第7話 「行き止まりの道と、見上げる空の青 (前編)」
一条茜が「完璧な仮面」を脱ぎ捨て、クラスに新しい風を吹き込んでから数週間。
2年B組は、どこか以前よりも風通しが良くなり、生徒たち一人ひとりの個性がより自然に輝き始めたように感じられた。
道真と橘凛の関係も、茜という存在が良い意味での触媒となり、お互いを意識する場面が増えつつあった。
しかし、学校全体を見渡せば、空気は少しずつ緊張感を帯び始めていた。
3年生にとっては、受験シーズンがいよいよ本番を迎え、その結果に一喜一憂する姿があちこちで見られるようになったのだ。
2年生たちも、来年に迫った自分たちの進路選択を意識し始め、先輩たちの動向に固唾をのんで注目していた。
そんな中、衝撃的な噂が2年生たちの間を駆け巡った。
生徒会長であり、誰からも人望が厚く、そして誰よりも努力家として知られていた3年生の田中誠先輩が、第一志望だった国立大学の推薦入試に不合格になったというのだ。
模試の成績も常にトップクラスで、課外活動にも熱心に取り組み、誰もが彼の合格を信じて疑わなかっただけに、そのニュースは後輩たちにも大きなショックを与えた。
そして、そのショックは、田中先輩自身にとっては計り知れないものだった。
彼は、その日を境に学校に姿を見せなくなり、家に閉じこもってしまったと聞く。
「あんなに頑張ってきたのに、どうして…」
「俺の三年間は、全部無駄だったのか…」
「もう何もかも終わりだ」。
そんな絶望の言葉だけが、心配して連絡を取ろうとした友人や教師に伝えられた。
かつての溌剌とした姿は見る影もなく、彼は深い失意の底に沈んでいた。
凛も、中学時代から生徒会活動で世話になった田中先輩の変わりように心を痛めていた。
同じサッカー部だった健太や達也も、尊敬する先輩の苦境に、かける言葉も見つからずにいた。
「田中先輩…本当に辛そう。私たちに、何かできることはないかな…」
昼休み、凛が真に相談を持ちかけると、真はいつものように購買のパンを齧りながら、静かに頷いた。
「ま、人生ってのは、思い通りにいかねえことの方が、デフォルト設定みてえに多いからな。どんなに丹精込めて育てたトマトだって、カラスに一瞬で食われちまうこともある」
「不謹慎よ、道君!」
「いや、そういう意味じゃねえんだ。ただ、そういうもんだってことよ」
真の目は、どこか遠くを見つめているようだった。
数日後の放課後。真が学校の近くの河川敷を歩いていると、偶然、やつれた姿で一人うつむきながら歩く田中先輩の姿を見つけた。
以前の、自信に満ちた覇気は見る影もなく、その背中は小さく丸まっている。
「田中先輩、お久しぶりです」
真が飄々とした口調で声をかけると、田中先輩は驚いたように顔を上げた。
その目には生気がなく、深い隈が刻まれている。
「…道か。見ての通りだよ。俺は、負け犬だ」
自嘲的な笑みを浮かべる先輩に、真はいつもの軽口を封印し、静かな眼差しを向けた。
「今回のこと、聞きました。…めちゃくちゃ悔しいですよね。腹も立つし、やるせないし、なんで俺だけこんな目にって、思いますよね」
真の言葉は、まるで先輩の心の声を代弁するかのように、その場に響いた。
田中先輩は、ハッとしたように真の顔を見つめた。
誰にも理解されないと思っていた自分の感情を、この後輩はいとも簡単に見抜いている。
「…お前に、何が分かるっていうんだ…! 俺がどれだけ…どれだけこのために時間を費やして、いろんなものを我慢してきたか…!」
感情が堰を切ったように溢れ出し、田中先輩の声は震えていた。
真は、その言葉を真正面から受け止め、静かに頷いた。
「ええ、分かりますよ、とは軽々しく言えません。先輩の努力は、俺なんかが想像もできないくらい、大きかったんだと思います」
そして、少し間を置いてから続けた。
「確かに、結果は、先輩が望んだものじゃなかったのかもしれない。でも、先輩が今まで積み重ねてきた時間や、流した汗や、費やした情熱って、本当に全部、紙切れ一枚の結果で『無駄』ってことになっちまうんでしょうか?」
真の問いかけは、鋭く、そして深く、田中先輩の胸に突き刺さった。
「一本道だと思って必死で走ってきた道が、いきなり目の前で行き止まりになっちまったら、そりゃあ誰だって絶望しますよ。目の前真っ暗になって、もう一歩も動けねえって思うのも当然です」
真は、川の流れをじっと見つめながら言った。
「でも、もしかしたら、その行き止まりの壁を乗り越えたら、もっと面白い景色が広がってるかもしんねえ。あるいは、今まで気づかなかっただけで、すぐ横に、もっとワクワクするような別の脇道が伸びてるかもしんねえんですよ」
「……」
田中先輩は、何も言えずに俯いた。真の言葉は、彼の頑なな心を少しずつ、しかし確実に揺さぶり始めていた。
「苦しい時って、どうしても視野が針の穴みてえに狭くなっちまう。足元しか見えなくなって、周りにどんなチャンスが転がってるか、どんな助けの手が差し伸べられてるか、全然気づけなくなっちまうんです」
真は、ふっと顔を上げ、遠くに見える空を指さした。
「でも、そういう時こそ、ほんのちょっとだけ顔を上げて、周りを見渡してみる。もしかしたら、空の青さが、いつもより綺麗に見えるかもしんねえ。そういう小さな発見が、次の一歩を踏み出す勇気になることもあるんじゃないですかね」
真の言葉は、田中先輩の心にどんな変化をもたらすのだろうか。
「お前に何が分かる」
と吐き捨てた彼の唇が、微かに震えている。
絶望の淵にいる彼が、再び顔を上げ、空の青さを見つける日は来るのだろうか。
凛や後輩たちは、ただひたすら、尊敬する先輩が再び立ち上がる日を待ち望んでいた。
そして真は、そのための「カギ」を、また一つ、そっと手渡したのかもしれない。