第4話 「流れる雲と、心に咲く花 (後編)」
道真の言葉は、鈴木遥の心に静かな雨のように降り注ぎ、乾ききっていた感情の大地を少しずつ潤していった。
「変わっていくからこそ、新しい花も咲く…」その言葉を何度も胸の中で繰り返しながら、遥は自分の心と向き合い始めた。
無理に忘れようとするのではなく、ただ、そこにある悲しみや寂しさを、ありのまに感じてみようと思ったのだ。
その週末、遥は一人、自分の部屋で彼との思い出の品々をそっと取り出した。
一緒に撮った写真、彼がくれた小さなキーホルダー、二人で笑い転げた映画の半券…。
一つ一つ手に取るたびに、楽しかった記憶が鮮やかに蘇り、涙が止めどなく溢れた。
しかし、それは以前のような、ただ苦しいだけの涙ではなかった。
ありがとう、楽しかったよ、と心の中で呟きながら、遥はそれらの品を、お気に入りの綺麗な空き箱に一つ一つ大切に収めていった。
まるで、色褪せない花の押し花を作るように。
それが、彼女なりの「心のアルバム」の最初のページだった。
学校では、橘凛や友人たちが、遥のそんな変化を敏感に感じ取り、変わらぬ優しさで彼女に寄り添った。
無理に元気を出させようとしたり、詮索したりするのではなく、遥が話したい時にはじっくりと耳を傾け、一人でいたい時にはそっと距離を置いた。
「遥、今度新しくできたカフェ、一緒に行かない? スイーツが美味しいんだって」
「この雑誌の服、遥に似合いそうだよ」
そんな何気ない誘いや会話が、遥の心を少しずつ日常の温かさへと引き戻していった。
文化祭の準備で、衣装のデザインについて意見を求められたり、クラスメイトと笑い合ったりする中で、遥は自分が一人ではないことを実感していた。
真もまた、遥のことを気にかけていた。
ある日の放課後、教室で一人、窓の外を眺めていた遥に、真が声をかけた。
「よお、鈴木。今日の空、すげえご機嫌な青色してるぜ。たまには上向いて、深呼吸でもしてみろよ。昨日とは違う匂いがするかもしんねえ」
遥が空を見上げると、そこにはどこまでも広がる青空と、ゆっくりと形を変えながら流れていく白い雲があった。
「過去の名作映画ばっかリピートしてても、期待の新作は見逃しちまうぜ? 今日のあんたにしか撮れない、あんただけの『今日の物語』を楽しまねえと、もったいないじゃんか」
真の言葉は、いつもどこかとぼけているようで、それでいて不思議と心の奥に届く。
遥は、ふっと小さく微笑んだ。
少しずつ、遥の心に変化が訪れていた。
悲しみが完全に消えたわけではない。
ふとした瞬間に、胸が締め付けられるような寂しさに襲われることもまだある。
けれど、その感情に飲み込まれるのではなく、それと共にありながら、新しい一歩を踏み出そうとし始めていた。
凛に誘われて参加した写真部の体験入部で、ファインダー越しに見る世界が新鮮に映り、何気ない日常の中にも美しい瞬間がたくさん隠れていることに気づいた。
また、近所の子供たちに勉強を教えるボランティア活動にも参加し、誰かの役に立つことの喜びを久しぶりに感じていた。
そして、夏休みを目前に控えた終業式の日。
クラスでささやかな「お楽しみ会」が開かれることになった。
それぞれの生徒が、得意なことや夏休みの抱負などを発表する中、遥は少し緊張した面持ちで前に立った。
「私…この前、初めて撮った写真です」
彼女が掲げたのは、雨上がりの公園で、葉っぱの上でキラキラと輝く雫を捉えた一枚だった。
それは、決してプロのような完璧な写真ではなかったけれど、そこには雨上がりの澄んだ空気と、小さな雫に映る世界の美しさ、そして何よりも、それを見つけた遥自身の心の瑞々しさが凝縮されているようだった。
「…辛いこともあったけど、でも、ちゃんと前を向いて、新しいことにも挑戦していきたいなって、今は思ってます」
少し震える声で、しかしはっきりと言い切った遥の顔には、無理に作ったものではない、自然で、そしてどこか吹っ切れたような、美しい笑顔が浮かんでいた。
それは、悲しみを乗り越えた強さと、未来への小さな希望に彩られた、雨上がりの虹のような笑顔だった。
教室は、温かい拍手に包まれた。凛は、遥のその笑顔を見て、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
真は、いつものように腕を組んで壁に寄りかかりながら、満足そうに小さく頷いている。
お楽しみ会が終わり、教室の窓から夕焼け空を眺めていた遥が、ぽつりと呟いた。
「雲はね、どんどん形を変えて流れていくけど…空はずっと、変わらずにそこにあるんだね」
その言葉には、変化の必然性を受け入れ、それでも変わらない何か大切なものを見つけたような、静かで深い響きがあった。
夏休みが、もうすぐ始まる。
生徒たちは、それぞれの思いと、道真がそっと手渡してくれた「心のカギ」を胸に、新たな季節へと歩み出していく。
そして、その先には、一条茜という新しい風が吹き荒れる予感も、どこかに漂っていた。