鳥を手放した日
大好きだった人を、自分の手で手放した。
今でも、ときどき思い出す。
鳥の絵のギターと、彼の歌声。
学生の頃、私はまだ夢の入口にいた。
小さなライブハウスで、震える声でマイクを握っていた。
ただ誰かに届いてほしくて、がむしゃらに歌っていた。
そんな時に、彼と出会った。
鳥の絵が描かれたギターを持って、柔らかく笑う人だった。
彼は、少し年上の大学生。
同じように音楽をやっていて、あの日も同じステージに立っていた。
「すごく綺麗な声だったね」
そう言ってくれたのが、彼だった。
言葉にされたのは初めてで、嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。
何度か共演して、言葉を交わすうちに、自然と距離が縮まった。
趣味も価値観も違ったけれど、音楽にかける気持ちだけは同じだった。
私たちはいつの間にか付き合うようになった。
彼は、まっすぐで、不器用で、
どこか「大人になりきれない」まま生きているような人だった。
嬉しいときは本当に嬉しそうに笑って、悲しいときは黙り込んだ。
そんなところが、私は好きだった。
付き合って少し経った頃、彼がふいに話してくれた。
昔、好きだった人がいたという。
華やかで、自信に満ちていて、ちょっとずるい人。
私はその話を、笑って聞き流すふりをして、心のどこかがざわついていた。
「本気で好きだったけど、最後はひどく振り回されたんだ」
そう言った彼の声は、少しだけ遠くを見ているようだった。
それでも私は、気にしないふりをした。
“今”を生きているのは、私だと思っていたから。
彼のギターには、鳥の絵が描かれていた。
それは、亡くなったお父さんの形見だという。
「最後まで“お前の歌詞は甘い”って言われたんだ」
苦笑いしながらそう言った彼の横顔が、妙に大人びて見えたのを覚えている。
ときどき彼は、私に甘えるような目をした。
手をつなぐとき、体を預けるとき、
まるで、愛情に縋るように寄ってくる瞬間があった。
私はそのたび、思っていた。
ああ、この人、私と同じなんだ。
何かが欠けたまま、誰かに満たされたいと思ってる。
その気持ちに、どこか似ていた。
だけど、幸せな時間は長く続かなかった。
私が大学受験を控え、彼も音楽の仕事が忙しくなった。
会えるのは、2ヶ月に一度。
その短い時間が、逆に苦しくなっていった。
私は耐えきれなくなって、別れを告げた。
そのあと、何人かと付き合ってみたけれど、どこか違った。
心が動かない。満たされない。
他の人じゃ、ダメだった。
20歳になったある日、久しぶりに彼とライブで再会した。
彼は、変わっていなかった。
あのギターも、あの声も、あの笑い方も、全部そのままだった。
ライブのあと、二人で静かなバーに入った。
「やっとお酒、飲めるようになったんだね」
そう言って笑う彼に、どうしようもなく心が揺れた。
グラスを揺らしながら、私はふいに言った。
「……あのとき、別れたの、少しだけ後悔してた」
「俺も」
彼はすぐに、そう答えた。
それから、また付き合うようになった。
安心感があった。穏やかで、ちゃんと好きだった。
でも私は、それが怖くなってしまった。
“いつかまた終わってしまうんじゃないか”
“また置いていかれるんじゃないか”
そんな不安に飲まれて、私は誰かに逃げた。
会えない時間に、他の人に触れてしまった。
それが彼にバレたとき、私は最低なことを言った。
「寂しくさせたあなたが悪い」
彼は何も言わず、ほんの少しだけ悲しそうに笑って、
「……ごめんね」って言った。
それが、最後だった。
私が、自分の手で彼を終わらせた。
それから、彼の声も、笑顔も、歌も、記憶のなかでしか会えないものになった。
今も、街角でギターの音が聞こえると、立ち止まってしまう。
それは、彼を思い出してしまう呪い。
もう会えないのに、まだ好きなままの私を縛りつける、静かな呪い。
今、好きな人がいるなら、どうか大切にしてください。
手放してからじゃ、遅いこともあります。
最後まで読んでくださってありがとうございます。