第5話 「完璧な仮面と、心の万華鏡 (前編)」
長く、そして様々な出来事があった夏休みが明け、2年B組の教室には日焼けした生徒たちの賑やかな声が戻ってきた。
鈴木遥も、以前の太陽のような笑顔とは少し違う、雨上がりの虹のような穏やかで深みのある微笑みを浮かべられるようになっていた。
道真と橘凛の関係も、夏の間にいくつかの出来事を共有したことで、友人という枠には収まりきらない、より確かな何かが芽生え始めているのを、お互い意識しないようにしながらも感じていた。
そんな新学期の初日、ホームルームで担任教師から紹介されたのは、息をのむほどの美少女だった。
「今日からこのクラスに仲間入りする、一条茜さんだ」
腰まである艶やかな黒髪、大きな瞳、モデルのようなスタイル。
そして、誰をも魅了するような華やかな笑顔。
茜は、優雅な仕草で一礼すると、鈴を振るような声で挨拶した。
「一条茜です。今日から皆さんと一緒に勉強できることを楽しみにしています。どうぞよろしくお願いします」
その完璧な立ち居振る舞いに、教室は一瞬にして静まり返り、次の瞬間、男子生徒たちからはため息のような歓声が、女子生徒たちからも憧憬の眼差しが注がれた。
成績優秀、スポーツ万能、おまけに以前の学校では生徒会役員も務めていたという噂まで流れ、茜は瞬く間にクラスの人気者となった。
凛は、そんな茜の存在を、複雑な思いで見つめていた。
非の打ち所のない完璧さ。
そして、休み時間に、ごく自然に真に話しかけ、楽しそうに談笑している茜の姿を見るたび、胸の奥がチリリと痛むのを感じずにはいられなかった。
それは、明確なライバル意識と、自分にはないものへの焦り、そしてほんの少しの嫉妬だったのかもしれない。
しかし、茜と接する時間が増えるにつれ、凛は彼女の完璧さにどこか違和感を覚えるようになっていた。
常に笑顔を絶やさず、誰にでも親切で、どんな話題にもそつなく対応する茜。
だが、その笑顔はどこか作り物めいて見え、会話をしていても、彼女自身の本当の気持ちが伝わってこない。
まるで、美しく精巧な仮面を被っているかのように。
真もまた、茜のその「完璧な仮面」の下に隠された、微かな揺らぎを感じ取っていた。
ふとした瞬間に彼女が見せる、遠くを見るような寂しげな瞳や、誰にも気づかれないようにそっとつく深いため息。
周囲の期待に応えようと、常に神経を張り詰めているかのような緊張感。
真は、他の男子生徒たちのように彼女の容姿やスペックに浮かれることなく、どこか本質を見透かすような、それでいて少しからかうような態度で茜に接した。
「よお、一条。今日も一日、パーフェクトクイーンのお勤め、ご苦労さん」
昼休み、一人で窓際に立っていた茜に、真がいつもの調子で声をかける。
「…何のことかしら、道君。私はいつも通りよ」
茜は笑顔で返すものの、その瞳の奥が一瞬だけ鋭く光ったのを、真は見逃さなかった。
茜にとっても、真の掴みどころのない態度は、興味と同時に苛立ちを覚えさせるものだった。
ある日の調理実習。
エプロン姿も様になっている茜だったが、いざ包丁を握ると、その手つきは驚くほどぎこちなく、野菜の皮むき一つにも苦戦していた。
班のメンバーが
「茜ちゃん、大丈夫?」
「手伝おうか?」
と心配そうに声をかけると、茜は顔を赤らめ、「だ、大丈夫よ!ちょっと、この包丁が手に馴染まないだけだから…!」と必死で取り繕おうとする。
その狼狽ぶりは、普段の彼女からは想像もつかないものだった。
周囲は「茜ちゃんでも苦手なことあるんだねー」と微笑ましく見守っていたが、凛は、その時の茜の表情に浮かんだ、深い羞恥心と焦りの色を見逃さなかった。
彼女が「完璧な一条茜」というイメージに、どれほど強く縛られているのかを垣間見た気がした。
その放課後、茜が一人、誰もいない教室でため息をついているところに、真が通りかかった。
茜は、机に突っ伏して、小さな声で何かを呟いている。
「どうして私は…こんなこともできないの…」
「おーっと、パーフェクトクイーンが、城壁の隅でしょげてんのか? それとも、次の完璧な作戦でも練ってんのか?」
真の軽口に、茜は勢いよく顔を上げた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「…うるさいわね! あなたには関係ないでしょ!」
感情的な茜の言葉を、真はいつものように飄々と受け流す。
「まあまあ、そうカッカすんなって。ところでさ、一条」
真は、茜の隣の席に腰を下ろすと、窓の外を眺めながら言った。
「人間ってさ、いろんな顔があって当たり前じゃねえの? その日の気分とか、一緒にいる相手とか、場所によって、コロコロ変わるのが普通だろ。毎日同じ色の服着てるわけじゃねえんだからさ、心だって、いろんな服、とっかえひっかえ着替えたっていいんじゃねえか?」
茜は、真の言葉の意味が分からず、戸惑った表情を浮かべる。
「『本当の自分』なんてものを必死に探したって、そんなもん、どこにもいやしねえよ。だって、常に変わり続けてるんだからな、俺も、あんたも。だから、無理して一つの『完璧な自分』を演じ続ける必要なんて、どこにもねえんだぜ。今、ここにいるあんたが、紛れもなく、あんただろ」
真の言葉は、まるで万華鏡の模様のように、茜の心の中で様々な形に変化しながら反響した。
反発したい気持ちと、どこかでその言葉に救いを求めている自分がいることに、茜は気づき始めていた。
「完璧な一条茜」という重たい仮面。
それを脱ぎ捨てたいと願いながらも、素顔の自分を見せるのが怖い。
真の言葉は、そんな彼女の心の最も柔らかな部分を、優しく、しかし容赦なく揺さぶり始めていた。