第8話 「行き止まりの道と、見上げる空の青 (後編)」
道真の言葉は、田中誠先輩の心に小さな種火を灯した。
「積み重ねてきた努力は、本当に無駄だったのか?」
「行き止まりの先、別の脇道…」
その問いが、絶望で塗りつぶされていた彼の思考に、ほんのわずかな隙間を作り始めていた。
閉じこもっていた部屋のカーテンを少しだけ開け、久しぶりに差し込む陽の光に目を細める。
すぐに答えは見つからない。
それでも、昨日までとは何かが違う、微かな予感が胸をよぎっていた。
一方、橘凛は、田中先輩を慕うサッカー部の健太や達也たちと、放課後の教室で顔を突き合わせていた。
「田中先輩、ずっと部屋に籠もりきりみたいで…俺たち、何もできないんでしょうか」
健太が悔しそうに唇を噛む。
「先輩には、諦めないことの大切さを教えてもらった。今度は、俺たちが先輩を励ます番じゃないか?」
達也が力強く言う。
彼らの言葉を聞きながら、凛は深く頷いた。
そうだ、尊敬する先輩のために、私たちにもできることがあるはずだ。
凛は、後輩たちからのメッセージを集め、田中先輩の家を訪ねることを決意した。
その週末、凛が田中先輩の家のインターホンを鳴らそうとした、まさにその時だった。
偶然にも、近くの公園のベンチに、一人ぼんやりと空を眺めている田中先輩の姿を見つけたのだ。
数日前よりも少しだけ顔色は良くなっているように見えたが、その瞳にはまだ深い疲労の色が浮かんでいる。
凛が声をかけようか迷っていると、どこからともなく真が現れ、ごく自然に田中先輩の隣に腰を下ろした。
「先輩、ちょっとは眠れましたか?」
「…ああ、少しだけな」
田中先輩は力なく答えた。
「でも、何をすればいいのか、さっぱり分からんのだ。もう一度頑張る気力も、どこへ向かえばいいのかも…」
真は、黙って空を見上げている。
「道に迷ったらさ、とりあえず、一番明るく光ってる星を探してみるのもいいかもしれませんね。それが北極星みたいに、方角を示してくれるかもしんねえ。遠くて、今の自分には手が届きそうもなくても、どっちに向かって歩き出せばいいかくらいは、教えてくれるはずです」
そして、少しおどけた調子で付け加えた。
「それに、先輩。失敗したってこと、自分が思ってるほど、周りはそんなに気にしてねえもんですよ。むしろ、そこからどうやって立ち上がって、どんな面白い逆転劇見せてくれるのかって方に、みんな結構ワクワクしながら注目してるもんなんですぜ」
真の言葉は、田中先輩の心に、不思議な軽やかさをもたらしたようだった。
そこに、凛が健太や達也たちからの手紙や寄せ書きを手に、意を決して近づいていった。
「田中先輩…! 私たち、先輩にどうしても伝えたくて…」
突然の後輩たちの訪問に、田中先輩は驚いた表情を浮かべたが、凛が差し出した色紙や手紙の束を、震える手で受け取った。
そこには、後輩たちの拙いけれど、心のこもった言葉が溢れていた。
「先輩が教えてくれた諦めない気持ち、今も俺たちの宝物です!」
「先輩がいたから、俺たちはここまで来られました!」
「先輩の努力は、絶対に無駄じゃありません!」
「私たちがついています!だから、元気出してください!」
特に、健太が涙ながらに語った言葉は、田中先輩の胸を強く揺さぶった。
「俺、先輩にひどいこと言いましたけど…でも、あの時、先輩が俺を許してくれて、また一緒に頑張ろうって言ってくれたから…今の俺がいます。だから…だから今度は、俺たちが先輩を応援したいんです!」
自分が無意識のうちに後輩たちに与えていた影響、そして彼らの真っ直ぐな想い。
それらが、田中先輩の心の奥底に眠っていた何かを呼び覚ました。
「…ありがとう。みんな…ありがとう…」
田中先輩の目から、熱いものがとめどなく溢れ出した。
それは、絶望の涙ではなかった。
凍りついていた心が溶け出し、温かい感謝と、そして微かな希望の光が差し込んできた証の涙だった。
「俺…俺、もう一度だけ…顔を上げてみようと思う。みんながくれたこの言葉を、無駄にしたくないから…」
震える声でそう絞り出すと、凛も、健太も、達也も、そしてその場にいた他の後輩たちも、みな涙ぐみながら、心からの力強い拍手を送った。
数日後、田中先輩が久しぶりに学校に姿を見せた。
以前のような自信に満ちた覇気はないかもしれない。
しかし、その表情には、何か吹っ切れたような、そして確かな光が宿っていた。
彼は、図書室で様々な大学や専門学校の資料を熱心に集め始め、時には浪人して再挑戦することも視野に入れながら、新しい自分の道を探し始めていた。
その姿は、2年生たちにとっても、大きな勇気と教訓を与えた。
「失敗を恐れずに挑戦することの尊さ」
「どんな結果になろうとも、そこから何かを学び取り、次の一歩を踏み出すことの大切さ」。
それらを、尊敬する先輩が身をもって示してくれたのだ。
河川敷で、真が夕焼け空を眺めながら呟いた。
「人間ってのは、面白いもんだな。どんなに打ちのめされても、転んだその場所からでも、ちゃんと新しい芽を出し、また空を目指せるもんだ」
隣でその言葉を聞いていた凛は、真の言葉の奥深さと、人の心の持つ再生力に、改めて深い感動を覚えていた。
そして、真の存在が、自分やクラスメイトたちにとって、どれほど大きな支えになっているかを、しみじみと感じるのだった。
夏休みを前に、クラスでは修学旅行の話題で持ちきりになり始めていた。
それは、また新たな物語の始まりを予感させ、真と凛、そして一条茜の関係にも、新しい風が吹くきっかけとなるのかもしれない。