのは、私なんかじゃない――」
そこで言葉を詰まらせたサトコが下を向いたので、やっぱり泣いてしまったのかと黎也は思う。ものの数秒後には結局それが杞憂であったことを知るのだが――サトコの一挙一動が気にかかる己に、黎也はどこか違和感を感じた。たぶん、気のせいなのだけれど。
「――――ねぇ、わかったよ、神様……」
祈るようにサトコが呼びかけても、ラップトップから返答はない。
* * *
ごめんなさい、と女の子は言いました。
ごめんなさい、神様。あなたとの約束は守れない。
「だって私には、約束の日よりもっと早く、行かなきゃいけない所があるから」
小さな鬼は機械の中で眠ったまま。女の子の言葉は届いていません。
けれど女の子は、鬼に向かって何度も何度も話しかけました。
聞こえていないことはわかっていましたが、そうせずにはいられなかったのです。
「ごめんなさい、神様。あなたと一緒にいたかった」
「あなたと一緒にいきたかった」
「連れて行って、ほしかったのに」
女の子は、小さな鬼と過ごすことができなくなってしまったのです。
遠くへ行かなければいけないのです。とてもとても遠い場所です。
一度行けば、もう戻ってくることはできません。
「ごめんなさい、神様。約束の日が過ぎたら」
「どうか、私を忘れて」
「忘れて、あなたは幸せになって」
「誰よりも優しい、小さな神様」
だから女の子は、お別れを言わなければいけないのです。
「大好きな、私の神様」
『 ―――――――トーコ。 』