14.キラルの双子
授業で突然、『自分を見つめる』という宿題が出た。
厄介だ、と黎也は思う。さらに言えば面倒くさい。そもそも課題を真面目にこなすこと自体が稀な黎也である。しかし未提出者は卒業させないと脅されれば、やらないわけにはいかなかった。
黎也とサトコが通う学校には、通常授業の他に「総合学習」という授業枠がある。数学や国語などの決まった勉強ではなく、日によって内容は様々だ。自習時間と化してしまう日もあるが、大体が情操教育として生徒の倫理観や重緒面を育てることを目的としたカリキュラムが組み込まれることになる。小学校でいう「学活」や「道徳」の延長――というのが黎也の見解だ。
件の宿題は、その総合学習の一環として課せられたものなのだが。
「あー……やりたくねー」
『真面目にやれよ。中学残留とか笑えないから』
レイの言葉に渋い顔を作った黎也は、目の前に広げた白い紙を睨みつける。生年月日、名前の由来、生まれた時のエピソード。いくつかの項目がすでに印刷されていて、これを全て埋めなければならない。後半は作文のスペースで、自分の成長とそれを見守ってきた家族について自由に書きなさい、とあった。
『せっかく付属高校に進学が決まってるのに。ただでさえお前、今までサボりまくったんだから』
「そうだけどさァ……」
レイの言うことはもっともだ。けれど黎也にしてみれば、こんな事に時間を割いている場合ではない。
「時間、ないのに」
『うん』
黎也はうんざりしながらカレンダーに目をやる。今頃サトコも、同じようにこの課題と格闘しているのだろうか。
閏月の末日まで、残り二週間を切っていた。
* * *
「黎也の名前?」
息子からの唐突な質問に、黎也の母親は目を丸くした。
「ん。由来ってゆーか……」
「宿題? なるほどねぇ」
珍しい事を聞いたからだろう。黎也が手にした白いプリントを見やって、母親は納得したようだった。
この手の課題の面倒なところは、親の協力が必要な点であると黎也は思う。自分で適当に捏造したところで、教師の目を欺くには到底足りない。結局黎也は――彼にしては驚くほど素直に――母に協力を願ったのだった。
「まぁ、“也”はお父さんの字をつけただけなんだけど……」
「うわ単純……そんなトコだろーと思ってたけど」
苦笑混じりの母の言葉に、黎也は己の父を思う。生真面目の代表のような男だ。淳也、という。
「“黎”っていう字はね、『黎明』という言葉から取ったの」
「れいめい?」
聞いたことがあるような、ないような。響きは良いなと黎也は思った。プリントとの端に簡易なメモを取りつつ、そのまま母の言葉に耳を傾ける。
「夜明け、って意味。黎也が生まれたのって、夕方の五時半くらいだったのよ」
夕焼けがすごく綺麗な時間でね。
そう言いながら、懐かしむように母親は笑う。
「日が沈んでいく時に生まれた子だから……また明るく太陽が昇るように、“夜明け”の“黎”也。まあ、黎って漢字自体は“黒”って意味があるみたいだけどね」
ふうん、と黎也は喉の奥だけでいらえを返した。
日本において、三月上旬の日の入りは十七時三十八分前後である。黎也の生まれた時刻は確かに、真っ赤な空が一面に広がっていたのだろう。ちょうどサトコの叔父が言っていた黄昏時にあたるわけだ。
母は美しい落日を目にしながら、生まれてきた子供に新しい日の出を望んだらしい。真面目に語る母親を見て、なんだか黎也は気恥ずかしくなってくる。
『……“黎”、だけなら“黒”か。良いね、じゃあ俺がその黒だ。黎也の影の色』
ぴったりじゃん。嬉しそうに呟くレイの声が聞こえた。そうじゃないだろ、と黎也は思う。レイは黎也にとって影なんかじゃない。
しかし母の手前、それを口に出して言うことは叶わなかった。
「他には何を書くの?」
「えーと……小さい頃のエピソード? とか……」
すっかりやる気になっている母親にプリントを見せながら黎也は答える。紙上の記入欄はまだ大半が空白だ。一番手間がかかりそうなのはやはり後半の、“自分の成長にまつわるエトセトラ”だろう。
ふむ、と母は軽く首を捻って見せてから口を開く。
「自転車で転んで頭縫った話は?」
『あったあった、そんなの!』
「いや、それはいい……」
「じゃあ夜中トイレに起きた時に……」
「却下」
『えー面白いのに』
忘れたい思い出を掘り起こされて黎也は眉を寄せた。悪い記憶のほうが印象に残りやすいというのは本当のことらしく、その後も母親が挙げるのはろくでもないエピソードばかり。黎也はすっかり閉口してしまったが、レイだけは懐かしそうに母に相槌を打った。無論、聞こえるはずもないのだが。
「そうねぇ、じゃあ……あ、あれは?」
「あれって?」
「覚えてるかな、アンタ小さい時にずっと言ってたことがあるのよ。『鏡の中に子供がいる』ってね」
『……!』
レイがはっと息を飲んだ気配が黎也に伝わってくる。黎也がレイについての話を両親の前でしなくなって以来、家族の間でこの話題が取り上げられたことは一度たりともなかった。
些か緊張しつつ、慎重に黎也は言葉を選ぶ。
「……そっちこそ、覚えてたんだ?」
「そりゃねぇ。鏡に映った自分の姿だよって教えてもアンタ、違うって言い張るし」
少し身体を堅くした黎也の様子には気付いていないのだろう。あっけらかんと母は笑った。
「実際どうだったの? お父さんは認めなかったけど、お母さんちょっとだけ、黎也には本当に何か見えてるのかと思ってたのよ」
「……」
そうだよ、と言ってしまいたかった。レイは今もここに、ずっと俺と一緒にいるんだよ。喉の上までせり上がってきた言葉をぐっと飲み込んで、黎也は曖昧に笑ってみせる。
「……さぁね」
「ま、いいけど。レイでもついてるのかと思ってね」
「な……ッ」
『え……っ?』
一瞬黎也は頭が真っ白になった。何でその名前を? 尋ねてしまう直前で母親が不思議そうに口を開く。
「何で青い顔してんの。霊って言っても悪いものじゃなくて、守護霊みたいなのに護られてんのかなって考えたわけよ。良い事じゃない」
「~~~~っ、そっちかよ!」
『び、びっくりしたァ』
「そっちって?」
首を傾げる母に何でもねーよ! と叫ぶように黎也は言い放つ。心臓がばくばくと音を立てていた。
言いようのない気持ち悪さが胸のあたりをぐるぐると渦巻いている。
「こ、この話はもう終わり!」
言い切ったところで、タイミングを見計らったかのように電話が鳴った。俺が出るから、と良い口実を見つけて黎也はその場から逃げ出す。
(……何を期待したんだろう、俺は)
黎也は細く溜息を吐いた。両親にレイの存在を知らせることなんて、とうの昔に諦めていたはずだ。親だけではない。誰にも知らせず、自分一人がレイと向き合っていれば十分なはずだった。
イレギュラーはサトコのほうだ。黎也の世界を広げた彼女の存在に、忘れていた期待を、願いを、少しだけ黎也は思い出してしまった。
――本当はずっと、誰かにレイのことを知ってほしかった。双子のように共に育った自分の半身を、両親に見てもらいたかった。
レイにも同じように親の愛情を、与えてやってほしかった。
「――はい、須賀です」
《あーもしもし? 黎也ァ?》
落ち着くために一呼吸置いて手に取った受話器の先で、聞き慣れた級友の声がした。俺俺、と少し前に流行った詐欺のような言い回しをする相手の名を、黎也は笑いながら当ててやる。
「どしたの」
《あのさ、総合の宿題終わった?》
「いや、まだ」
ちょうど苦戦していたところだよ。声に出さずに呟いて、黎也は苦い顔をする。
《やる気出ねーからみんなでやろうぜって、今ウチに何人か集まってんだけど。お前も来ない?》
「え?」
《……なーんてのは口実で、こないだ俺が買ったゲームでこの後対戦やるんだ。黎也もやりたいっつってたじゃん? ちょうどプレイ人数一人足りねーんだよねー》
イイじゃんゲーム。行こうよ。
電話の妨げにならない程度の音量でレイが囁いた。正直今は大騒ぎする気分じゃない。断ろうかと考えていた黎也はそれでも結局、百八十度違った返事をすることになった。
……レイに甘い自覚は黎也自身十分にある。
「――――わかった。十五分で行く」
《あ、でも一応宿題は持って来いよ》
じゃないと黎也、きっと提出間に合わないぜ。
見透かしたような声が受話器の向こうで笑っていた。
事態が一変したのはそれから数時間後のことだ。
黎也は我が目を疑った。ゲーム機、食べかけのスナック、宿題の白いプリント。書きかけのまま放置された友人のそれに浮かぶ文字を見て、ゲームに興じようという気持ちはすっ飛んでいった。
ほんの気晴らしのつもりで訪ねた友人宅で、黎也は思いがけず――
『……これはひょっとするかもしれないね、黎也』
――――“ミサキ”の手掛かりを手に入れることになったのだ。