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16.キラルの双子


『……也。黎也』


呼ばれていることに気が付いて、ふと黎也は足を止めた。注意深く周囲を確認して他に誰もいないことを確かめる。


「ん。どした」

『もうすぐ誕生日だね』


誰の、なんて言わずともわかっている。他でもない黎也自身の誕生日だ。

三月三日――女児の祝い日でもあるその日はもうすぐ側まで来ていた。サトコの“約束”が一足先に期日を迎えてしまうため、すっかり忘れかけていたのだけれど。


『今年はどうしようか』

「そうだなぁ……お前、何が欲しいの」


問いかければレイが笑う気配がする。


『―――――――、』

「え、何?」


随分と控えめに告げられたその言葉が聞き取れず、思わず黎也は聞き返した。けれどレイはそれ以上言葉を繋げずに、『何でもないよ』とはぐらかしてしまう。

……最近、こういう事が多い。


(……何なんだ?)


黎也は内心不満に思う。文字通り“二心同体”である彼らの間には、いかなる隔たりも存在しないはずだった。もとより常に共に在る状態では、秘密や嘘や隠し事は無駄でしかない。思考を読めるわけではないが、互いが互いのことを一番良く知っている。


「――レイ、何かお前最近変じゃね?」


しかし上述した前提があるにも関わらず、レイは近頃不自然な様子を見せるのだった。わざと含みのある言い方をしたり、言葉尻を濁したり――今のように、はぐらかしてみたり。わざわざ小声で囁いておきながら、黎也が聞き取れないとなかったことにしてしまう。


『何が。それより俺、楽しみにしてるんだ。今年はトーコが一緒に祝ってくれるんでしょ? プレゼント貰えるんじゃない?』

「し、知らねーよそんなもん!」


レイがあっさり話題を戻したのが面白くなかったが、ついつい黎也は反応して言い返してしまった。ひひ、とレイの笑い声が聞こえる。


『嬉しいでしょ』

「何が! いややっぱ言うな!」


レイの言葉に含まれたものには薄々気付いていた。けれどそれを認めたくなくて、頑なに黎也は耳をふさぐ。無論その行動は意味などなさないのだが。


『もうすぐ十五歳、か……』


頭の内側から聞こえる声には耳を覆った手のひらなど関係ない。黎也は渋面を浮かべながら、それはお前もだろうと考える。


『……あっと言う間だったな』


感慨深げなその声は、何故だか鈍くぼやけて聞こえた。寝不足だからかな。思って黎也は眠たげに目を擦る。それから一度伸びをして、再びゆっくり歩き始めた。

目指すはサトコの家だ。久しぶりに訪ねる時間ができたのである。


――彼女に話さなければいけないことは、たくさんあった。






* * *






「……どーしたの須賀くん、その目」


玄関に現れた黎也を家の中に招き入れながら、思わずサトコは問いかけた。生返事をする彼の目の下に、色濃い隈ができている。


「徹夜した」


簡潔に言い切ってのそのそと部屋に向かう黎也の背を、サトコのもの言いたげな視線が追いかけた。

体質的に睡眠不足は大敵だとわかっているはずなのに、何故眠らなかったのか。そんなサトコの疑問はしかし、ものの数分で解決することになる。



「――“トーコ”を見つけた」


サトコの部屋に入って開口一番に黎也が言い放つ。ちょうどドアを閉めたところだったサトコは、ノブに手をかけた状態のまま硬直した。

――何だか嘘のような言葉が聞こえた気がした。


「本名は“三崎冬子”」


鞄から数学のプリント――今日の授業で提出するべき課題のはずなのだが――を引っ張り出した黎也は、その裏にさらさらと字を書き込んでみせる。


「お前の叔父さんが住んでたあの町で暮らしてた」

「暮らして『た』?」

「そう。――享年二十歳、らしい」


キョウネン。聞こえた音を漢字に変換するまでに、サトコの頭はしばしの時間を必要とした。正しい言葉として咀嚼し終え、みるみるうちに顔色を変えてゆく。


「それって死ん――亡くなって、るの?」

「ん。病気だったみたいだ。町近くの大学に通ってたんだけど、二年生の後半から休学してる。最後の数ヶ月は入院して、そのまま」

「――……、」


押し黙ったサトコに黎也は、“冬子”を見つけるに至った経緯を簡略化して説明した。メモ帳と化した藁半紙のプリントがあっと言う間に黎也からの情報で埋まってゆく。

サトコはそれを信じられない気持ちで見つめていた。独りぼっちにされたような寂しさを感じていた昨日の自分を恥じる。黎也はサトコの為に、動いてくれていたのに。


「……というわけだから、行くぞ。明日学校が終わったらすぐ出発な」

「え、どこに!?」


唐突に話題が切り替わってサトコは目を丸くする。黎也は悪戯っぽく笑って、またプリント裏に何やら書き込んだ。どうやら何処かの住所と電話番号らしい。


「レイと寝ずに調べたんだ。“冬子”が最後に入院してたっていう病院の場所」

「病院……」

「当時のことを覚えてる医者や看護婦がまだいるかもしれないだろ。――もう時間がないんだ。行くしかない」


真剣な声音に少し息を呑んで、それからゆっくりとサトコは頷いた。少しでも可能性があるならそれに縋るべきだ。せっかく黎也が探してきた手掛かりを、無駄にすることなどできない。


「わかった、行く」

「よし――そうだ、トーコの方は何か新しいことわかったか?」


暫くの間疎かになっていた情報交換をしようとする黎也に対し、サトコは申し訳なさそうに肩をすくめた。忙しく飛び回っていた彼に比べれば、サトコは何もしていなかったに等しい。


「あの……ホント、役に立たないことしか」

「何でも言いよ。言ってみ?」


柔らかく促されてサトコはほっと息を吐く。


「あのね、《神様》が自分のこと、“チミモウリョウのたぐい”だって」

「は? ちみも……何?」


今度は黎也がきょとんとする番だった。一瞬サトコの口から飛び出した言葉が日本語だったのかすら疑ってしまう。


「すっごい難しい漢字なの。私も読めなくて、神様に教えてもらったんだ」

「ふぅん……今書ける?」

「む、無理です」


だよなぁ。呟いた黎也の耳に、不意にレイの声が聞こえた。


『ラップトップで漢字変換してみたら良いんじゃない』

「あー、そうか。トーコ、これ借りるな」


一言断ってから黎也はラップトップの電源を入れた。起動を待ちながら、こういう時携帯があれば便利なんだろうなと考える。黎也もサトコも中学校の校則で、携帯電話は所持していないのだ。


「――うげ。何だコレ」


魑魅魍魎。画面上で変換された言葉をまじまじと見つめて黎也は眉根を寄せる。どういう意味なんだ? サトコと二人揃って首を傾げていると、突然ラップトップの画面がチャットページに切り替わった。

レイが“入った”のだ。


【レイの発言】:魑魅魍魎っていうのは“この世に在らざるもの”の総称だよ


カチ、という機械音と共に表示された言葉を黎也はゆっくり目で追った。その隣でサトコもまた真剣な表情をする。


【レイの発言】:幽霊や鬼、物の怪や土地神……形の無い存在を昔の人はそう呼んだんだ


すごい、とサトコが呟く。レイは物知りなんだね。同意を求められて黎也も曖昧に頷いた。黎也からすれば、レイがその知識をどこから仕入れたのか不思議で仕方がないのだが。


「……《神様》は自分のこと『幽鬼』に近い存在だって言ってた。字は幽霊の『幽』に、鬼ごっこの『鬼』ね。魑魅魍魎、も似たような意味だったんだ」

「鬼、か……」


その時黎也はふと、サトコの叔父である聡を脳裏に思い浮かべた。彼の話していた言い伝えが頭を過ぎる。

……黄昏時に現れて人を攫う、鬼の話。


「……って、待て待て。何か納得したけどこれってヤバイんじゃないの」

「え、何が?」


のんびりと尋ねるサトコの様子に軽い頭痛を覚え、思わず黎也は指先でこめかみを揉んだ。


「……そりゃあさ、最初からわかってたよ、この中にいるのが本物の神様じゃないことくらい」


ラップトップの端を拳でコンコンと叩きながら黎也は続ける。


「でもさ、《神様》の正体が鬼や妖怪や幽霊だとしたら――そんなもんが本当にいるんだとしたら、トーコはかなりタチ悪いやつに目ェつけられたってことじゃねーの?」


黎也の知識上、“幽霊”は大概が未練や怨みを根底に持つ恐ろしいものだ。“鬼”は人を喰い“あやかし”は呪いや災いと共に在り、“土地神”は祟る。

どれもこれも、良いものとは到底思えない。


「で、でも《神様》は平気だよ! いつだって優しいし、ずっと私の味方だよ」

「だけどお前を連れて行こうとしてる。“冬子”の代わりにな」

「そう、なんだけど……」

「《神様》の目的がトーコを攫って喰うことだったらどうする気だ?」

「…………っ」


弱り切った様子のサトコを見て黎也は小さく息を吐いた。ちょっと意地悪だったかな、と反省する。


「……ま、考えても仕方ないよな。悪ィ、眠くてさ、ちょっと言い過ぎた」

「そんな、須賀君は正しいこと言ってるよ! でも、あの……よかったらちょっと寝る?」


黎也の目の下にくっきりと浮かぶ酷い隈を見ながらサトコが勧める。黎也は少し身体をふらつかせていて、傍目からも限界だとわかった。


「コレ貸すから、使って」


差し出された柔らかなクッションを黎也はぼんやり見つめる。お言葉に甘えれば? と、どこか遠くからレイの声も聞こえた。


「……ん。じゃあちょっと借りる」


逡巡の後、黎也は受け取ったそれを枕にごろりと横になる。


「たぶん……三十分くらいで起きるから……俺寝てる間、ちょっとレイの相手してやって……」


消えそうな声で呟くなり、黎也は吸い込まれるように眠りに落ちた。残されたサトコはすぐに聞こえてきた寝息に耳を傾けつつラップトップを見つめる。そうしてそっとキーボードに指を走らせた。


【トーコの発言】:……だってさ、レイ


疲れ切っているらしい黎也を見てサトコは申し訳ない気持ちになる。けれどチャットにログインして書き込む瞬間、どうしても堪えきれずに笑みが零れた。

――寝入り際の、ほんの無意識の一言だったかもしれない。それでもレイの相手を、と頼まれたことがサトコは嬉しかったのだ。

黎也が自分に気を許してくれている。彼が何よりも大切にしているレイと、関わることを許してもらえている。何だか黎也の“特別”になれているような錯覚を覚え、サトコは一度目を閉じた。


【レイの発言】:うん。黎也からのお許しも出たことだし話そうか、トーコ


すぐにレイからも返事が来る。

――こうやって二人きりで話すのは二度目だった。以前もこんな風に、黎也が眠っていて。


【レイの発言】:二回目だね、トーコ

【トーコの発言】:うん


レイも同じ事を思っていたらしい。思考を読まれたかのようなタイミングでの書き込みにサトコは小さく笑った。


【レイの発言】:ちゃんと黎也が寝てくれてよかった。また二人だけで、話したかったんだ

【トーコの発言】:そうなの?

【レイの発言】:そう。


まるで黎也がこうなることを予期していたかのような口振りだ。画面に表示されたレイの言葉を読んで首を傾げたサトコは、次の瞬間目を見張る。


【レイの発言】:トーコ、君に話しておかなきゃいけないことがある。

【レイの発言】:黎也には、内緒だよ

【レイの発言】:君にだけ教えるよ。俺の秘密

【レイの発言】:黎也には、言えない


急に書き込みのスピードが増した。しかもサトコの返信を待たずに次々表示される文章は、どういうわけなのか現れる端から消えていく。レイがそうしているのだろうか。怒涛の勢いで連なる文字の表示と削除のスピードが速く、サトコは読むだけで精一杯になる。


【レイの発言】:その為に黎也の睡眠時間を削ったんだから。

【レイの発言】:ここに来たら眠くなるように、夜中に起きてるように

【レイの発言】:俺が、そうした

【レイの発言】:――前回も、今日もね


何とかその言葉を読み切ったサトコは、意味を理解すると同時に目を見開いた。


「――待って!」


黎也の睡眠時間を、削った――その捨て置くには重大すぎる一文を読んだ瞬間、思わずサトコは小さく叫んでいた。すぐ傍で黎也が眠っていることを考慮する余裕は無かった。

訴えに呼応したかのようにぴたりと怒涛の書き込みが止む。今のうちだ。思ってサトコはキーボードに手を伸ばし、素早く質問を打ち込んだ。


【トーコの発言】:待って、レイ。ちゃんと話して。わざと須賀くんが寝不足になるようにしたの?

【レイの発言】:――そうだよ


横目でちらりと確認すれば、黎也はクッションに顔を埋めて深い眠りの中にいる。声を出したことで起こしてしまったかと危惧していたサトコは、ほっと安堵の息を吐いた。


【トーコの発言】:なんでそんなことしたの。私と話すにしたって、そこまでする必要は……


再び画面に向き合ったサトコは自然と問い詰めるような形でレイに尋ねる。

黎也が自分のために尽力してくれていること、それが彼の負担になっていること。サトコはそれをもう十分に理解していた。だからこそ、それ以上に黎也を追い込むようなまねは避けなければいけないのに――――どうして、とサトコは一人呟く。


【レイの発言】:トーコ、怒った?


レイから返信があるまでに、しばしの時間がかかった。そこにあったのは質問の答えではなく、新たな問いかけ。


【トーコの発言】:怒った、っていうか……。


想定外の質問にサトコは言い淀む。刹那の間に沸き立った気持ちが漸く落ち着いてきたのを感じながら、慎重に言葉を選んで打ち込んだ。


【トーコの発言】:どうして、って思う。

【レイの発言】:……うん

【トーコの発言】:レイは須賀くんが大事でしょう? たぶん、一番。なのに須賀くんの健康を害するようなこと、どうしてするんだろうって


素直な気持ちを書き綴った。事実サトコは、レイに対して怒ったわけではないのだ。そんな権利が無いこともわかっている。けれど心配で、無理はして欲しくなくて、なのに自分が重荷になっている――そんなやるせなさが憤りに似た形に姿を変えて、サトコの中で燻ぶっていた。


【レイの発言】:大事だよ。何よりも、誰よりも。この世界で一番大切だよ。


カチリ。リロード音と共に紡がれた言葉が画面上に並んでいく。今度はすぐに消えてしまう事はなかった。まるでサトコにそれらの文章をしっかり見せつけるかのように。


【レイの発言】:だからこそ、黎也には聞かせられない話だ。……こうするしかなかったんだ。


黎也とレイは離れることがない。彼に聞かれないよう話をするには、黎也自身がその意識を手放しているような状態以外では叶わない。

その道理はサトコにも理解できた。けれどそこまでして黎也に知られたくないようなことがレイにあるのだろうか。それをどうして、自分に話そうとするのか?


(レイが須賀くんに、秘密?)


そう言えば以前二人だけで話した時も、レイの様子はどこかおかしかった。


【レイの発言】:あのね、トーコ。


この違和感は何だろう。怪訝に思ってふと眉を寄せた、その瞬間――信じられないものがスクリーン上に表示されたのを、サトコは見た。









【レイの発言】:俺はもうすぐ、消えてしまうんだ









言葉の意味を理解するまでに三度読み返した。しかし意味を飲み込んだ後でも、サトコにはレイの意図するものがわからなかった。


【トーコの発言】:……何? 何の話?

【レイの発言】:あはは、信じてない? これ本当の話だからね。冗談とかじゃないよ


嘘なんか言わないよ。そう、可愛らしい内緒話を打ち明けるようにレイが言う。


【レイの発言】:トーコ、黎也の誕生日は覚えてる?

【トーコの発言】:……三月三日、でしょ?

【レイの発言】:うん、そう。覚えててくれて、ありがと


唐突に話が変わってサトコは目を白黒させる。もしやレイは、自分をからかっているのだろうか――。


【レイの発言】:俺は、黎也が十五歳になると同時にこの世から消えることになってる


――冗談なんかじゃ、ない。直感で悟って、サトコは背筋がみるみるうちに冷えてゆくのを感じた。

レイが、黎也を世界一大切にしている彼が、こんな嘘を吐くわけ無い。


【レイの発言】:三月三日の夕方、五時三十分。それが黎也が生まれた時間。

【レイの発言】:黎也が十五歳を迎えるその瞬間までが、俺に与えられた猶予だった


事実だけを述べるように、淡々とレイの書き記した文章が画面上に並んでゆく。


【レイの発言】:その日、太陽が沈んだら、俺はもうこの世界にはいないだろう

【レイの発言】:黎也を一人置いて俺は、消えてしまう。

【トーコの発言】:……消える、って?


呆然としながら、それでも何とか書き込んだ質問には冷静すぎる返答があった。


【レイの発言】:黎也には俺の姿も声もわからなくなる。死ぬことに近いけど、俺は身体がないからね――文字通り、跡形もない消滅。最初から俺の存在なんてなかったかのように、黎也は独りになる。ただひとり、に


(――嘘だ)


否定してみても頭のどこかで、冷静に物事を把握している自分がいることにサトコは気付いていた。レイは真実を告げている。サトコにこれを伝える為だけに今の状況を整えたのだ――黎也を眠らせ、二人きりになる機会を。

冗談でここまでやるメリットは何もない。わかってもなお、サトコの心は告げられた事実を否定したがった。


「嘘、だ」


せり上がったものが喉から溢れて今度は声が出た。よほど深い眠りの中にいるのか、それでも黎也は目覚める気配がない。

今すぐ叩き起こしてレイの話を気かせるべきかも知れない――サトコは迷うように黎也のほうに手を伸ばす。

しかしそれを止めたのはレイだった。


【レイの発言】:お願いだトーコ、そのまま聞いて。黎也には言わないで。


どうして。サトコはくしゃりと顔を歪めた。この事を一番知っていなければいけないのは、自分ではなく黎也だ。

そんなサトコの心中が聞こえたかのようにレイが続ける。


【レイの発言】:今これを知ったら、黎也はきっとダメになってしまう

【レイの発言】:俺たちは近すぎた。お互いがお互いを一番にして生きてきた。

【レイの発言】:黎也はきっと俺のせいで苦しむから、ギリギリまで隠しておきたいんだ

【レイの発言】:知ったところでこれはどうにもならない、定められた運命だから。


長い長い逡巡の後。横になっている黎也の上方で彷徨わせていた手を、ついにサトコは引っ込めた。それと同時に一つサトコは思い出す。以前こうして喋った際、レイが願った事があるのを。


 『黎也に思わせてほしいんだ。レイなんかいなくても平気だ、って。』


その意味を理解した瞬間、サトコの身体は震えた。嗚呼、と思う。あれは来るべき“終わり”に向けた準備だ。取り残される黎也の為の。

――レイは、あの時既に全てわかっていたのだ。


【トーコの発言】:レイ――本当に、消えてしまうの?

【レイの発言】:そうだよ。前に俺が頼んだこと、覚えてる?

【トーコの発言】:――言うわけないじゃない!!!!!


サトコは殴るようにキーを叩いた。この場にレイの身体があったら一発ひっぱたいてやりたい、と心底サトコは思う。

……もしそうなら。レイが一人の人間として存在していれば、こんなことは起こらなかったのに。


【トーコの発言】:須賀くんが、レイのこと必要じゃなくなるなんて! あるはずないでしょ!!

【トーコの発言】:いなくても平気なんて、言うわけ無い!!! 思うわけない!!!!!


連続で力いっぱい書き込んだせいで少し指が痛んだ。じわりと涙が滲んで文字がぼやけるのは、痛みのせいではない。


【レイの発言】:……そう、だよね。


俺もそう思うよ。

困ったように笑うレイの顔が見えた気がした。黎也そっくりの、けれど黎也ではない彼。キラルの片割れ。


【レイの発言】:黎也は俺がいないとダメだ。俺がそうだから、わかる

【トーコの発言】:……そうだよ

【レイの発言】:だから、トーコに聞いて欲しかった

【トーコの発言】:……私に?


サトコは目を瞬かせた。霞む視界を払拭するため、ぐっと手の甲で瞼を拭って画面を見据える。


【レイの発言】:トーコならって思ったんだ。《神様》を受け入れ、俺を受け入れ、閉鎖されていた黎也の世界をこじ開けてくれた君なら、って

【トーコの発言】:……私は、何もできないよ

【レイの発言】:良いんだよトーコ。そのままのトーコでいてくれるだけで、黎也には大きな意味がある


レイが自分に何を期待しているのか、汲み取ることがサトコにはできなかった。

黎也が自分を他人より、少し内側に入れてくれたことはわかる。これだけは自惚れではないと思う。

けれどレイに勝る存在にはけしてなり得ない。レイが消えてしまったあと、その虚空を埋めることなどサトコにはできやしないのだ。

――わかっていたから、何も言えなった。だからサトコは代わりに、最後にもう一度だけ同じ質問をした。祈るような気持ちで。


【トーコの発言】:本当に消えちゃうの? レイ

【レイの発言】:――――うん。


仕方ないんだ。運命さだめなんだ。

繰り返すレイは、まるで己自身にそれを言い聞かせているようだった。


【レイの発言】:黎也は気付いてないかもしれないけれど、最近俺の声は黎也に届き辛くなってるんだ。俺は今まで通りに話しかけてるのに、黎也にとっては小さかったり……数回に一度は、全く聞こえていないときもある


砂のように零れ落ちてゆく残された時間。その現実を突きつけられて、サトコは言葉を失った。


【レイの発言】:昔は周りの音が耳に入らないくらい、黎也にとって俺の声は大きな存在だった。年を重ねる事に、俺の声は小さくなった。ほんの少しずつだから、成長と慣れが原因だと黎也は思ってるだろう。でも本当はね――俺の存在は、年々希薄になってるんだよ


レイは近い未来必ず消える。残された時間は、もう数えるほどしかない。


【レイの発言】:……“約束”の期日が近い、こんな大変な時期なのにごめんねトーコ。君にだけは、聞いて欲しかったんだ


――――そんな大切な時間のほとんどを、レイが消える日の寸前まで、黎也はサトコの為に割こうとしているのだ。そんなのは駄目だと思う。けれど一体どうすればいいのか、皆目見当も付かずにサトコは途方に暮れた。

ずる、と膝から力が抜けて床にへたり込む。そうするとサトコの位置から机上の画面は見えない。見ることが、できない。


やがてラップトップからレイが“出た”のを感じても、サトコはその場から動けないでいた。膝を抱えて瞑目する。

――数分経って黎也が目を覚ますまで、サトコはじっとその場にうずくまっていた。



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