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匿名からの贈り物

作者: 黒澤咲月
掲載日:2025/10/21

これまで:

私は嘗て、罪人だった。

罪状は、生まれてきたことと、

たくさん人を傷つけてきたこと。

そして、一番の被害者は私自身だった。

あの世の片隅で裁判を受けた。

案内人に通された殺風景な部屋には、

青い瞳の白猫がいた。

白猫は、黄ばんだ紙に書かれた私の罪を読み上げた。

私は、それをただ黙って聴いていた。

「あなた自身も既にご存知かと思いますが、

要するに、先ほど経験した事は、

なるべくしてなった結果だということです」

私から見て右側の扉が音を立ててゆっくりと開く。

「右側の扉へお進みください。

あなたにはまだ、やるべきことがある」

私は、白猫に言われた通り右側の扉へ進んだ。

白猫は、私にはまだやるべきことがあると言っていたが、正直、これ以上何もしたくなかったし、何者にもなりたくないと思っていた。

私は、嘗ての役目を終えたはずだった。

未来への希望とか、人並みの幸福とか、目的とか、そんな大それた代物はいらないから、

ただ安らかに眠りたいと心から願っていた。

だが、どうやらそれも叶わなそうだ。

私は、深くため息を吐いた。

扉の中へ入ると、真っ白な空間に幼い少女が立っていた。

少女は、光を通さないほど真っ黒なワンピースを着ていた。

私は、少女の近くへ歩み寄る。

そして、彼女の異様な姿を見て私は息を呑んだ。

それは、皮膚は屍人のように青白く、

人形のような瞳をしていた。

「あなたの居場所はここじゃないよ」

少女は、私の後ろを指差しながらそう言った。

要するに、ここから出て行けということだ。

私は少女に背を向け、仕方なく来た道を引き返した。

扉を開けると、その先には白猫の姿はなく、

永遠と暗闇だけが広がっていた。

その光景に私は恐怖を覚えたが、意を決して扉の中へ飛び込んだ。

暗闇の中へ足を踏み入れた途端、私は意識を失った。


第一章:恥の多い生涯を送ってきました

再び瞼を開くと、見慣れた天井があった。

そう、私は夢を見ていたのだ。

それは、今まで見たことがない不思議な夢だった。

私は、布団から這い出ると、そのまま洗面所に向かった。

顔を洗い、歯を磨いている間、鏡に写る自分の顔を見れなかった。

私は、自分の顔が好きではなかった。

着替えと化粧を済ませた私は、朝食も取らずに一階の事務室へ降りた。

私は、心の薬屋という少し変わった仕事をしている。

心の薬屋の仕事は、魔法で心の薬を作り、

それを患者に処方することだ。

魂が腐れば、あっという間に肉体も朽ちていく。

症状は、まるで虫食いの様に現れて、

容赦なく宿主を襲う。

それを食い止めるのが私の仕事だ。

私の魔法は言葉である。

聖書や古事記の登場人物が実在しようが、

それが全てデタラメの創作だろうが、

私にはどうだっていい。

大事なのは言葉だ。

彼らが発した言葉に価値があると私は考える。

言葉というのは、使い方次第で毒にも薬にもなる。

私は、それをよく知っている。

言葉に縋り、言葉に溺れてきた私だからこそ、

それの使い方を間違えればどんな目に遭うかをよく知っている。

「さてと、それじゃ始めましょうか」

まず私がするべきことは、簡単な事務作業だ。

私は、事務室のパソコンを起動させ、予約の確認や相談してくる相談者たちに関する資料を一つひとつ整理していく。

今日の予約は一人だけのようだ。

私の役目は、相談者の意思を尊重し、寄り添い、

そして、彼らの気持ちを一緒に少しずつ解いていくこと。

もちろん、容易なことでは無いのは分かっている。

それでも、まだ私にはやるべき事がある。

事務作業が終わると、今度は相談室へ移動して、

相談者を迎える準備をする。

紙での書類のチェックと、もう一度ワークスケジュールの確認を手短に済ませる。

と、ここで相談室のドアがノックされる。

「し、失礼します」

そして、扉がゆっくりと開く。

扉の前に立っていたのは、今回の相談者であり、近所に住んでいる十五歳の少年だった。

彼は、人間とエルフのハーフで、

半年前から不登校が続いている。

その原因は、学内での虐めだった。

彼は、人間の土地で人間の学校に通いながら暮らしているが、人間とエルフ族の関係は非常に悪く、どちらの種族の中でも、その両方の血を受け継ぐ彼を良く思わない者もいた。

「待ってたよ。

さあ、そこの椅子に座って」

私は、少年を近くのソファーに座らせ、

自分も少年と向かい合うようにして腰を下ろすと、早々に少年との面談を始めた。

「僕、疲れました。

自分が分からなくなりました」

少年は、暗い顔のまま俯きながら、

昨日の出来事を話してくれた。

彼は昨日、勇気を出して登校した。

登校すると、いつものように同級生たちが彼の席を囲んでいた。

彼の机には、汚い言葉が殴り書きされていた。

彼を見る同級生たちの表情は、

まるで道端で珍しい物を見つけた幼い子供のようだった。

彼は同級生たちを無視し、黙って席に着いた。

そして、俯きながら歯を食いしばり、

瞳に涙を溜めながら小さく呟いた。

これで何度目だと。

「僕が…僕が何をしたっていうんだ……」

少年は目を見開き、涙を零しながらそう呟いた。

彼の目が、私に救いを求めている。

自分じゃどうにもならないのだと訴えている。

だが、それはできない。

いつだって、自分を救えるのは自分だけだ。

もちろん、いつの時代も差別はある。

形を変え、言葉を変えて存在し続ける。

今までだってそうだった。

人は決して分かり合えない。

分かり合えたところで争いは無くならない。

少年は、それをよく知っていた。

だからこそ、私は彼にこの言葉を言わなければならない。

「それでも、貴方は戦わなきゃいけない」

「戦うって、そんなこと言われても…」

「大丈夫、貴方は独りじゃない。

私もいるし、まずは仲間を増やしていくことから始めましょう」

逃げたっていい。

逃げた先が闇とは限らない。

戦い方は人それぞれだから、

自分なりの戦い方を見つけるのも手だと思う。

私がそう言うと、少年は唇を噛みながらゆっくりと俯いた。

「でも、僕は弱いから…」

「いいえ、貴方は決して弱くない。

だって、苦しい中でも頑張って学校へ通うのは、

とても勇気がいることだから。

それに、虐めがあるのも決して貴方のせいなんかじゃない。

彼らは毒の味を知らないだけ。

貴方が自分を責める理由なんて何処にもない」

「先生…」

「大丈夫、貴方はちゃんと戦えている。

たとえ、誰にも言えないこと、

言っても理解されないことを抱えていても、

諦めずにまた立ち上がる。

それは誰にでもできることじゃない。

貴方にしかない強さなの。

だから、どうか自分を信じて欲しい」

「わ、わかりました!

僕、もう少しだけ頑張ってみようと思います」

少年の表情に希望が見えた。

彼は、ようやく笑顔を見せた。

「今薬を作って来るから、ちょっと待っててね」

私はそう言いながら、診察室の隣にある薬剤室へ移動し、魔法を使って彼に合った薬を生成した。

診察室へ戻ると、少年は静かに読書をしていた。

表紙を覗くと、そこに“匿名からの贈り物”と、

変わったフォントでタイトルが書かれていた。

「薬はもう大丈夫そうだけど、

一応出しておくわね」

「ありがとうございます」

少年は、本をカバンに仕舞い、

薬を受け取ると、深くお辞儀をしてから足早に帰っていった。


第二章:盲目少女は海に溶ける

裏庭で小鳥も歌い出す真夏の昼下がり。

今日も、太陽の光が窓から部屋いっぱいに差し込む。

私は相談室のデスクで、いつものように冷め切った紅茶を啜りながら書類の整理をしていた。

するとそこへ、青いテディベアを抱えた少女がやってきた。

どうやらアポ無しで来たようだが、もちろん彼女のことは知っている。

少女は、飲食店で働く母親と二人で暮らしているが、

毎日のように繰り返される母親からの虐待が原因で複雑性PTSDを抱えている。

少女の母親は、暴力によって少女を支配していた。

教育という名目でつけられた少女の傷跡は、流石の私でも思わず目を覆いたくなる程に酷いものだった。

三回目の面談の際に、少女は自らその傷跡を見せてくれた。

それでも彼女は、自分を見失うことなく、

自分にできることを見つけ、諦めずに頑張り続けている。

「さて、今日はどんな話をしましょうか?」

私は、作業の手を止めて少女に向き直る。

少女も、ニコリと可愛らしい笑みを浮かべながら、

近くのソファーに腰を下ろす。

「私ね、中学を卒業したら家を出ようと思う。

私の居場所は、あの家じゃないって気づいたから」

「そうね、その心意気はとてもいいわ。

けど、なにか具体的な計画はあるの?」

「今はまだ無い。

だけど、もうあの家にいるのは嫌なの。

私は誰かの玩具じゃないって証明してやるんだ!」

そう言う少女の表情は、未来への希望に満ちていた。

決して恐怖や不安が消えたわけではない。

これからも彼女に植え付けられた痛みが消えることがない。

初めてここを訪ねてきたとき、ただ泣きじゃくるばかりで、

まともに口を利くことができないくらい悲惨だった。

置かれている状況や、自分の気持ちを言葉にすることができなかった。

それでも彼女は、回を追うごとに自分の意志で少しずつ変わっていった。

あとは、その痛みとどう向き合っていくかが今後の課題だ。

「先生、私、夢を叶えたら幸せになれるかな?」

「夢を叶えることだけが幸せとは限らない。

夢を諦めて、その先で幸せを手に入れた人もいれば、夢を叶えて不幸になった人もいる。

夢と幸福はイコールじゃない。

例外はあるけど、どうなるかはその人次第」

「けど、私なら夢を叶えて幸せになることが出来る」

「そうね。

あなたならきっと幸せになれる。

だって、あなたは強いもの」

「強くはないよ。

ただ、他人にとっての正しさよりも、

私にとっての正しさを信じたいと思った。

もちろん、先生のことは大好きだし、

私は信じてるよ!」

「ありがとう。

じゃ、頑張ったご褒美にアイスあげちゃう」

「やったー!」

私は、一旦事務室の方へ戻ると、

事務室の冷蔵庫からいちごミルク味の棒アイスを一本だけ取り出した。

この子にはもう、薬は要らない。

これからは、自分の言葉で生きるんだ。

私はそう思いながら、少女の穢れなき笑顔を見るために、少女が待つ相談室へ戻った。


第三章:吾輩は生きていた、名前はもうない

仮面の女が、私と向かい合うようにして座っている。

ただ真っ黒に塗りつぶされた不気味な仮面は、

いつも身につけているようだが、

私も、彼女の素顔を見たことがない。

それなのに、彼女を見ただけで懐かしさを覚える。

「貴女とは、これで三回目ね。

さて、今日はどんな話をしましょうか?」

私はいつものように、

その場で作ったカフェオレ入りのコーヒーカップを仮面の女に差し出した。

彼女は、私からコーヒーカップを受け取ると、

口をつけずに話を続けた。

「先生、私ね、これから死のうと思うんだ」

「じゃ、その希死念慮とどう向き合うかを考えていきましょう」

「それはもういいよ。

誰がなんと言おうと、これは決定事項なの」

「けれど、私にとってそれはとても悲しいことだわ。

あなたの決意を否定したくはないけれど、

できることならこれからも生きていて欲しい」

「もう、遅いんだ」

「いいえ、あなたはまだ間に合う」

仮面の女は、呆れたように深くため息をついた。

仮面のせいで表情は見えないが、なんだか悲しそうに思えた。

そして、彼女は残念そうに言葉を続けた。

「先生って、優しいけれど無責任だよね。

言葉に重みを感じないというか、まるで他人事みたい」

「…」

「ねぇ、先生。

私が幽霊だってこと、本当は気づいていたでしょ?

三年前、私が線路に飛び込んだこと、

先生には今まで伝えてなかったけど、

心を読める先生なら言わなくてもすぐに気づいたよね?」

その通りだ。

相手の心を読み、相手が望む答えを出す。

それが、ここで与えられた私の仕事だった。

だから、彼女がすでに亡くなっていることも、

三週間前に初めて顔を合わせた時から気づいていた。

心の薬も、相手の欲している言葉を魔力に込めて形にしているだけ。

抗うつ剤など、公的機関が出している薬のような効果はない。

仮面の女は、そこまで見抜いていた。

「けど、私の事はもういいんだ。

今日、ここに来たのはそのことじゃないし」

「どういうこと?」

「相談内容は、先生自身について」

私は、持っていたコーヒーカップをテーブルに置き、もう一度、仮面の女を見た。

彼女は一体何者なんだ?

急に目の前の女が恐ろしくなり、私は口を閉ざした。

「先生こそ、もう生きたくないでしょ?

ずっと苦しかったもんね。

頑張ったもんね。

逃げた先も、地獄だったよね」

私の両手は小刻みに震えていた。

認めたくはなかったが、彼女の言ったことは正しかった。

そうだ。

あの頃の私は、私でいることを辞めたかった。

大人になって、頭を撫でてくれる人も、

抱きしめてくれる人も居なくなった。

ずっと、ずっと、苦しかった。

それでも、サイコロを振れるのは自分だけ。

誰にも託せず、押し付けることも叶わない。

全ては、自分の選択でしかなく、

今の自分は、なるべくしてなった結果に過ぎない。

だから苦しいのは当然だった。

要するに、私は私でしか無かったのだ。

それに気づいた時には手遅れだった。

逃げて、逃げて、逃げ続けた果てに見たのは、

やはり、歪んだ世界だった。

下からの眺めは、本当に滑稽だった。

「本当は、先生の方が救いを求めていたんじゃない?」

「私は…私は…私は……」

気づけば、私は声を出して泣いていた。

子供のように、大袈裟に、

自分によく似た少女の前で泣き続けた。

生きたいとか、死にたいとか、

そういう話じゃなくて、

私は、私でいることに疲れてしまった。

あの時の私は、そんな事を考えた。

そんな事を考えながら、自分の命を投げたんだ。

「先生、アナタは今幸せですか?」

「ええ、幸せだったわ」

「そっか」

女は不気味で黒い仮面を取り、

私に初めてその素顔を見せた。

そして、仮面を外した女は私に優しく微笑んだ。

私は、彼女の顔を見て激しく動揺した。

この時、ようやく目の前の女が何者なのか理解した。

彼女が、彼女こそが、私の答えだった。

「それが聞けてよかった」

私は、ちゃんと残せただろうか?

私は、ちゃんと返せただろうか?

私は、ちゃんと償えただろうか?

私は、私を救えただろうか?

私は結局、何がしたかったんだろうか…?

分からないことだらけの人生だったが、

一つだけ分かったことがある。

それは………。


それから:

奇妙な夢を見た。

とても懐かしい匂いがした。

目の前には、女性の顔があった。

その女性の表情はとても柔らかく、

まるで、宝物を見つけたかのようにその瞳は輝いていた。

場面が切り替わった。

そこでは、多くの大人が壁に掛けられた写真に向かって祈りを捧げていた。

私の隣に、優しい目の女性がいた。

彼女もまた、他の大人と同じように両手を合わせ、目の前の写真に向かって何かを唱えていた。

再び、場面が切り替わった。

私の目の前で、男女が激しく口論していた。

男が女を蹴り飛ばし、馬乗りになって女の顔を繰り返し殴る様子を、私は他人事のように傍観していた。

突然、黒い影に胸ぐらを掴まれた。

黒い影が、お前のせいだと言った。

その瞬間、私は恐怖に支配された。

その言葉がノイズ混じりに頭の中で反芻し、

私の意思を完全に掌握した。

数秒のノイズの後、次は見慣れない部屋が映し出された。

辺りを見渡すと、そこは病院の診察室の中だった。

私の向かい側には、メガネを掛けた白衣姿の男がいた。

私は、白衣姿の彼に何かを伝えようとしていたが、

その一方で彼は、私の話を聞こうという素振りはするも、

パソコンと向き合うばかりで、とても人の話を聞いているようには見えなかった。

次の場面では、私は、洗い場に積まれた食器を一つひとつ洗っているところだった。

食器を洗い終え、次の作業に移ろうとした途端、

私は吐き気と目眩に襲われた。

両手は僅かに痙攣していた。

食器を落とした瞬間、再び場面が切り替わった。

私の前には、男の遺影があった。

遺影の中の男を見ていると、

なんだか懐かしい気持ちになった。

私は彼をよく知っていた。

彼は、不器用だけど身内に甘かった。

私にも、優しかった。

私は、夜の住宅街を歩いていた。

吐き気と頭痛が私を襲った。

意識が朦朧として、私はその場で倒れてしまった。

目を開けると、私は自分の部屋にいた。

すぐ側には、瓶に詰められていた大量の薬物とビールの空き缶が無造作に転がっていた。

私は、まだ瓶の中に残っていた薬を全て取り出し、それを迷わず口の中に入れた。

再び、場面が切り替わる。

私は、踏切の前にいて、電車が通り過ぎるのを、

赤いランドセルを背負った子供と静かに待っていた。

カンカンカンカン…。

踏切は、一定のリズムで鳴っている。

やがて、電車が雄叫びをあげながら猛スピードで通り過ぎていく。

踏切の音が止み、私たちの行く手を塞いでいた遮断機が上がる。

私はゆっくりと歩を進め、子供の方は、

母親が待っている向こう側へ全速力で駆けていく。

再会を喜び、抱き合う親子に気を取られながら私は進み続ける。

幸せそうな親子を見つめながら、私はポツリと涙をこぼした。

突然、線路の真ん中で私は立ち止まった。

私は、このまま渡りきるつもりだった。

だが、どうしても手足が動かないのだ。

混乱しながらその場で立ち尽くしていると、

再び遮断機が降ろされた。

列車は速度を保ったまま、だんだんと私の方へ迫ってきている。

そして、列車の顔が私の体に触れようとした瞬間、私はそっと目を閉じた。

……心持ちは…穏やかだった。

私は、それを受け入れた。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………

午前四時に目が覚めた。

真っ暗だった空は、少しずつ青みを帯びてきた。

それでもまだ、私の月は起きていた。

私はベットから這い出て、フラつきながらベランダへ出た。

まだ、昨日の酔いが残っていた。

ベランダでしばらく月を眺めていると、

突然、背後から“こんばんは”と声をかけられた。

振り返ると、そこに嘗ての青い瞳の白猫がいた。

どうやら、私を迎えに来たらしい。

「お疲れ様でした」

私は、その言葉の意味を直ぐに理解した。

私は、安堵の笑みを浮かべながら、

夜空を見上げた。

あぁ、そっか。

私はようやく、役目を果たしたんだ…。

私の出る幕は終わったんだ。

「良かった…」

私はもう、“これまで”に戻りたいとも思わないし、

“これから”を続ける気もない。

私は過去になり、ただの数字になり、

やがて人々から忘れられる。

私は、これで独りになった。

いや、もう“私”というものは必要ないか。

ありがとう…。

「もう痛みは癒えましたか?」

彼女のその問いに、…は黙って頷いた。

「今度は、あなたの番です。

さあ、かえりますよ」

その瞬間、…は光に包まれた。

その光はまるで、母親のお腹の中にいるかのように懐かしく、そして温かかった。

これが、…にとって最後の贈り物となった。


END



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