第6話 「完璧な仮面と、心の万華鏡 (後編)」
道真の言葉は、一条茜の心に深く、そして静かに波紋を広げ続けていた。
「本当の自分なんていない」
「今、ここにいるあんたが、あんた」
――その言葉が、まるでリフレインのように頭の中で繰り返される。
完璧な「一条茜」を演じることへの疑問と、ありのままの自分をさらけ出すことへの恐怖。
その狭間で、茜の心は揺れ動いていた。
変化は、本当に些細なところから始まった。
ある日の数学の授業中、当てられた問題に茜が答えられず、一瞬言葉に詰まった。
以前の彼女なら、何か気の利いた言葉で誤魔化すか、あるいは必死で答えを捻り出そうとしただろう。
しかし、その日の茜は、小さく深呼吸をすると、ほんの少し顔を赤らめながらも、はっきりとした声で言ったのだ。
「…すみません、分かりません」
教室が一瞬静まり返ったが、すぐに先生が「正直でよろしい。じゃあ、隣の鈴木さん、分かるかな?」と、何事もなかったかのように授業を進めた。
周囲の生徒たちも、特に気にする様子はない。
茜は、心臓がドキドキするのを感じながらも、どこか肩の荷が少しだけ下りたような、不思議な感覚を覚えていた。
体育のバレーボールの授業では、もっと大きな「事件」が起きた。運動神経抜群と思われていた茜が、サーブで空振りし、レシーブではボール明後日の方向に飛ばしてしまい、しまいにはチームメイトの足にボールを当ててしまったのだ。
「きゃっ!ご、ごめんなさいっ!本当にドジで…!」
思わず飛び出した素直な謝罪と、顔を真っ赤にして慌てふためく茜の姿に、チームメイトたちは一瞬きょとんとしたが、次の瞬間、誰からともなく笑い声が上がった。
「えー、茜ちゃんでもそんなことあるんだー!」
「なんか、カワイイじゃん!」
その笑いは、決して嘲笑ではなく、完璧だと思っていたクラスメイトの意外な一面に対する、温かい親しみが込められたものだった。
茜は、その屈託のない笑顔に包まれ、驚きと同時に、今まで感じたことのないような安堵感に胸が熱くなるのを感じた。
道真は、そんな茜の小さな変化を見逃さなかった。
調理実習でまたしても不器用さを露呈し、落ち込んでいる茜に、彼はいつもの調子で声をかけた。
「よお、一条。今日の料理のテーマは、もしかして『驚きと発見、時々ハプニング』だったのか? なかなか独創的で面白かったぜ」
「…うるさいわね。笑いたければ笑えばいいでしょ」
茜が拗ねたように言うと、真はニヤリと笑った。
「いやいや、褒めてんだって。完璧な料理なんて、レストランで食えばいい。あんたが一生懸命、でもちょっと不器用に作ったもんの方が、よっぽど人間味があって、俺は好きだけどな。誰だって失敗くらいする。ちょっとくらいドジな方が、親しみやすくていいじゃんか」
真の言葉は、いつも茜の心の壁をいとも簡単にすり抜けてくる。
茜は、戸惑いつつも、その言葉が嫌ではない自分に気づいていた。
「完璧でなくても、いいのかもしれない…」
そんな思いが、少しずつ彼女の中で育ち始めていた。
クラスのレクリエーションを企画するグループワークで、凛と茜は偶然同じ班になった。
最初は、お互いにどこかぎこちなく、当たり障りのない会話しかできなかった。
しかし、企画が難航し、意見がまとまらなくなった時、茜がぽつりと呟いた。
「私…こういうの、あんまり得意じゃないの。みんなをまとめるのも、面白いアイデアを出すのも…橘さんみたいに、自分の意見をちゃんと言えなくて…」
それは、今まで誰にも見せたことのない、茜の弱音だった。
凛は、ライバルだと思っていた茜のその素直な言葉に、胸を突かれたような気がした。
そして、気づけば自然に言葉を返していた。
「私も、いつも自信があるわけじゃないよ。でも、一条さんのその真面目さとか、周りをよく見てるところ、すごいと思う。一緒に考えれば、きっといい案が出るよ」
その言葉をきっかけに、二人の間には少しずつ、だが確かな信頼関係が芽生え始めていた。
お互いの得意なこと、苦手なことを認め合い、補い合う中で、企画は少しずつ形になっていった。
そして、そのグループワークの発表の日。
茜は、クラスメイトの前で、自分の言葉で、少し緊張しながらも一生懸命に企画内容を説明した。
それは、以前の彼女のような完璧なプレゼンテーションではなかったかもしれない。
途中で言葉に詰まったり、少し早口になったりもした。
けれど、そこには「完璧な一条茜」の仮面はなく、ありのままの、一生懸命な彼女の姿があった。
発表が終わると、教室は温かい拍手に包まれた。
その拍手は、彼女の企画内容だけでなく、勇気を出して素顔を見せた彼女自身に向けられているように感じられた。
茜の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
それは、今まで流した悔し涙や孤独の涙とは違う、心の底からの安堵と喜びが溶け合った、透明な雫だった。
その時の彼女の笑顔は、少し照れくさそうで、でも、今まで見たどんな笑顔よりも、ずっと自然で、そして何倍も魅力的だった。
「道君の言ってたこと…少しだけ、分かった気がする。私、完璧じゃなくても、いいんだね…」
放課後、茜が真にそう伝えると、真はいつものようにニヤリと笑った。
「別に。あんたが勝手に気づいて、勝手に楽になっただけだろ? 俺は、心の万華鏡をちょっと振って、模様が変わるのを見てただけみてえなもんだ。いろんな模様があって、どれも綺麗だろ?」
凛は、そんな二人のやり取りと、茜の心からの笑顔を見て、胸の中にあった複雑な感情が、すっと溶けていくのを感じていた。
真を巡るライバル関係は続くのかもしれない。
けれど、それとは別に、一人の友人として、不器用ながらも懸命に生きる一条茜という人間を、心から応援したいと思えるようになっていた。
「自分」とは、決して一つだけの形に押し込めるものではない。
それはまるで万華鏡のように、光の当たり方や見る角度によって、無限の表情を見せる。
そして、どんな模様も、それぞれに美しい。
そんな当たり前のようでいて、とても大切なことに、2年B組の生徒たちは、また一つ気づかされたのかもしれない。
教室の窓から差し込む西日が、彼らの少しだけ成長した横顔を、優しく照らしていた。